EP.3 聖女と聖杯(4)
それは『約束』ではなかった。
それでも彼は、言ってくれた。
『さようなら』でもなく、『バイバイ』でもなく。
ただ、一言。
――彼は、『またね』と、言ってくれた。
「ルニアから離れろ」
わずかに強張った声でクリスは言う。
すでに仲間の一人は戦力外になっているにもかかわらず、もう一人の男は不気味なほどに静かだった。
一言も発さぬまま視線だけをクリスに向け直すと、腰周りにしまってあった短剣を取り出し構える。
暗殺者特有の思考回路なのだろうか、その場における優先順位が男の中で瞬時に切り替わる。
すなわち、聖女の捕獲から、目の前の外敵の排除へと。
男は手の中で短剣を遊ぶかのように転がし、すばやく逆手に持ち替えた。
直後に、音もなく地を蹴ってクリスへと飛ぶ。
およそ五メートルほどの距離が一瞬でゼロに縮まる。
素早く振り抜くように描かれた斬撃の軌跡は、間違いなく急所である首を切り落とす軌道ををなぞっている。
クリスはその一撃を剣の腹で受ける。
ギィンという音が鳴り響き、単純な威力の余波で足が一メートルほど地を滑った。
「っ!」
舌打ちをした直後には、男は目の前から姿を消していた。
一瞬の空白がクリスを襲う。
「クリスさん、上です!」
それを救ったのは、聖堂の中で座り込んだままのルニアの声だった。
クリスの意識が言葉に刺激され、かろうじて反応が間に合う。
上空からの一撃を遮るため、クリスは剣を横にして追撃を防ぐ。
再び金属音が鳴り響き、男の攻撃は受け止められた。
「こ、の!」
クリスは追撃を受け止めたそのままの体勢から剣を押し上げ、男を上空に打ち上げる。
が、弾かれた男はその勢いを殺すことなく空中で体を一回転させ、何事もなかったかのように平然と着地した。
それと同時に、短剣を握る右手ではない空いていた左手が懐へともぐる。
そこから何かを取り出したのか、銀色に光る何かが矢のように投げ飛ばされた。
「く……」
それら全部を剣で叩き落すことは無理だと判断し、クリスは体の向きを変えて回避を取る。
が、三本のうちの二本は無傷で回避できたが、最後の三本目が左足をわずかに切り裂いた。
傷そのものは浅いが、左足の太腿辺りからはうっすらと血が滲み出している。
とはいえ、そこで立ち止まっている暇はない。
すでに男は地を蹴り、クリスとの間合いを詰めている。
一撃二撃と応じていくクリスだが、しだいに手数を受けきれなくなる。
一本の剣で一本の短剣を受けているわけだが、明らかに武器としての用途の差が違うのだ。
どちらも近接戦闘における武器という共通点こそあるものの、扱いやすさが決定的に異なる。
剣はその性質上、一撃に腕力と剣そのものの重さを乗せて強力な一撃を生み出すことができる。
当然その一撃のみで勝負を決することも珍しくはない。
対して短剣はというと、こちらは一撃の殺傷能力は剣に比べて遥かに劣る。
が、その代わりに扱いやすく小回りが利き、携帯性に長けるという利点がある。
今のようなほぼ密着に近い膠着状態であれば、明らかに有利なのは短剣だ。
もちろん一撃一撃は致命傷には繋がりにくいものではあるが、それでも手数を増やせばいずれはそれに足る。
それに加えて、短剣にはもう一つの恐ろしい側面がある。
それが毒などによる付加効果だ。
威力こそ低い短剣ではあるが、その刃に毒などを塗りつけることによって効果は一気に上昇する。
たとえどんな小さなかすり傷であろうと、刃に塗られた毒はそのわずかな傷口から侵入し、時間で相手の自由を奪う。
一瞬で殺せるような猛毒もあれば、体を一時的に麻痺させたり、昏倒させたりするものまで様々だろう。
相手が暗殺者であることを考えればその危険性はさらに増す。
ましてや、相手があの蒼の旅団となればなおさらだ。
分が悪いと、クリスは素直にそう思った。
正直なところ、防戦一方というのが現状だった。
自分が新しい剣を完全に使いこなせていない部分を差し引いても、状況は好ましくない。
それはつまり、単純な力の差を意味していることに等しい。
「……っ!」
クリスはこの数年の間で確かに成長し、強くなった。
まだ騎士としては未熟な部分も多々あるが、年上の騎士相手にも決して引けを取らないくらいの力は兼ね備えている。
