表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/29

写楽、5月デビューのなぞ!〈1〉

     1



 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は、寛政6[1794]年5月に28枚と云うとんでもない数の大判錦絵でデビューしました。これが〈第1期〉です。


 しかし、みなさんは奇妙におもわれないでしょうか? そもそも、なぜ5月なのか? と。


 たとえば、同時代に役者絵で人気を不動のものとしていた歌川豊国は、寛政6[1794]年正月から「役者舞台之絵姿」シリーズをはじめています。


 期待の大型新人・写楽の浮世絵をおひろめするのであれば、江戸歌舞伎の新年度にあたる11月や、おめでたいお正月でもよかったはずです。


 じつのところ、写楽が5月にデビューしたのには、ちゃんと意味があるのです。


 そこには遊郭(ゆうかく)・吉原のガイドブック『吉原細見』をベストセラーにした耕書堂(こうしょどう)蔦屋(つたや)重三郎のだいたんなメディア・ミックス戦略がありました。


 寛政6[1794]年、江戸歌舞伎は不況にあえいでいました。幕府から江戸で歌舞伎の興行をみとめられていた江戸三座(中村座・市村座・森田座)は、経営難などから控櫓(ひかえやぐら)都座(みやこざ)桐座(きりざ)河原崎座(かわらさきざ))に劇場をあけわたしていました。


 低迷する歌舞伎人気をそこあげするひつようのあった控櫓(ひかえやぐら)都座(みやこざ)桐座(きりざ)は、劇場をとびだしてハデなパフォーマンスで大衆をわかせました。それが寛政6[1794]年5月27日の『曾我祭(そがまつり)』です。


 耕書堂(こうしょどう)蔦屋(つたや)重三郎は、写楽のデビューをこの『曾我祭(そがまつり)』にあわせたのです。



     2



曾我祭(そがまつり)』とは、江戸時代に江戸三座でおこなわれたイベントのひとつです。


 江戸歌舞伎では、毎年1月に3座とも曾我(そが)兄弟の討入(うちい)りをモチーフにした「曾我(そが)狂言」をかけました。その狂言がヒットすると、曾我(そが)兄弟が討入(うちい)りをおこなった5月28日に各劇場で「大ヒット御礼感謝祭」をもよおしていました。


曾我祭(そがまつり)』は舞台上や楽屋でいろいろおこなうのですが、さいごに劇場をとびだし、さまざまな趣向(しゅこう)練物(ねりもの)や踊りなどをみせながら町内をパレードするのがならわしでした。


 この年の『曾我祭(そがまつり)』は例年にないほどハデなパレードで好評を(はく)したと云います。『歌舞伎年表』によると、役者だけでなく裏方までハデな衣装を身にまとい「松ヶ枝踊(まつがえおどり)、雀おとり、女夫おとり、住吉おとり、角力(すもう)おとり、其他色々趣向仕候(そのほかいろいろしゅこうつかまつりそうろう)」だったそうです。


 あんまりハデにやりすぎて、幕府からおとがめをうけました。しばらくは『曾我祭(そがまつり)』そのものが禁止(自粛(じしゅく)?)され、8月には役者の年俸も上限を500両とさだめられることになってしまいます。


 当時、最高年俸900両だった三代目瀬川菊之丞は400両もカットされてしまいました。○電の社長だってここまで身はけずりません。


 おそらく、どこからか大々的な『曾我祭(そがまつり)』の計画をききつけた蔦屋(つたや)重三郎が控櫓(ひかえやぐら)の3座へメディア・ミックスをもちかけたとおもわれます。


 歌舞伎界から浮世絵業界へオファーしたものなら、無名の新人ではなく豊国や春英に白羽の矢をたてていたはずだからです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