君の為に Ⅲ
小さな手。
リサの指が器用に紙を捲るのを見てる。
続きを待つように身じろいで、くるりと見上げられる。
「・・・つづきだね」
こくりと頷く。リサを見ていて読むのをすっかり忘れていた。
覚えたての異国後を訳してリサに本を読む。ゆっくりでも、たどたどしくてもリサは楽しそうで、僕も嬉しい。膝の上の暖かな温もりはぽかぽかとした日差しそのもの。
父に似て大きな長兄を尊敬するヨシュアは彼をラル兄と呼ぶが、勉強ばかりしているひ弱そうなクリスの事はクリスと名前で呼ぶ。それを真似してリサも彼の事をクリスと呼ぶのを、自分はとても気に入っている。
兄弟は自分にとって皆 愛しい家族。
でも・・
リサは特別だ。
リサは産まれた頃から面倒を見ている。他人だけれど、特別な存在。
部屋に籠ることの多い自分に声を掛け、気に掛け、慕ってくれる。
同じ女の子のアンも兄として慕ってくれているのは解るが、彼女の兄は僕だけじゃない。アンにとって利用できる兄は他にもいるから、別に僕じゃなくとも良い。だから、アンが僕の所にやってくることはほとんどない。友人に聞いても、兄に聞いても、父母に聞いても解らなくて、やっと僕に聞く程度だ。
用事がなくともリサが真っ先に駆けつけるのは僕の所。
とん、と、リサの頭がクリスの胸に当たる。物語を読んでいる内に寝入ってしまったみたいだ。ゆっくりベッドに横たえ母の作ったブランケットを掛けてやる。
リサは母の作った物がお気に入りで、勝手に部屋に入ってくるまって寝ている事もある。
「可愛い リサ」
まだ丸い頬に唇を落とす。
柔らかい感触。
ずっとこうして一緒にいられたら。
すうすうと健やかな寝息を名残惜しく思いながらリサから離れる。彼女が寝ている間に勉強をしてしまおう。まだ気が早いけど、最終学年を終えたら王都の学院に行くための試験を受ける。
領主館で受けた試験の成績が良ければ、領主様が学費を出してくれるから、両親にも迷惑をかけなくてすむ。・・その時にはリサと離れてしまうけど。
リサはどこまで進学するつもりだろう?女の子は最終学年まで進むことは少ないから、僕が学院に行っている間に卒業してしまうかもしれない。ああ、その頃にはリサも、もう大人になっているんだろうな。きっと今より可愛くなってる。少し不安だけど、卒業して働くって言っても親の食堂だろうし、リサは給仕に向いてないから中にいるだろうから、変なのに目を付けられる事もないだろう。
・・・だから、卒業して三年。せめて・・・その後に帰ってくれば・・・。
「帰って・・・って、僕は何を考えて・・」
頭を振ってノートに集中する。
「・・・そうだ、リサも蔵書室に連れて行ってあげ・・・」
また、思考が逸れた。
諦めて机の場所からリサを見る。
ぐーすか呑気に眠っている。本当に。可愛い。
手を繋いで歩く。
年上の少年に連れられた一人の少女。片方は見知った少年で、もう一方は初めて見る。フォワードに報告を受けているから名前は覚えているが、あのように幼いとは思っていなかった。友人を連れて来るのかと思っていたのが予想が外れた。
手を引かれて、あの童話の棚に真っ直ぐに向かう二人。
クリスはの歳は二桁を越しているし、その年頃の少年なら年下の少女の面倒など見るのを厭いそうなものだが、彼は終始穏やかな笑みを浮かべている。
・・同年代の少女を前には仏頂面だったな。
照れているのだろうと思ったが、これも違ったらしい。
少女を頻繁に見下ろしながら導いて、棚の前で繋いだ手を解く。
少女は本を前に遠目からも解るぐらい嬉しそうにはしゃいだ。きょろきょろして迷いながら本を手に取る。クリスは少女の傍にしゃがみ時々頷いている。
クリスが彼女の耳元に語りかけ、示した蔵書を取る。本を片手に、彼女の手を取ると二人並んで背後の読書用に設えてある椅子に腰掛ける。
席に着くと少女がクリスに話しかけ、笑みを返して立ち上がった。彼も自分の為の本を取りに行くようだ。
・・・思わず笑みが漏れる。
クリスは選ぶのもそこそこに帰ってきて少女の横に腰掛ける。いつもはじっくり選ぶのを知っているから尚おかしく感じる。
並んで読み始めたのにクリスは少女が気になるらしい。頻繁に目を向け彼女が読めない個所に至ると更に近づいて見たことの無い優しい笑顔で教えてやる。
多分、彼は常からそうしているんだろう。少女は当然のようにしているから違和感もない。
クリスの手は少女の肩に手に触れ、教えをするには些か近すぎる距離で囁く。
そっと語りかけ気を引いて目を合わせる。
君の大事な人はその少女なのだな。
少女は何度もクリスと共にやって来ていたが、少しづつ大人びて来る度、クリスの傍には彼女は居なくなった。彼の方でも王都行きの選考が近づき、真剣に勉学に取り組む必要を感じてか、蔵書室では机に齧り付くようにして真剣にペンを動かしているから一緒には居られないのだろう。
やがて、試験を受けた彼は随行の者と共にこの町を去る。領主として道行を見送るのも仕事だ。
クリスの友人とも思えぬ人々まで集まっているというのに、その別れの場にあの少女の姿は無かった。
クリスは外面だけは笑顔を覚えたのか、穏やかに笑ってで家族や友に別れを告げていた。
季節は巡る。
仕事の合間。気晴らしに出掛けた先で、件の少女と元気そうな少年が一緒に歩いているのを見かけた。
少女は幼い面影を残しつつ大人の女性へと変化していく途中だ。傍らの少年と、気安そうに肩を並べ歩く姿は家族の様にも、歳の近い恋人同士の様にも見える。
暫く観察して、二人が去るのを見届けてからふと気づく。自分が彼らと自分の若き日を重ねて見ていたのだと。
妻は聡明な人で、彼女の傍にはいつも別の人間が居て、私は遠くで眺めるだけだった。
この見た目に反して臆病で、自分から声を掛ける事も出来ずにいた。それでもあの日。ただ一度のチャンスを逃さずにいたから彼女を妻に出来た。
短い間だったがとても幸せだったのだ。
クリスが図書室で見せた笑顔が自分に重なった。
確かに自分は笑っていたのかもしれない。
彼女の前でだけは。
だから。
「クリス。諦めてはならない運命は逃してはならないんだ。」
晴天を見上げ、遠く王都の空を思い心より激励を。