ふたりの菊之丞、ふたりの野塩。〈2〉
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『三代目沢村宗十郎の名護屋山三と三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ』とされる作品は、寛政7[1794]年7月に都座で興行された『傾城三本傘』の舞台をえがいています。
この狂言に遊女役として出演し「丸にむすび綿」紋をもち、なおかつ写楽作品にえがかれていない女形はふたり。
瀬川福吉と瀬川三代蔵です。
調査したところ、瀬川福吉にかんする史料はみいだせませんでしたが、瀬川三代蔵にかんしては多少のことがわかりました。
『歌舞伎年表』によると「姉川みなと」と云う女形が、寛政元[1789]年に江戸で瀬川三代蔵へ改名しています。もとは上方の役者だったようです。
この瀬川三代蔵の先代「姉川みなと」も上方の女形でした。天明4[1784]年に姉川新四郎へと改名し、立役(男役)へ転じています。
つまり、瀬川三代蔵は、天明4[1784]年以降に上方で「姉川みなと」と云う名をついだとかんがえられます。
姉川新四郎(先代の姉川みなと)は、一説によると、寛延元[1748]年生まれと云います。寛政6[1794]年には46歳。必然的に瀬川三代蔵はそれよりわかいこととなります。
よしんば、瀬川三代蔵が30代であったとすれば、老け顔だったかのうせいもあります。
瀬川三代蔵の名前は寛政6[1794]年の辻番付や顔見世番付で中村万世のとなりにしるされています。
ふたりともかなり下位の役者です。とは云え、中村万世は〈第1期〉の写楽大首絵にどうどうとえがかれていますし、写楽は上方からきた役者をおおくえがいたことでも知られています。瀬川三代蔵をえがいたかのうせいはけっしてひくくありません。
瀬川福吉にかんする史料がみいだせなかったため「シワ菊之丞」を瀬川三代蔵と断定することはできませんが、瀬川福吉と瀬川三代蔵のどちらかが「シワ菊之丞」であることはまちがいありません。
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「シワ菊之丞」と「ベニ菊之丞」は別人です。
また「シワ菊之丞」は「ベニ菊之丞」よりも下位の役者でした。その根拠はきちんと作品にかきこまれています。
〈第2期〉細判の「ベニ菊之丞」の頭には大きなクシがふたつささっていますが、〈第2期〉大判の「シワ菊之丞」の頭にはひとつしかありません。
〈第2期〉細判の『二代目瀬川富三郎の傾城・遠山』の頭にもクシはひとつしかありません。さすがに笄のカタチは大判のほうが凝っていますが(〈第2期〉大判と細判では大判のほうが役者紋などていねいにえがきこまれています)、細判の「ベニ菊之丞」にクシがふたつえがかれているのは「シワ菊之丞」や瀬川富三郎らの傾城との「差別化」とみてよいでしょう。
瀬川門下のチョイ役を大判でえがいているのに、当時の最高年俸900両をとっていた瀬川菊之丞をえがかないわけにはいきません。歌舞伎役者のグッズとしてどちらが売れるかはあきらかです。
そのため〈第2期〉細判の「ベニ菊之丞」は、ふつうの浮世絵風美人としてえがかれていて「男」であることはまったく意識されていません。
三代目瀬川菊之丞とされるものは〈第3期〉にも4枚あります。細判2枚が「シワ菊之丞」。間判の大首絵1枚と細判1枚が「ベニ菊之丞」です。
細判の3枚は11月の狂言『閏訥子名歌誉』と『鶯宿梅恋初音』をえがいたもので、間判の大首絵は閏11月の狂言『花都廓縄張』をえがいています。
閏11月の狂言『花都廓縄張』の大首絵は「ベニ菊之丞」なのでもんだいありません。
しかし、11月の顔見世狂言『閏訥子名歌誉』と『鶯宿梅恋初音』をえがいた細判3枚には「シワ菊之丞」と「ベニ菊之丞」が混在しています。
狂言『閏訥子名歌誉』と『鶯宿梅恋初音』の『三代目瀬川菊之丞の大伴黒主妻・花園御前』は「ベニ菊之丞」です。
一方、おなじ狂言で白拍子「久かた」と演じたとされる2枚の役者絵にえがかれているのは「シワ菊之丞」なのです。
たしかに『二代目中村野塩の貫之息女・この花』と対をなすようにえがかれた白拍子「久かた」をえんじたのは、当時の絵本番付(歌舞伎のパンフレット)などをひもとくかぎり、三代目瀬川菊之丞でまちがいありません。
「シワ菊之丞」がホンモノの三代目瀬川菊之丞でない以上、必然的に「貫之息女・この花」をえんじているのも二代目中村野塩でないかのうせいがたかくなります。