ふたりの菊之丞、ふたりの野塩。〈3〉
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たとえば、学校や会社の新年度が4月であるように、江戸歌舞伎は11月がそれにあたります。
写楽の時代、江戸の歌舞伎役者は中村座・市村座・森田座(都座・桐座・河原崎座)と云う3つの劇場のいずれかと1年の専属契約をむすんで舞台へ立ちました。
二代目中村野塩は七代目片岡仁左衛門とともに上方からくだってきて11月の顔見世興行から都座へくわわったベテランの新顔です。
「上方にいらぬ片岡仁左衛門、のしほをつけて江戸へ進上」と云う落首があったそうですが、寛政7[1795]年正月に出版された『役者人相鏡』には、[極上々吉]瀬川菊之丞、[至上々吉]の小佐川常世についで、中山富三郎とともに[上々吉]と、たった3ヶ月で高評価をうけています。
二代目中村野塩は「ベニ菊之丞」の『三代目瀬川菊之丞の大伴黒主妻・花園御前』と3対になる『二代目中村野塩の小野小町』にもえがかれています(のこりの1枚は『三代目沢村宗十郎の大伴黒主』)。
まんなかに「の」の字のある矢車紋からも「小野小町」が二代目中村野塩であることはあきらかです。
しかし『二代目中村野塩の貫之息女・この花』とされる絵は顔がまったくちがいます。
「小野小町」は細おもての美人ですが、紀貫之の息女「この花」の顔はひしがたで鼻の下が長く、あごにたるみもみられます。
矢車紋に「の」の字もありません。大判と細判では家紋の簡略化されることもありますが、おなじ細判でそれはありません。これはあきらかに別人であることの記号であり、証左です[図9参照]。
つまり『二代目中村野塩の貫之息女・この花』と云うタイトルは、まるっとまちがっているのです。同時に、このじじつは「シワ菊之丞」が三代目瀬川菊之丞でないこともかさねて証明しています。