〈写楽工房〉と葛飾北斎〈2〉
北斎が写楽の真作をていねいに研究していた証拠も『曾我五郎と御所五郎丸』にえがきこまれています。
御所五郎丸にくみつかれてふりかえる曾我五郎の刀の柄は〈ちょうネクタイ柄巻〉のへんけいです。写楽のえがいた〈ちょうネクタイ柄巻〉は三重円のつらなる淡路むすびを簡略化したものですが、ここではそのむすび目がふたつになっています。
こだわりのつよい写楽が仇討ちものの武者絵に縁起のよい〈ちょうネクタイ柄巻〉のへんけいをかきこむわけがありません。北斎はあくまでデザインとして写楽の〈ちょうネクタイ柄巻〉をとりこんでしまったのです。
ちなみに、北斎がえがいたとおもわれる〈第2期〉大判では、刀の柄頭が柄をはさみこんでいる部分を〈第1期〉とおなじように一手間くわえています[図1・2参照]。本物の写楽ですらそこはあっさりえがいているのですが、ぜったいバレないように似せようとする必死さがつたわってきます。
このように写楽の武者絵などが北斎の作品であることは言を俟ちません。
3
美術史家・田中英道氏はこのことから敷衍して、すべての写楽作品を葛飾北斎の「作品」としてしまいましたが、春朗時代の北斎に「東洲斎写楽」として大判錦絵でデビューするだけの強烈な個性と繊細さはまだありませんでした。
それだけの個性があれば10ヶ月ですがたをけすひつようもなければ〈第3期〉から作品の質がガクッとおちることもないはずです(おおくの別人説はこのことにたいする説明がありませんでした。田中英道氏も説明していません)。
鼻のえがきかたや刀の柄巻のえがきかたをかえるひつようも、北斎が写楽であったことをかくすりゆうもありません。
北斎が寛政3[1791]年にえがいた『四代目松本幸四郎の番随長兵衛』などをみればわかりますが、かれのえがく柄巻はふでで横に線をチョンチョンとつけるだけなど、細かいところはけっこういいかげんでした[図3参照]。
おなじ春朗時代にえがかれた「忠臣蔵」の連作をみても、刀の柄巻のえがきかたはかわりません(『三代目市川高麗蔵の平井権八』(寛政3[1791]年)では、刀の柄にひしがたをえがいていますが)。
北斎は画号を何度もかえたことで有名ですが(画号をムリヤリ弟子に金で売っていたと云います)そのくせ画号をかえたことでだれだかわからなくなってしまうことをきらって「前北斎 戴斗」などとサインしているほどです。
もしも、かれが写楽本人だったら嬉々として「前写楽 北斎」とサインしたでしょう。
北斎が写楽であったことを公言してはばかれないのは、あくまでエセ写楽(代作者)のひとりであり、写楽ではなかったことの証左です。
むしろ、北斎は繊細な写楽絵のニセモノ制作をとおして絵師として飛躍するキッカケをつかんだのだとおもいます。
写楽のニセモノ制作をすることで、くすぶっていた才能を開花させた北斎に、版元が役者絵いがいの作品もまかせてみる気になったとかんがえるほうがしぜんです(鈴木春信の贋作をえがいた司馬江漢の前例もあることですし)。
写楽なみの画力を身につけた2流絵師と、写楽その人であれば、知名度のたかい写楽の落款(=サイン)がある浮世絵のほうが売りやすいにきまっています。
しかし、エセ写楽のけいけんをとおして、緻密な描写や対角線を意識した構図づくりなどをまなんだ自己顕示欲のつよい北斎が、唯々諾々(いいだくだく)と写楽名義で役者絵や相撲絵をえがきつづけるはずもありません。
じじつ、このあと北斎は「二代俵屋宗理」を襲名し、しだいに絵師として注目されていくのです。
役者絵をとくいとする勝川派からデビューして、90歳までかくしゃくと絵筆をふるい、森羅万象をえがきつくした北斎ですが、寛政6[1794]年以降、まったくと云ってよいほど役者絵をえがいていません。いだいなるアマチュア絵師・斎藤十郎兵衛にたいするふくざつな胸中がかいまみえる気がします。
4
文政4[1821]年の『浮世絵類考・嵐山本』や『浮世絵類考・坂田文庫本』にはつぎのような記述があります。
「二代目北斎
写楽 東洲斎と号す 俗名金次
是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしゆえ、長く世に行ハれずして一両年にて止めたり、隅田川両岸一覧の作者にて、やげん掘不動前通りに住す」 (『浮世絵類考・嵐山本』)
「国政 中山富三郎似顔を画くより版下を画く 歌舞伎役者の似顔を写すをよくす
画名何ト云哉
俗名金次薬研掘不動前通り 隅田川両岸一覧の筆者
写楽 是又歌舞伎役者の似顔を写せしが 余まりに真を画かんとて
阿らぬさまに書なせしかは
長く世に行はれず一両年にて止ム」(『浮世絵類考・坂田文庫本』)
これまで研究者に黙殺されてきた文章ですし、いろいろとまちがってはいますが、真実の一端をついていたのです。




