seventh
未織と初めて喧嘩をした日、薄暗くなった部室棟で京夜の帰りを待っていた雪音に酷く怒られた。
仲直りしたことを伝えても、その説教は止まらないまま、結局最後の帰宅を伝える音が鳴り止むまで続いた。
前日に続いて、今日も沢山絞られた。たった二日で、色んな感情が出過ぎた。
結局ろくに小説も書けないまま、また一日が簡単に過ぎていった。
腹の虫が泣き喚く。
けたたましく鈍い音が響くと同時に、暗闇の中を京夜は目覚めた。
制服を来たままの自分と、鞄を適当に放り投げて飛び出た教材で散らかった部屋を目の当たりにする。
また適当にベッドに飛び込んでそのまま寝てしまったことに気がついて、やるせなく思った。
フラフラとしたまま、寮に付属してある小さな冷蔵庫を開ける。が、中には大した物は入っておらず、愕然とする。
帰ってきてから一、二時間だけ寝た訳ではないことは、すっきりした頭のことを考えれば分かる。カーテンから覗き込むと、寮は愚か電灯がついている建物が殆どなかった。
高校生の京夜が、今から外に出てしまえば警察に補導される時間帯だ。比較的実年齢より大人に見えるとは言え、詰問されるリスクを鑑みればコンビニに行くという選択肢は実質封じられている。
しかし腹は鳴る。食欲に満ち溢れているのに、寝過ごして寮の食事を取れなかった、実質詰み状態だ。
急場を凌ぐために、洗面所の蛇口を捻って、大量に水を飲む。カルキ臭い水を飲む行為はいつもなら躊躇うが、欲には勝てない。
満足がいくくらい飲んだ後、普段着に着替えてもう一眠りをする。
明日こそ、寮の食事を取るために。そう決意して目を瞑ると、すぐに意識が遠のいていった。
食事を取るために早起きするという決意は、得てして食事を摂れないものである。
時計を見て愕然とした。後二十分で授業が始まる時刻である。と言うことは、今から朝食を摂ることは出来ないのである。
朝食とは、遅刻してまで摂るべきものではない。学校に間に合う前提で作られているため、今行っても既に閉鎖している。
ガックリと項垂れながら、いつもよりも巻いて支度を始める。
――五分前に着けば、自販機でパンを買える。
最後まであがくために、大急ぎでシャワーを終わらした。
結論から言うと、間に合わなかった。校門をくぐった直後に始業ベルが鳴って、結局遅刻をする。
いつもであれば、寮からここまで、走れば五分ぐらい猶予を貰える。だが、空きっ腹で、じわじわと迫ってくる初夏、それを防ぐために流れる汗――
どうしようもない数の天敵に遮られ、何も口に含めることも出来ないままでいた。
「……君」
机で突っ伏している中、誰かが呼んでいる声が聞こえた。
一限目が終わったのだろうか。しかし返す元気もない。
机なのに、柔らかい感触が伝わるし、仰向けで寝ているような違和感を覚える。
「京夜君!」
パッと目を開く。壁が白一色で、普段の教室には見えない。
「京夜君、返事してってばー!」
「……未、織……か?」
上から未織が、京夜を見下ろしていた。
違和感は本当のようで、ようやくベッドで寝ていたことに気がついた。
どうやら保健室に運び込まれた事が分かった。確かに教室に着いた記憶がなく、下駄箱で靴を脱いだときから止まっていた。
キチンと閉まった真っ白なカーテン。そこに映える、可憐な女性。
密室ではないようで、密室のこの状況に、心臓がどくんと動く。
それと同時に、未だに呻く虫が、最後の力を振り絞るようにして音を鳴らした。
「お腹空いたの?」
「……あぁ」
最早恥を気にする状況でもなかった。
恐らく今後人生で一番素直に伝えるように言って、取っ手を持って、からがら起き上がった。
困ったように未織は笑って、袋を取り出す。
「これ、良かったら食べて良いよ」
「え……いい……のか?」
「うん!」
相変わらず顔を輝かしている未織から、コンビニの袋を貰う。
その中にあったサンドイッチを、貪るようにして食べる。
ひたすらに食すことに集中して、脇目も振らずに。
やっと食べ終わり、大きな溜息を吐いた。
「京夜君、何も食べてなかったんでしょ! だめだよー、ちゃんと食べないと、死んじゃうよー!」
「……すいません」
何も言い返すことが出来ず、死ぬなんて茶化した言葉にも突っ込めない。
今更ながら、前日口にした物を思い出すと、水と紅茶しかない事に気がついた。
それでは当たり前のように倒れる。
「貧血だって、ご飯食べて少し休めば大丈夫って先生が言ってたよ!」
「……そっか、今って……何時だ?」
「んー、もうすぐ三時間目終わるんじゃないかな?」
あっけらかんとして答える未織に、京夜は目を丸くしていた。
「いつから、いたんだ……?」
「えっとね、三時間目が始まる前からかなあ」
途中で先生から聞いてね、心配だったから。
なんて、元気に答えていた。
未織は、自分のために授業をサボったのだろうか。と、想像してしまった。
人のために休んだことをサボるなんて言い方はこの場合適していないかも知れないが、とにかく彼女は欠席した。
「……悪い」
「ううん、京夜君の寝顔、可愛かったから!」
「え……は?」
嬉々とした顔で、得意げにスマホから、自分の寝顔がしっかりと写った写真を見せられた。
睡眠中では抵抗が出来ないから、未織はしっかり写りが良くしていたのだ。
「……消せ」
「やだ!」
「お前なあ!」
「だめだもーん!」
念願の食事にありつけ、多少は気力を戻したから、抵抗するぐらいの気概はあった。
椅子に座っている美織を目掛けて、スマホを奪おうと腕を伸ばす。
それを躱して、未織が立ち上がって逃げようとする。が、京夜が肩に手をかける方が早かった。
京夜が考えている遥かに、未織の華奢な細い肩は、抵抗していても簡単に引っ張れてしまう。
まだ貧血気味で、力加減が狂っている偶然も重なったのは運の悪いことだった。強く引っ張った方も、拍子抜けのように反動で布団へ倒れて、引っ張られる方も、運悪くそのまま身体に乗っかった。
未織の柔らかな身体が、体温が、京夜を刺激した。未織を纏うほのかな香りも、それを助長していた。
事故とは言え、強引に身体を抱き寄せる様だった。
薄く仕切られたこの狭い空間にいる二人の時は、止まっているかのように、動かなくなった。
鼓動はより早くなる。走ったときの比ではないほどに、熱くなった血が高速で循環した。
「……京夜君は、やっぱり……変態さんです」
やがて未織がその時を動かすように、胸の上で、絞るように口にする。
「いや……本当にごめん……」
最早言い訳のしようがなかった。
セクハラなんて、罵声を浴びさせられても文句が言えないほどに、京夜は未織と密着する羽目になっている。
これが外なら大問題、よくて警察の説教だ。
「……罰として、消してあげないから」
「それは……ちょっと困る……」
「やだ……馬鹿」
そう吐き捨てるように言って、未織は京夜から離れた。
振り向かないまま、保健室から飛び出していく。
残された者は、まだ乗っかっているような、温かい感触を覚えたまま。
京夜はそのまま、腕で目を伏せた。