世界でいちばんなぞの絵師!?〈2〉
さらに、斎藤月岑『増補浮世絵類考』で、写楽が「阿波藩の能役者であった」と云う記述がなされるのは、天保15(功化元)[1844]年のことです。
写楽がすがたをけしてから半世紀がすぎようとしていました。映像記録すらない時代の「半世紀」と云う長いあいだ、犯罪者でもないのに正体がひたかくしにされていたのもふつうではありません。
かつては実在も疑問視され、30をこえる写楽別人説の揺籃ともなった「斎藤十郎兵衛」でしたが、近年、諸史料の発見によりかれの実在があきらかとなりました。
阿波藩の能役者(喜多地流地謡)斎藤十郎兵衛(宝暦11(12?)~文政3[1761(1762?)~1820]年)です。
東洲斎写楽の正体は斎藤十郎兵衛です。ただし「東洲斎写楽」の作品のすべてが斎藤十郎兵衛の手によるものではありません。今回はさまざまな見地から、それを証明していきたいとおもいます。
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写楽の作品は〈第1期〉から〈第4期〉までに分類されています。
〈第1期〉が、寛政6[1794]年5月の演目をえがいたもので28枚。背景を黒雲母でぬりつぶした雲母摺・大判(39.4cm×26.5cm)の役者半身像です。
〈第2期〉が、寛政6[1794]年7月の演目をえがいたもので38枚。背景を雲母摺や、黄色でぬりつぶした(黄つぶし)大判・細判(33cm×17cm)の役者絵で、全身像をえがいています。
〈第3~4期〉は、寛政6[1794]年11月(閏11月もふくむ)と寛政7[1795]年1月の演目をえがいたもので、げんざいまで確認されているのは78枚。
5点の相撲絵が大判であるいがいは間判(33cm×23.5cm)と細判です。間判の大首絵には役者の屋号と俳名がかきしるされ、細判のおおくに背景がえがきこまれています。また「二代目市川門之助追善絵」や武者絵も数点あります。
ちなみに、作品の大きさですが、大判がB4くらいだとすれば、間判がA4、細判がA4のすこし細長いものとかんがえていただけるとよいかとおもいます[図1参照]。
いっぱんてきに浮世絵師は、読本や黄表紙の挿絵をえがくことからはじめ、ついで細判や小判、さいごに大判を制作することができるのですが、写楽はいきなり28枚の大判錦絵でデビューし〈第3~4期〉で間判へとスケールダウンしていくのです。これもふつうではありません。
池田満寿夫氏は〈第1期〉の写楽絵いがいは本物の写楽の作品ではないと断じました。
しかし、作品を詳細に比定すると、写楽の真作は〈第1期〉のすべてと〈第2期〉の大判4枚と細判10枚、および〈第3期〉『大童山文五郎土俵入(3枚つづき)』だけです。
つまり、げんざい写楽の作品と云われているもののおよそ2/3(96枚)は、複数人の代作者がえがいた写楽公認のニセモノなのです。