序章2
眠れないまでも目を瞑る先の暗黒。
その脳内映像の中では、悪意がスプレッドしていた。
その人物の悪意は実に凄まじく、人を渡る。伝染する。
どこまでも狂暴に狡猾に、周りを関係者を善悪の見境なく破壊していく。
昨日は旅の途中で妹が乗客の一人と口論になった。
その口論とやらがまた筆舌に尽くしがたい。
通路でもたついている家族がいて、妹が自分の客室に戻るときにそれに遭遇し、邪魔だねえと、いらん暴言を吐いた。するとその家族の高校生くらいの女の子と激しい口論が発生した。話の区切りをつけて一旦は終了したが、偶然にもその家族が隣の客室で、またトイレに行く際に口論になり、俺が仲裁というか、軽い脅迫を妹にするまで悪夢が続いた。
結果的に妹が嫌々謝って話は平行線になり、とりあえず一段落といったところである。
普通のようで普通からしたら普通じゃない。
でもどこにでもある。
だから困っている。
妹はいわゆる一種の人格の病気だった。
無論俺は人格に病気なんてないと思っている。ただし全ての人格特性を個性で収めるには、世の中の優しさや寛容は万能でない。人間には防衛本能がある。攻撃されたら、人によっては反撃は生理現象。攻撃し続ける人間はこの集団で生きる人間の社会では生きていけない。それが本当に個性といえるのか。
サイコパスは治るものでも治すものでもない。
故に——俺達の家族は空中分解した。
「うるせえよ」
その声で目を見開いた。
「おまえ、なに。もたついてんの。悪いんだよ。十分悪いんだよ。善人ぶってんな。悪いの。あんたは悪いの。どっちが被害者とかじゃなく、なんてアホなこというな。通路塞ぐな。邪魔なのは正論だろ。あんた道端に犬のうんこ転がってたら顔が歪むだろ。私にとってとろいやつは基本そうなの、だからっ!」
瞬間的に妹の上体が跳ね上がった。うぎゃっと。
隣の客室はドアがたまたま開いていて、そこを見越した妹がこれ見よがしにまた攻撃した。昨日の反撃だろう。ただし、携帯をみながら、SNSにでも吐くようにカモフラして。
ものすごい形相の隣客がこっちを覗いていた。
宇宙人でもみるように。
わかっていた。
浅く眠っていたが、なんか口論がさっきから耳で踊っていた。
妹の独り相撲だろう。ただし、口の先は観客に向いていた。この場合は隣客の家族だ。
カモフラしているから余計質が悪い。
多分妹の事だから、物理的ちょっかいも出してるだろう。なら黒だ。
その家族全員、よく知っている表情だった。
あの表情の次は、通報、が待っている。一昔前なら許されたかもしれない。時代が違う。
だからここで食い止める。
「ご、でででっでで!」
ごめんと言いたいのだろうけど、お互いの命がかかっているので、我慢してもらうしかない。
「ごごご、いだい!」
スタンガンはマックスで、電流を浴びた妹は大変痛がっている。
隣客の目の力が少し弱まった瞬間に俺は行動を止めた。
妹は謝るのも忘れて、床に崩れる。
その様子をみて、虐待じゃん、と早速広報活動に勤しむ隣客。
俺は立ち上がり、床でびくともしない妹を後目に隣客の客室ドアをノックした。
「すいません、それ待ってもらえますか」
ぎろっと、宇宙人を見る目で家族の一人、昨晩言い争いをした子供の、女の子の方が感情を顏に乗せる。
「いや、あの」
言葉は丁寧でも、攻撃してきた他人の親族に対しての表情は虫を見る眼だ。
「いや、お気持ちは察しますが、仮に今の珍事をSNSにばら撒いて、現行法で裁いてもらっても仮にそれがどれだけ今の正義であったとしても、あなたにも後悔が残る。きっとです。だから——」
俺は頭を床に打ち付けた。
「この通りです!」
土下座で全てを精算しようとする俺と、多分俺の土下座で視界が開けて、後ろの伸びてる妹の背中から煙が出ている事に気付き驚きの顔でこっちを見ているその家族と、床でぴくぴくしている妹と、全てを嘲笑うように世界を見下ろす、国という法の目。
歪んだ世界に生きている俺達に歪んだ世界にいる実感はない。
この世界に法の目を逃れる逃げ場がない限り、そこに気付くことはない。
衆人環視という名の鉄格子と、土手(こぶ付きだらけの田舎という意)送りという名の事実上の投獄。
特別差別法案。略して特サ法により、この国は犯罪者とそれに並ぶ者達。つまり、準犯罪軍という、犯罪をしそうな者達を誰でもいつなんどきも法に則って通報し、必要とあらば、法に則ってさえいれば、殺してもいい世界になった。