ただ、それだけでは戦況はひっくり返らない。
騎士としての力とはつまり、何かを守るための強さだ。
対して蒼の旅団の男は、殺すことに特化した能力を兼ね備えている。
全く正反対の目的のために得た力。
何一つ捨てきれない力と、何もかもを捨て去った力とでは、そこに決定的な差が生まれる。
失うもののない殺すためだけの力は、それゆえに決して恐れない。
機械のように冷徹に、目標を機能停止に追い込むことだけを考えればいいのだから。
しかし、だからこそ。
その攻撃は、ある程度直線的にならざるをえない。
やや距離を置いて、男は左手にもう一本の短剣を握る。
これで両手にそれぞれ一本の武器。
確実に標的をしとめる体勢だ。
対するクリスは、それでもなお受けに回る選択肢しかない。
こちらから動けば機動性に勝る相手のほうが明らかに有利だからだ。
男もその部分は十分に理解しているだろう。
しかし、それでも男は動く。
殺すために。
それは余裕と自信の二つからくるものだろう。
これまでの交戦で実力を推し量り、確実に殺せると判断しての行動だ。
間合いが瞬時になくなる。
一撃目はまず左手。
左下から右上に切り上げるように、クリスの首筋を目掛けて振るわれる。
仮にそれを回避したとしても、追撃の右手でがら空きになった心臓を貫くことは簡単だ。
クリスもそのことは分かっていた。
だからこそ、あえて
「……!?」
クリスはその一撃目を、回避しなかった。
具体的に言うのならば、直前まで両手で握っていた剣を左手一本に持ち替えて、空いた右手で男の左手首を強引に受け止めたのだ。
だからこそ、男の左手の刃はギリギリのところでクリスには届かなかった。
クリスはそのまま、男の左腕を自分の体の右側へと引き寄せる。
男のバランスががくんと崩れる。
完全に想定の外だった対応に、頭と体が反応しきれていないのだ。
そのまま勢いを殺さずに、クリスは自分と男の位置を百八十度入れ替える。
それはちょうど、舞踏会でダンスでもしているかのように。
やがて体の位置が完全に入れ替わった頃、クリスは男の左手を解放する。
が、勢いはすぐになくなることはなく、男はバランスを崩したままの不安定な体制で方膝を折ってしまう。
その一瞬で、クリスは自由になった右手を再び剣の柄に。
「おおおおおっ!」
そのまま遠心力を上乗せし、大きく剣を振るう。
回避する術は、ない。
クリスの剣が、男の胸を斜めに切り裂いた。
「が、あ……」
それだけの言葉を残して、男はその場に倒れこんだ。
横たわったその体と地面の隙間から、じわりとした血が滲み出していた。
「……あ。やった、のか……?」
ほんの一瞬の空白がクリスを襲う。
目の前には、立った今自らの手で斬り伏せた男が横たわっている。
「…………」
しばらく呆然と立ち尽くし、やがてクリスはハッとなって慌てて振り返った。
崩れ落ちた聖堂の扉の中。
そこに座り込んでいたはずのルニアが、いない。
クリスは急いで聖堂の中へと走る。
が、そこにもルニアの姿はない。
まさかと思ったが、最初の一撃で扉後と吹き飛ばした男はその場でまだ気を失ったままだった。
だとしたら、ルニアは一体どこへ行ってしまったのか。
「っ!?」
と、わずかに耳に届く声があった。
クリスはその声の方向に急ぐ。
廊下の奥に、ルニアはいた。
「レイモンド司教、しっかりしてください!」
そしてその場に座り込んで、必死に言葉をかけていた。
「ルニア!」
クリスは慌ててその名を呼び、急いで駆け寄る。
「クリス、さん……」
クリスが覗き込んで見ると、そこには全身から血を流したまま動かないレイモンドの姿があった。
「レイ、モンドさん……」
クリスがその名を呼ぶと、レイモンドの閉じられた目がうっすらと開いた。
「……ルニア、様。それに、あなたは昼間の……」
途絶え途絶えの痛々しい声。
それでもレイモンドはゆっくりと視線を巡らす。
そしてそこに無事な姿のルニアがいることを確かめると、嬉しそうに微笑んだ。
「……あの、男達は……?」
「……心配はありません。クリスさんが、力を貸してくれました」
「あなた、が……?」
レイモンドはゆっくりとクリスを見上げる。
そしてその胸の小さな紋章に気が付き、わずかに驚いた。
