写楽、5月デビューのなぞ!〈3〉
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東洲斎写楽と云う逸材をえてのことではありますが『曾我祭』とのメディア・ミックスにかけた蔦屋重三郎の戦略はじつにだいたんなものでした。
まず〈第1期〉の枚数がすごい。一気に28枚もの役者絵を売りだすことが異常です。
たとえば、前述した豊国の「役者舞台之絵姿」シリーズですが、かれが2年間でえがいたシリーズ総数は20数枚。写楽が〈第1期〉でえがいた枚数とほぼおなじでしかありません。
当時はまだまだ知名度もなかった葛飾北斎が、安永8[1779]年から寛政5[1793]年の14年間でえがいた役者絵で現存するものがおよそ60枚。
それだけ北斎の役者絵に需要がなかったと云うことでもありましょうが、写楽が「一両年」でえがいた役者絵の総数にもおよびません。
もっとも、豊国や北斎は人気のある役者しかえがいていないので枚数がすくないこともありますが、蔦屋重三郎は『曾我祭』とのメディア・ミックスに1年分(?)の資金や労力をつぎこんで、写楽に28枚と云う、ぼう大な枚数の役者絵をえがかせたのです。
写楽〈第1期〉すなわち『曾我祭』写楽プロジェクトは、もともと限定特別企画だったとかんがえられます。『曾我祭』写楽プロジェクトの資金は歌舞伎界だけでなく芝居町までまきこんで調達したのでしょう。
控櫓の3座で、もっとも資金ぐりに難儀していたとおもわれるのが河原崎座です。
河原崎座は5月の『曾我祭』にも参加していませんし、げんざいまで確認される写楽〈第4期〉には1枚もありません。
ただし〈第1期〉の写楽絵では、都座の11枚についで、河原崎座の10枚、桐座の7枚と、河原崎座の枚数は桐座よりもおおくなっています。『曾我祭』に参加できないぶん、写楽絵のほうに資金をまわしたのかもしれません。
『曾我祭』写楽プロジェクトは大成功しました。本来は限定特別企画だったはずですが、世間も版元の蔦屋重三郎も第2弾をのぞみます。
〈第2期〉は7~8月の舞台をえがいていますが、都座の初日が7月25日、河原崎座の初日が8月7日。桐座の初日は役者の病気で公演が延期され8月15日と、ぜんたいてきに8月にちかく、準備期間はおよそ2ヶ月とかんがえてよいでしょう。
そして、写楽は〈第2期〉で〈第1期〉を上まわる38枚の役者絵をえがいています。おそらくは〈第1期〉よりも制作期間のみじかいなかで、一流のプロ絵師でもこなせないほどの枚数を、ぽっとでの新人浮世絵師にえがくことができたのでしょうか?




