EP.1 炎の記憶(3)
複数の足音が砂利道を叩く。
騒ぎを知って起き出した住民は、案の定家屋から飛び出して路地や道端に集まり始めていた。
「どいてくれ、急いでるんだ!」
クリスはそんな野次馬の中を掻き分けて急ぐ。
その後に続くのは、騎士団の詰め所で交代の番をしていた兵士と、その応援を受けて駆けつけた騎士団の関係者達だった。
「王立騎士団だ! 悪いが道を開けてくれ、急いでいる!」
その声のおかげか、密集していた人の波が左右に割れ、ようやくまともな道が出来上がる。
「隊長、火の手が!」
「分かっている。今はとにかく急ぐんだ! 現場に到着次第、部隊を二つに編成しろ。優先順位は大聖堂の鎮火作業だ!」
「了解!」
城門に沿った大通りを何人もの騎士達が駆ける。
ようやく視界の先に中庭へと続く入り口が見え始めていた。
と、ちょうどそのとき、中庭から通りへと走るいくつかの人影が見えた。
遠目だが、その人影はどれも同じ深い青色の鎧に身をまとった騎士のようにも見えた。
「あれは……?」
クリスは不審に思ったが、声をかける間もなくそれらの人影は夜の闇に紛れて姿を消してしまった。
気にならないと言えば嘘になるが、今はそれどころではない。
必死になって足を動かし、ようやく中庭に続く入り口へとクリス達は辿り着く。
その、直後に。
「……え」
クリスは目の前の光景に、思わずそんな間の抜けた声を上げてしまった。
それは何もクリスだけに限ったことではなかった。
後続の騎士や兵士達、その誰もが目の前にある光景に一瞬ではあるが呆然としてしまっていた。
そこには。
今まさに振り下ろされた漆黒の剣に弾き飛ばされ、城壁に体を打ちつけた一人の男が血を吐いて倒れている姿があったのだから。
「あ……」
止まりかけた時間が動き出す。
永遠とも思えるような一瞬の中で、クリスはかろうじて吐き出す言葉を探し出す。
「兄貴!」
言葉を発すると同時、クリスは駆け寄った。
城壁に背中を預け、その場に崩れ落ちた騎士……アベルのもとへ。
「……っ、何をしている!」
一瞬遅れ、後続の騎士の中の一人が我に返って叫んだ。
「すぐに火を消すのだ! 手の空いている者は負傷者の救援に向かえ!」
「り、了解!」
その言葉を合図に、二十人以上の騎士や兵士が各々の作業へと向かう。
大多数は今なお燃え盛る大聖堂の鎮火作業に向かい、残された数人が傷を負った兵士達のもとへと駆けつけた。
そんな中、クリスは血を吐いて上着を真っ赤に染めたアベルの体を必死に揺すっていた。
「兄貴、兄貴ってば! しっかりしてくれよ!」
肩を揺らし、しきりにクリスは叫ぶ。
「……ぐ、あ……」
その甲斐あってか、アベルは苦しそうな表情ではあるが声を漏らした。
「兄貴、よかった……少し待ってくれよ、すぐに手当てをするから」
クリスはすぐさま自分の上着の腕の部分を強引に破り、その生地で出血のあるアベルの右肩を止血していく。
「どくんだ!」
その作業が終わった頃、一緒にやってきた兵士がやってきた。
「応急処置は私に任せろ。君は負傷した兵と共に下がっているんだ」
「だ、だけど……」
「気持ちは分かる。だが、今この場で君にできることなどたかが知れている。今我々がすることは、この場から生還することだ」
「……っ、分かった」
言いたいことの全てを呑み込んで、クリスは兵の指示に従った。
悔しいが、その言葉は正しかった。
自分達は人間だ。
神に祈ることはできても、奇跡を起こすことなどできるはずもない。
クリスは立ち上がり、すでに撤退を始めている兵達に紛れて一度通りまで出ようとして
「…………」
視界の先に、その男を見た。
「…………」
その男は、明らかにその場で一人だけ浮いていた。
言い換えればそれは、圧倒的なまでの威圧感と存在感。
全身を漆黒の闇のような黒い鎧に包み、その手には刀身までもが黒一色に塗り潰された剣を握っている。
その男は騎士団の人間ではないことは一目瞭然だった。
現に今も、その男の周囲には何人もの騎士達が包囲網を築くようにして円陣を作り出している。
疑うなというのが無理な話だった。
その男こそが、火の手を放った張本人か、あるいはその関係者に間違いはない。
「……ふん」
男は小さく鼻で笑うと、剣を握った右手をゆるりとした動作で動かした。
周囲を囲む騎士達に緊張が走る。
が、その思惑とは逆に、男は手にしたその剣を自らの鞘の中へとしまいこ込んだ。
