34.奴隷、再び……
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「先輩!」
開かれた扉ーーそこに立つ、少しだけ頬を染めた井川奈央。
特に驚きはしなかったけど、井川奈央のまっすぐな視線に躊躇って、俺は言葉なく立ち尽くす。
「は……は、隼人! 俺、売店行ってくるわ!」
向かい合う俺たちの空気感に戸惑ったのか、ヨロヨロと這い上がる功太は言葉を詰まらせながらそそくさと教室をあとにする。
その背中を無言で見送った。
戸惑ってるのは俺も同じなんだけど……っていう心の愚痴付きで。
それしてもこいつ、よく2年の教室まで来られたな。……背後の人集りを見るとそう思わずにはいられない。
サインをねだるヤツ。
思いつく限りの質問を吐き出すヤツ。
YUIの中学時代を理解してそれを止めるヤツ。
目的は違うにしても、学校中のヤツらがYUIを追っかけているんだろうなってほど、教室前の廊下は全て人で埋め尽くされている。
「ごめん、先輩。話したいことがあって来ちゃった」
そんな風に廊下の光景を眺めていると、井川奈央は自分の背後に向けられる俺の視線を察してか、ここでようやく開きっぱなしだった扉を閉めた。妙に冷静さを取り繕うように。
「……なんで眼鏡かけてんの?」
「あー……これ? なんかこっちのほうが先輩、普通に話してくれるかなって」
確かに。今まで2人で過ごしてきた時間のほとんどが眼鏡着用のYUIだったから、勝手に名付けた愛称がそうだったように、眼鏡をかけているほうが話しやすい。……ま、それはそうとして。
「で、どうしたんだよ?」
自分の机にもたれかかったまま尋ねた。
井川奈央は扉を入ってすぐのところ、後ろの掃除用ロッカー付近から動かない。
「……怒ってる?」
突然、俯き加減だった目線を上げて、寂しそうに胸元に右手を添えた。その仕草は、どことなく戸惑いと緊張を表しているように見える。
「別に。怒ってないよ。ただ、あんな形でみんなにカミングアウトするとは思ってなかったけどな」
思わずそっけない態度が滲み出た。
加えて完全な嘘。今はそうでもないけど、体育館ではめっちゃイライラしてたから。
「昨日、止めてくれたのにね。勝手なことしちゃって怒ってるかなって……」
「……外見てみ? 今だけじゃなくてさ、どうせ昼休み入るまでも散々追いかけ回されたんだろ?」
廊下に視線を向けながら言う。
井川奈央も釣られて廊下を振り返った。
「まあ、多少は……ね」
誤魔化そうと苦笑いで答えるが、全く誤魔化せてない。これのどこが多少なんだよ。つうかさーー
「こうなるのが嫌だったんだよな? だから引っ越しして地元離れて進学したんだろ? なのに、なんで?」
「体育館で言ったとおり……先輩を、自分と同じ嫌な気持ちにさせたくなかったから」
「……そうか。まあ確かに、お陰で俺の周りはかなり静かになったよ」
皮肉っぽく告げた。
誰も頼んでないし、そんな自己犠牲とか後味悪いだけだからっていう。
「昨日さ……先輩、"1度は注目されたい"って言ってたでしょ? あれ……たぶん私のために言ってくれたのかなって帰ってから思った。……ありがと」
「なんのお礼だよ。わかってて結局バラしてんだから意味わかんねえって」
井川奈央は下を向く。
俺も気まずさから視線を逸らした。
「奴隷辞めていいからにみんなには言うなって先輩の命令……破っちゃったしね……」
「……どの道もうみんな知ってるんだし今更奴隷も何もないって」
「先輩はさ……。私が奴隷辞めたくないから言うこと聞かなかったって、そうは思ったりしない?」
……突然何言い出すんだこいつ。そんなわけないだろ。
お前が"自分のために言ってくれた"ってわかってたのと一緒で、俺だってわかってるよ。けどーー
「俺もお前も頑固だからさ。お互い、相手のためにって気持ちが強くて引けなかったんだと思うけど、こっちが納得してないまま強行されたからさ。それでイライラしてたんだと思う」
「……ごめん」
「思ってた以上にキツかったわ。あれだけみんなに囲まれて質問されんの。これがずっと続くんなら、絶対バラすのは止めたほうがいいって今朝改めて思ったよ。その直後だったからな、あの朝礼」
井川奈央は再び俯いた。
しかし今度は嘘じゃなく、自分の思ってる素直な気持ちが言葉になった。
「怒ってるっていうか、まあ……イライラはしてたけど、でも自分の正体バラしてでも俺のこと庇ってくれたお前の気持ちには感謝してるよ。……複雑だけどな」
「強行すれば先輩との関係もきっとこうなるんだろうなって思ってたけど……私も複雑、かな」
「今まで正体隠すために色んな肩書き言ってきたけどさ、俺との関係はもう気にする必要ないから」
「……うん」
井川奈央の返事に緊張の糸がプツンと切れたような気がした。
そういうこと……いちいち言わなくたってこいつもわかってる。みんなにカミングアウトした時点で終わってるんだってこと。
