もうひとつの〈写楽コード(暗号)〉!?
十返舎一九『初登山手習方帖』(寛政8[1796]年)には、写楽のたこ絵がえがかれていて、そのとなりになにやらあやしげなセリフがそえられています。
十返舎一九は写楽活動期(寛政6[1794]年)に耕書堂へ寄宿していました(浮世絵を摺る紙にドウサびき(にじみどめ)するしごとをてつだっていたそうです)。そして翌年、その耕書堂から3冊の草双紙で戯作者デビューしています。
当時の草双紙類は年1回1月一斉発売だったので、十返舎一九が『初登山手習方帖』をかいたのは、写楽がすがたをけした寛政7[1795]年と云うことになります(だそくですが版元も耕書堂ではありません)。
十返舎一九が写楽のたこ絵をえがいたのは、勉強ぎらいの長松と云う少年が天神さまにいざなわれ、芝居見物している舞台上の場面です。
『華厳経』の善財童子があらゆる世界をみて悟りをひらいたように、長松も天神さまにおちこちへみちびかれ、勉強好きになると云うものがたりです。
この舞台上には烏帽子・直垂に太刀を佩いた人物やダルマやおひなさまのほかに、たこがふたつえがかれています。
ひとつがやっこだこで「おいらもたこならきさまもたこ」のセリフがあり、もうひとつが写楽だこです。
写楽だこにえがかれているのは市川蝦蔵の暫で、じつざいする写楽絵をまねたものではありませんが、東洲斎写楽の落款(サイン)まであります。
ここに「なんのことはねえ。金比羅さまへはいったどろぼうが金縛りと云うもんだ」と云うふかしぎなセリフがかきこまれており、写楽のきえたりゆうがほのめかされているのではないか? と研究者に注目されました。
「金比羅さま」が「阿波藩」の比喩であることはそうぞうにかたくありません。ざっくりしてはいますが、香川の「金比羅さま」こと金刀比羅宮も、徳島の阿波藩もおなじ四国です。
すなわち「金比羅さまへはいったどろぼう」と云うのは、写楽(斎藤十郎兵衛)が阿波藩おかかえの能役者(しかも、ギャラどろぼうてきな意味でしょうか?)だったことを示唆しています。
藩のお金をないしょでくすねていたとか、ばくだいな借金をかかえていたとか云う隠喩だったのかもしれませんが、いまのところ、斎藤十郎兵衛の罪科をしめす史料はありません。
ウラのとれない憶測はさておき、斎藤十郎兵衛が阿波藩の能役者だったと云うことは「士分」です。
当時、武士の副業は禁じられていたので、かれが浮世絵師・東洲斎写楽として活動していることがバレたら阿波藩から解雇・処罰されるかのうせいもあったはずです。
内田千鶴子氏の研究によると、斎藤十郎兵衛は1年はたらき1年やすむと云うシフトだったそうです。寛政6[1794]年はやすみだったので写楽として活動することもできましたが、寛政7[1795]年は能役者としてはたらかねばなりません。
阿波藩(金比羅さま)に給金で束縛されていると云いかえることもできましょう。これすなわち「金縛り」。
つまり、写楽だこにそえられたふかしぎなセリフは「阿波藩の能役者である自分(写楽だこ=写楽)は、本業に束縛されて浮世絵師としてじゆう気ままにふでをふるうことができなくなった」と自虐させていたのかもしれません。
だとすれば、となりにえがかれたやっこだこは一九自身でしょう。出自は武家でありながら、大坂の材木屋の入り婿となり、浄瑠璃の世界へどっぷりハマってドロップアウトした男です。
材木屋から離縁され、浄瑠璃作者になろうと大坂で7年ほどくすぶったあげく、江戸へくだって耕書堂・蔦屋重三郎にひろわれました。
「ケ・セラ・セラ」と風のむくまま気のむくままにながされてきた十返舎一九こそ、たこのような半生をすごしてきた男と云えます。
じゆうな一九が「金縛り」された写楽をあわれんで(同情して?)かいた「写楽コード(暗号)」だったのかもしれません。