「王都の騎士とはどれほどのものかと思ったが、所詮この程度か」
「な、何!?」
男の何気ないその言葉に、騎士の中の一人が噛み付く。
しかし男は囲まれているという状況にもかかわらず、焦る素振りの一つさえ見せずに静かに続ける。
「そこの騎士……名をアベル・シュバルツフォードと名乗ったか。その男もおそらく、貴様ら騎士団の中ではそれなりの強さを誇る者なのだろうが……それがそのザマでは、他など警戒にまるで値しない」
「き、貴様!」
先ほどとは別の騎士が激昂するが、その言葉とは裏腹に足は動かなかった。
男はその様子を見て、再び音もなく小さく笑う。
嘲りのような、落胆のような、とにもかくにも人を小ばかにしたような笑いだ。
「そうだ、それでいい。命が惜しくば、そうやって足を竦ませていろ。もっとも」
言いかけ、男はクリス達に背を向ける。
「貴様らなど、もとから相手にする価値も理由もない。せいぜい弱者を救って愉悦に浸っているのだな」
それは、明らかに騎士という存在そのものを見下した言葉。
この場にいる騎士や兵士の全員が、その言葉に少なからずの怒りを覚えたはずだ。
だが、それでもなお。
「…………っ」
「く……!」
誰一人として、去りゆく男の背中に向けて斬りかかることができない。
口には出さずとも、その場の誰もが肌で理解していたのだ。
例え隙だらけの背中から斬りかかったところで、万に一つも勝ち目はないのだと。
男の背中が揺れる。
炎に照らされながら、その背中が一歩ずつ遠ざかっていく。
気が付けばクリスは、自分でも信じられないほどの力で拳を握り締めていた。
そこにあるのは確かな怒り。
騎士という存在を汚い言葉で踏みにじられたこと。
その言葉に対して一言も言い返すことができなかったこと。
今もこうして、何もできずに立ち尽くしたままでいること。
そして、何よりも。
「…………待てよ」
その場にいた全員が、クリスを見た。
それは、背を向けて去ろうとしていた男さえ、例外ではない。
「……お前は」
何よりも、耐えられなかったのは。
「お前だけは……」
何よりも、許せなかったのは。
今日まで共に剣の道を歩み、実の兄弟のように接してきてくれたもっとも親しい一人の『騎士』を……傷つけたことだ。
「――お前だけは、許さない!」
クリスは懐から自分の剣を抜いた。
その様子を見た誰もが、クリスを止めようとして体を動かそうとした。
それを遮ったのは
「……いい目だ」
他でもない、黒い鎧の男だった。
「だが」
そして男は、一度はしまった剣を再び抜く。
「そうして剣を向けた以上、覚悟はできているだろうな」
「…………っ」
足はまだ震えていた。
が、引き下がるつもりも前言を撤回するつもりも毛頭なかった。
大切な人を傷つけられた。
戦う理由なんて、それだけで十分だった。
「ああ……」
クリスは剣を構える。
その切っ先を、真っ直ぐに男へと向けて。
「……いいだろう。ならば俺も、子供だからといって容赦はせん。貴様を一人の騎士として認め、倒す」
男の目に鋭さが戻る。
たったそれだけで、全身が無数の針に貫かれたような感覚を覚えた。
言うまでもなく、力の差は歴然としていた。
地を這う蟻が象に戦いを挑むようなものだ。
勝敗など最初から見えていた。
敗北が何を意味するかも、何もかも。
ただ、それでも。
退く理由は、どこにもなかった。
戦わなければならない理由だけが、いくつもあった。
たとえ刺し違えてでも、あの男に一撃を見舞う。
絶対に。
「あああああっ!」
叫び、クリスは地を蹴った。
一瞬遅れて、近くにいた兵がその背中に手を伸ばす。
だが、その手は虚しく空を切るだけだった。
クリスは全力で走り、瞬く間に男との距離を縮める。
体格の関係もあり、クリスの剣では男の間合いの外から攻撃をしても当たるわけがない。
なので、どうあっても一度は男の剣の間合いまで入り込まなくてはならない。
無論、そこに振るわれるであろう一撃を避けながらだ。
男の間合いまであと一歩。
クリスは奥歯を思い切り噛み締めて、その一歩を踏み込んだ。
だが、そこに男の一撃はやってこない。
クリスの剣の間合いまで、もうあと二歩。
踏み込みを強く、剣に体重を乗せ始める。
あと一歩。
それでも男は動かない。
真っ直ぐにクリスの目を見据え、剣を構えているだけだ。
さらに一歩。
最後の踏み込みと同時に、クリスは勢いよく己が剣を振るう。