俺だけが正体を知っていたからこそ特別な関係でいられたけど、それももう終わり。
YUIとのツーショットが拡散され、危うく炎上しかけたけど、それもこいつが自分の正体を曝け出すことによって鎮火してくれた。
俺は井川奈央と知り合う前の、バイトと音ゲだけに明け暮れるただの陰キャ生活に戻るだけ。
井川奈央は、そのお陰で嫌で苦痛で仕方なかった中学時代に逆戻り……。
結局、俺はこいつを守れなかったしなんの役にも立てなかったってことだ。
けれど今更、何を嘆いたところであとの祭り。もうYUIの正体は全員がわかってるんだから。
もたれかかっていた机から体を起こして、井川奈央が立ちすくむ教室の後方へゆっくりと進んだ。
井川奈央は俯いたまま。
俺はそれを目の端で捉えるも、廊下に溢れている全員の視線がこちらに向いていることに気がつき、直視することはできず……。
スッと通り過ぎるようにごった返した廊下へ通じる扉を開けた。
「……待って」
小さな手が俺の右手首を掴む。
「私ね、先輩がいてくれるから、みんなにYUIだって言っても大丈夫って思ったの。今まで通り、平穏で穏やかな学校生活ってわけにはいかないかも知れないけど、先輩がいてくれるんならって……」
「え?」
「もうみんな知ってるから、先輩が言うように関係や肩書きなんて必要ないかも知れないけど……!」
ちょっと待って……扉開いてーー
「先輩は私がYUIだって知っても普通に接してくれた唯一の人なの! 一緒になって正体を隠そうとしてくれたり……あのとき、バレたのが先輩で良かったって何回も思ったんだから! みんなにはYUIだって話しちゃったからこれから慣れるまでしばらく質問とかされると思うけど、先輩だけはそうじゃないって……!」
わかったらちょっとタイム。
慌てて扉を閉めようと力を込める。しかし俺たちのやりとりを覗くヤツらが扉につっかえてなかなか閉まらない。
「私、先輩と離れる気ないですから」
「あ、あのさ……!」
「奴隷じゃないとダメって言うんなら奴隷でいいです。だから、もう関係ないみたい言い方しないで」
井川奈央から飛び出した奴隷の単語に思わず肝を冷やす。おそるおそる、廊下を振り返ると……
「ど、どどど奴隷~~!!!!?」
「……YUI、三谷の奴隷だったのか!?」
「どういうこと!? 三谷くん、YUIのこと奴隷にしてたの!?」
「お前まさか……自分だけが正体知ったのをいいことに、バラさない代わりにとか言い寄ったんじゃねえだろうな!?」
うん、そりゃそうなるわ……ってリアクションが渦巻く。まあ遠からず近からず……そんな感じ。
い、いや! そうじゃなくて!
「お、お前な……タイミングってのがあるだろ! なんでみんながいるときに……!」
「勝手にどっか行こうとするのが悪いんでしょ! それに、もう何も隠す必要ないじゃん」
「いや……奴隷は隠してほしかったわ。さすがに」
冷や汗を垂れ流す俺とは対照的に、井川奈央はくすくすと笑みを浮かべた。
固まるみんなの隙を突いて、さりげなく扉を閉める。
「先輩、彼女のほうが嬉しかった?」
「こ、こんな陰キャが人気女優と付き合えるかよ……!」
「そう? そんなの関係なくない?」
ガラガラーー!
「か、かかか……彼女だとぉぉぉ!!!!」
「この陰キャが!! 奴隷にして逆らえないことをいいことに彼女になれだと!? ふざけんなぁぁぁ!!」
「なんか怪しいって思ってたけど、YUIの彼氏がまさかこんな地味な人だったなんて……!」
いや、なんか色々違う……。
「お前……こんなことしたら明日から2人揃って注目の的になるだろ!」
「ね! けど先輩と一緒だったら大丈夫だよ?」
「いやいや! だったらバラした意味なくね!? 最初の目的どこ行ったんだよ……!」
「そんなことないってば。隠せるんなら一緒に隠しておきたかったし、どっちかが囲まれるんだったら一緒に囲まれたかったの! ほら、こっち!」
掴まれていた右手首の小さな手が滑らかに右手へと移動した。
手を繋いだまま前方の扉へと駆け出す2人。
最前線で俺たちのやりとりを耳にしていたヤツらがそれを追いかけるが、俺たちは人混みを掻き分けて屋上へと向かう。
結局、こいつとの関係はこのまま継続なのか、それとも新たな関係がスタートするのか、今はまだわからない。
走っている途中に外したビン底眼鏡、その奥から現れた素の井川奈央。あれほど嫌がっていた中学時代の状況が今まさに繰り返されようとしているのに、なぜか嬉しそうに笑っていた。
明日から……というか昼休み過ぎから、早くも自分の身に危険を感じる俺ではあるが、こいつと同じように、2人一緒だったら大丈夫かも知れないな。
こいつの笑顔を見ていたらなんとなくそう思う、俺であった。
ここで第1章完とさせていただきます。
未回収の話や今後のイチャラブ展開なども考えておりますが、一旦幕引きということで。
今まで読んで下さった読者の皆様、応援していただきありがとうございました。




