〈第3期〉のムチャぶりと〈第4期〉の凋落(ちょうらく)!〈2〉
2
〈第2期〉で役者の全身像のお手本をえがきおえた本物の写楽は〈写楽工房〉とえんをきった……はずでした。
しかし、写楽の役者絵で1発あてた耕書堂・蔦屋重三郎は、つぎの手をおもいつきます。それが写楽の相撲絵です。
蔦屋重三郎は斎藤十郎兵衛に相撲絵のお手本を依頼しました。お手本があればいくらでも量産できることはすでに実証済みです。
斎藤十郎兵衛がどんな気もちでその依頼をうけたのかはわかりませんが、3たび東洲斎写楽としてふでをとることになりました。
そこでえがかれたのが『大童山文五郎土俵入』(3枚つづき。各大判)です。云うなれば、さいごの写楽絵です。
『大童山文五郎土俵入(3枚つづき)』は、寛政6[1794]年11月17日に本所・回向院境内でもよおされた相撲興行をえがいた作品です。
左右に5人ずつ力士が配され、まんなかに大童山文五郎と云うチビッコなんちゃって力士が土俵入りしています。
大童山文五郎は子どものわりに身体の大きかったことから、相撲興行のマスコットキャラクターとして土俵入りの余興をえんじていたそうです。10人の力士はその余興をきょうみぶかげにみまもっています。
3枚に11人をえがくと云う省エネぶりこそわらえますが、複数の人物を画面の対角線上に配置すると云う構図もさることながら、えがかれた力士はいずれも個性的でひとりとしておなじポーズ、おなじ表情のものがありません。
さすがの叢春朗(北斎)でも、お手本なしでここまでみごとにえがきわけられるはずがありません。
さらに、ここにはもうひとつ本物の写楽がえがいたとおもわれる証拠がきちんと画面にえがきこまれています。
土俵の両わきにすわるうしろすがたの人物の腰にささっている刀と、左の土俵の柱にささっている3本の刀の柄を確認してください。
なんと「ちょうネクタイ柄巻」なのです! このことからも3枚つづきの『大童山文五郎土俵入』が写楽の真作であることは言を俟ちません。
3
〈写楽工房〉は『大童山文五郎土俵入(3枚つづき)』をお手本に相撲絵をじゅんびしていました。たくさんの版下絵がのこされていたのです(ほとんどが関東大震災で焼失)。
力士のすがたを大きくえがきすぎた閉塞感のある従来どおりの「相撲絵」の構図であることをかんがみても、それらはすべて〈写楽工房〉によるものだとおもわれます。
しかし、それらは出板されませんでした。11月の大量生産にくわえて質のわるさがたたり、写楽絵の人気がきゅうそくにおちこんでいったのでしょう。
ちなみに、閏11月に出板されたとおぼしき作品で確認されているのは『大童山文五郎土俵入(3枚つづき)』(大判)と『大童山文五郎の土俵入』(間判)。二代目市川門之助追善絵2枚(1組)。役者絵は都座の狂言『花都廓縄張』から間判の大首絵3枚(間判)です。
河原崎座の閏11月の演目は『歌舞伎年表』や『歌舞伎年代記』にしるされていません。新狂言がえんじられたと云う説もありますが、外題も内容もわかりません。
桐座では、11月の狂言の二番目が上演されていて、そこでの登場人物も11月出板分にえがかれています。
閏11月の都座の狂言に取材した間判の大首絵3枚も11月のだんかいでいっしょに出板されたとかんがえてよいようです。そうすれば、11月に都座の役者をえがいた作品枚数は河原崎座の21枚にならびます(河原崎座19枚、都座18枚、桐座21枚)。
〈第4期〉寛政7[1795]年1月にいたっては14枚しか確認されていません。
大童山文五郎が2枚。武者絵が2枚。都座の演目をえがいたものが7枚。桐座が3枚。河原崎座も上演していましたが、いまのところ確認された作品はありません。
耕書堂・蔦屋重三郎の発想はごうかいでしたが、さすがにやりすぎでした。江戸の大衆も大量生産される質のわるいニセモノにおどらされるほどおろかではありませんでした。