全体重を乗せた渾身の一撃だった。
単純な威力だけなら、大の大人のそれに匹敵するほどのもの。
だが、それでも。
結局その剣は、ただただ虚しく空を切るだけだった。
「……っ!」
男はわずかに体の中心をずらしただけで、クリスの剣の軌跡をしっかりと見切っていた。
「思い切りはいい。素質もある。鍛錬も積んでいる」
聞き方によっては賛辞とも取れるその言葉だったが、クリスの耳には半分も届いてはいなかった。
どれだけ評価をもらえても、現実は違う。
その通りだと言わんばかりに、男は言葉を続ける。
「だが、それだけだ」
そして、一撃が振るわれる。
確実に絶命に足る威力の一撃。
どう足掻いたところで、避けることなどできない間合い。
そして、黒き剣がゆらりと揺れる。
直後に。
ガギィンと、金属同士がぶつかり合う大きな音が鳴り響いた。
いくつかの火花を散らし、クリスの握っていた剣が回転しながら宙を舞う。
手元を離れた剣は、数メートル離れた中庭の芝生の上に音を立てて突き刺さった。
奇しくもそれは、まるで騎士の墓標のようにも見えた。
「…………」
クリスはその場に、音もなく両膝を折って崩れ落ちた。
「……終わりだ」
そして男は剣をかざす。
そのまま振り下ろせば、確実にクリスは絶命する。
「さらばだ。若き騎士よ」
そして、振り下ろされる剣。
だが。
「ネイグさん、ごめん……」
うわごとのように呟かれたクリスの言葉。
瞬間、男の剣がピタリと止まった。
同時に、周囲の時間も確かに止まっていた。
誰もがクリスの死を覚悟した。
周囲にいた騎士の何人かは、捨て身覚悟で剣を抜きかけていたほどだ。
だが、それらとは一切の関係もなく、男の剣は空中で静止していた。
当然、何があったかなど分かるわけもない。
だが、男は小さく呟く。
「……貴様、なぜ……」
言いかけ、改めてクリスを見て、男の息がわずかに止まる。
「赤い髪の、騎士……まさか、お前は……!?」
数秒の空白の後、男は剣を静かに引いた。
そして音もなく鞘の中にしまうと、クリスやその場にいた騎士達に再び背を向けた。
「……興醒めだ。今宵はここで幕引きとするか」
言うだけ言うと、男は何事もなかったかのように去っていった。
その背中を追う者は、もういない。
それから夜通しで大聖堂の鎮火は行われ、ようやく火を消し止めることができたのは朝方になった頃だった。
表向きは火の不始末ということで済まされるようだが、実際のところの原因はまだよく分かってはいない。
クリスが気が付いたのは、すっかり夜が明けて朝になったときだった。
いつの間に運ばれてきたのか、目を覚ますとそこは騎士団の宿営所で、すぐ隣には体のあちこちに包帯を巻いたアベルの姿があった。
どうやらあのまま意識を失い、ここまで運ばれてきたらしい。
ちょうどその場にやってきていた街医者の話によれば、アベルは全身の打撲がひどいものの、命に別状はないとのことだった。
「そっか……よかった。兄貴、助かるんだ……」
口に出してようやく安心できたのか、途端にクリスの全身に疲れが襲ってきた。
そんな様子を見た街医者の男が声をかける、
「君もあまり無理をしないほうがいい。怪我らしい怪我はないものの、体がひどく衰弱している。もう少しおとなしく寝ていることだ」
言われてみれば体のあちこちに妙なだるさが残っている気がする。
もっとも、今こうして生きているだけでも十分に運が良かったのだが。
「……全然、敵わなかった……」
昨夜の場面が頭の中に甦る。
圧倒的なほどの力の差。
それはまさしく、話にならないというほどの。
「……く、そ……!」
過去にないほどの悔しさがこみ上げてきた。
届かない。
今の自分では、絶対にあの場所には届かない。
現実を思い知らされた。
だが、それでも今はアベルが無事であったことを喜ぶべきだろう。
しかし、それにしても……。
「……どうして」
クリスは思う。
「どうしてアイツは、俺のことを生かしておいたんだ……?」
目を閉じれば鮮明に思い出せる。
殺そうと思えばいくらでも殺せたはずなのに。
それだけの力を、あの男は兼ね備えていた。
わけが分からない。
だが、それよりも何よりも気になるのは
「……アイツ、珍しい剣を持ってたな」
思い出すのは漆黒の刀身を持つ剣。
その記憶は、昨夜ではなくもっと昔へとさかのぼる。
そう、それはもう七年以上も昔のこと。
「――あの剣、ネイグさんが持ってたのとそっくりだ……」