「そう、ですか。あなたは、リンガードの……騎士だったのですね」
「……はい」
「……よくぞ、ルニア様を守ってくださいました。何と、お礼を言って、いいか……」
言いかけたところで、レイモンドは苦痛に表情を歪めた。
「っ、司教、ジッとしていてください。すぐに私が」
言いかけたルニアの言葉を、しかしレイモンドは受け入れない。
小さく首を横に振り、重なったその手を遠ざける。
「……いいの、です。ルニア様、これは……私の、罪なのですから」
「何を、言って……」
「……今日まで、あなたを聖女としてしか扱ってこなかった、報いなのです。私は……私達は、一人の少女としての、あなたの人生を……大きく狂わせて、しまいました。そのことを、何と……お詫びしていいのか……」
「……っ、そんな……そんな、こと……っ!」
「……知って、いました」
「え……?」
「あなたが、毎日窓の外を眺めて涙をこらえていたことを」
「あ……」
レイモンドはルニアの手に自分の手を重ね、続ける。
「許してくれとは、言いません。あなたの人生を狂わせた原因は、確かに私にもあるのですから」
「…………」
「……だから、もう、いいのです。私は私の罪を、このまま持って行きます。もう二度と、あなたが涙を流す姿は、見たくありませんから……」
「……レイ、モンドさん……」
ルニアの手が震える。
一度は止まったはずの涙が、また溢れ出してくる。
「……ありがとう」
「……っ!」
どうして、そんなことを言うんだと。
ルニアは叫んでしまいたかった。
しかし、声が出ない。
もっともっと、叫びたいことや伝えたいこと、言いたいことが山のようにあるのに。
言葉はちっとも、声になって出てきてくれない。
ボロボロと、みっともないくらいの涙だけが零れ落ちていく。
「ち、がう……私、は……私は……!」
何もかもが言葉にならない。
何も言えばいいのか、頭の中がグチャグチャでわけが分からない。
「……覚えていますか? あなたが初めてこの場所にやってきて、私と出会ったときのことを……」
涙で何も返せないルニアは、それでも首を強く縦に振った。
「……あの日、あなたは初めて出会った私の名前を、すぐに覚えてくれましたね。他の修道士についても、同様に……」
レイモンドは目を閉じる。
昔日の思いを噛み締めるように。
「ずいぶんと月日は経ってしまいましたが、私も今、あのときのあなたと同じ気持ちです。あなたは、我々の名前を覚えることで、幸せを祈ってくれていた。だから、最後に私も……聖女としてではなく、一人の少女として、あなたの幸せを願いたい……」
目を閉じたまま、レイモンドは静かに微笑む。
それはまるで、わが子に向けた偽りのない笑顔のように。
「……クリス君、だったか」
「はい」
「勝手な願いですまないが、一つだけ頼まれて、くれないだろうか……」
「……はい」
「……ルニア様を、守っていただけますか……?」
クリスは言葉には出さす、しかししっかりと首を縦に振った。
それを見て、レイモンドは心の底から安心したように微笑む。
そして、最後の言葉が贈られる。
「――生きてくれ、ルニア。生きて……今度は他人のためだけではなく、自分のための幸せを、手に……入れ…………」
それが、レイモンドの最後の言葉だった。
彼の手が、音も立てずに静かに落ちる。
最後まで、レイモンドは微笑みを失わなかった。
そうすることが、自分の最後の役目であるかのように。
「……ルニア」
呼ばれ、ルニアは静かに立ち上がる。
そして音もなく振り返り、そのままクリスの胸に顔をうずめた。
それに対して、クリスは何も言わなかった。
自分の胸に顔を押し付けたルニアの口から、かすかな嗚咽が漏れていたのを聞いてしまったからだ。
「……私、わ、たし…………な、かった……何も、できな……かった……」
「…………」
その言葉をクリスは黙って聞いていた。
かける言葉なんて、持ち合わせていなかった。
できることといえば、その震える小さな体をそっと抱きしめることくらいだった。
「――…………っ!」
声にならない声で、ルニアは泣いた。
それは、聖女でも何でもなく。
一人の少女としての、悲しさと悔しさの入り混じった涙だった。