ふたりの菊之丞、ふたりの野塩。〈1〉
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わたしの知るかぎり、世にあまたいる「写楽研究家」がだれひとり語ることのなかったなぞがあります。
そして、そのことを指摘するために写楽にかんする美術史(歴史)的知識はまったくひつようありません。虚心坦懐に絵をながめていれば素人でも気がつくはずなのです。
写楽は歌川豊国らとともに、はじめて歌舞伎役者の顔をえがきわけた浮世絵師と云われています。基準となる作品が1枚あれば、大方の役者のみわけはつきます。
しかし、写楽のえがく「三代目瀬川菊之丞」と云われている作品にだけは、それがあてはまりません。
いっぱんてきに写楽作品は〈第1期〉から〈第4期〉に分類されています。その〈第2期〉以降、写楽絵にはまったくことなる顔でえがかれたふたりの「三代目瀬川菊之丞」がいるのです。
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写楽がはじめて「三代目瀬川菊之丞」をえがいた〈第1期〉『三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵妻おしづ』は、うりざね顔に小さく赤いくちびるが印象的な美人です(ここでは、これを「ベニ菊之丞」とよびます)。
一方〈第2期〉『三代目沢村宗十郎の名護屋山三と三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ』とされる作品をみると、菊之丞は、紅もない真一文字にむすばれた大きな口で、ほおには大きなシワまでえがかれています(ここでは、これを「シワ菊之丞」とよびます)。
写楽のえがいた歌舞伎役者で、これほど顔のえがきかたがことなる人物はいません[図8参照]。
おそらくは写楽がひいきにしていたであろう三代目沢村宗十郎も〈第1期〉と〈第2期〉の大判以降では、じゃっかんえがきかたがかわっています。
「ひとえまぶた」が「ふたえまぶた」にかきあらためられているのです。えがきかたがことなると云っても、プチ整形ていどのちがいしかありません。
〈第2期〉『三代目沢村宗十郎の名護屋山三と三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ』(大判)とされる作品は「シワ菊之丞」ですが、おなじ〈第2期〉にえがかれた『三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ』(細判)では〈第1期〉の「ベニ菊之丞」顔が踏襲されています。
着物にえがかれた「丸にむすび綿」紋や菊やちょうちょの紋様が十重二十重に瀬川菊之丞を象徴しているにもかかわらず、かんじんの顔がちがうのは、どう云うことでしょう?
すなわち〈第2期〉『三代目沢村宗十郎の名護屋山三と三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ』とされる作品にえがかれている女形「シワ菊之丞」は瀬川菊之丞ではないかのうせいがたかいのです。
げんざい知られている写楽作品の題名は、写楽自身や版元(出版者)蔦屋重三郎がつけたものではありません。浮世絵や歌舞伎史の研究家が諸資料をもとに役者や役がらを精査した上で便宜的につけたものです。
たしかに、狂言の内容をかんがみれば〈第2期〉大判にえがかれた傾城(=遊女)を菊之丞とかんがえたくなるのもとうぜんです。
しかし、有名無名だれかれかまわず好きなようにえがくのが写楽であることをわすれてはなりません。
とは云え、そんな写楽が「江戸京大阪三都一の美女」とうたわれた菊之丞のほおに、あれほど大きくふかいシワをえがきいれたかどうか?
そもそも、そんなに印象的なシワであれば〈第1期〉の大首絵でえがかないはずがありません。
「シワ菊之丞」は女形であるにもかかわらず、あまりにもオッサンめいた表情の別人に写楽が「造形的興味」をおぼえてえがいたとかんがえるほうが妥当です。
とどのつまり「シワ菊之丞」は瀬川菊之丞ではありません。