1年か、半年か? それが問題だ!
これまで写楽絵を詳細に比較していくことで、本物の写楽の活動期がほぼ〈第2期〉までであったことをあきらかにしてきました。
じつは、文献資料からも本物の写楽の活動期がほぼ〈第2期〉までであったことをうかがい知ることができます。
しかも、そのことは浮世絵好きならだれもが知っている有名な文献にかきしるされています。それが斎藤月岑『増補浮世絵類考』です。
「写楽 天明寛政年中ノ人
俗称 斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀ニ住す 阿波侯の能
役者也 号東洲斎
歌舞伎役者の似顔を写せしがあまりに真を画かんとてあらぬ
さまにかきなせしかハ長く世に行れず一両年にて止む 類考
三馬云 僅に半年餘行るゝのミ
五代目白猿 幸四郎后京十郎と改 半四郎 菊之丞 富十郎
助五郎 鬼治 仲蔵の類を半身に画廻りに雲母を摺りたる
もの多し」 (斎藤月岑『増補浮世絵類考』天保15(功化元)[1844]年)
『浮世絵類考』の決定版とも云える斎藤月岑『増補浮世絵類考』では、かこの『浮世絵類考』における誤謬や重複、不確定要素をけずってかんけつにせいりしています。
たとえば、式亭三馬の書いた「号東周斎」と云うあやまった記述や、信ぴょうせいにもんだいのある「俗名金次」と云う記述はみあたりません。
にもかかわらず、斎藤月岑があえてのこした一文があることにお気づきでしょうか?
「類考三馬云 僅に半年餘行るゝのミ」
斎藤月岑は「(写楽は)1年くらいでやめた」とかいたすぐあとに「(ほかの)浮世絵類考で式亭三馬が云うには、わずか半年くらいだけだった」とわざわざ追記しているのです。
「1年と半年って、どっちがホント!?」とおもわずツッコミをいれたくなるのは、わたしだけではないはずです。
〈写楽工房〉もふくめた写楽の活動期間は10ヶ月間です。「1年くらい」と云うかきかたはわかります。寛政6[1794]年には閏月があったため1年が13ヶ月ありました。それをさしひいても「半年くらい」と云うのはムリがあります。
では、なぜ文筆のプロである式亭三馬が「僅に半年餘行るゝのミ」とかき、それを斎藤月岑がのこしたのでしょうか?
東洲斎写楽の〈第2期〉までの活動期間(すなわち斎藤十郎兵衛の作画期間)が5~8月と閏11月の5ヶ月だったためです。これなら「半年くらい」と云う記述は正鵠を射ています。
つまり、写楽〈名義〉の作品は「一両年(10ヶ月)」でまわっていたが、本物の写楽である斎藤十郎兵衛がえがいていたのは「半年餘(5ヶ月)」だったと解釈することができるのです。
〈写楽工房〉のそんざいを知っていた式亭三馬と斎藤月岑が、わかる人にだけのこした、ちょっとした〈写楽コード(暗号)〉だったのです。




