写楽、5月デビューのなぞ!〈1〉
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東洲斎写楽は、寛政6[1794]年5月に28枚と云うとんでもない数の大判錦絵でデビューしました。これが〈第1期〉です。
しかし、みなさんは奇妙におもわれないでしょうか? そもそも、なぜ5月なのか? と。
たとえば、同時代に役者絵で人気を不動のものとしていた歌川豊国は、寛政6[1794]年正月から「役者舞台之絵姿」シリーズをはじめています。
期待の大型新人・写楽の浮世絵をおひろめするのであれば、江戸歌舞伎の新年度にあたる11月や、おめでたいお正月でもよかったはずです。
じつのところ、写楽が5月にデビューしたのには、ちゃんと意味があるのです。
そこには遊郭・吉原のガイドブック『吉原細見』をベストセラーにした耕書堂・蔦屋重三郎のだいたんなメディア・ミックス戦略がありました。
寛政6[1794]年、江戸歌舞伎は不況にあえいでいました。幕府から江戸で歌舞伎の興行をみとめられていた江戸三座(中村座・市村座・森田座)は、経営難などから控櫓(都座・桐座・河原崎座)に劇場をあけわたしていました。
低迷する歌舞伎人気をそこあげするひつようのあった控櫓の都座と桐座は、劇場をとびだしてハデなパフォーマンスで大衆をわかせました。それが寛政6[1794]年5月27日の『曾我祭』です。
耕書堂・蔦屋重三郎は、写楽のデビューをこの『曾我祭』にあわせたのです。
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『曾我祭』とは、江戸時代に江戸三座でおこなわれたイベントのひとつです。
江戸歌舞伎では、毎年1月に3座とも曾我兄弟の討入りをモチーフにした「曾我狂言」をかけました。その狂言がヒットすると、曾我兄弟が討入りをおこなった5月28日に各劇場で「大ヒット御礼感謝祭」をもよおしていました。
『曾我祭』は舞台上や楽屋でいろいろおこなうのですが、さいごに劇場をとびだし、さまざまな趣向の練物や踊りなどをみせながら町内をパレードするのがならわしでした。
この年の『曾我祭』は例年にないほどハデなパレードで好評を博したと云います。『歌舞伎年表』によると、役者だけでなく裏方までハデな衣装を身にまとい「松ヶ枝踊、雀おとり、女夫おとり、住吉おとり、角力おとり、其他色々趣向仕候(そのほかいろいろしゅこうつかまつりそうろう)」だったそうです。
あんまりハデにやりすぎて、幕府からおとがめをうけました。しばらくは『曾我祭』そのものが禁止(自粛?)され、8月には役者の年俸も上限を500両とさだめられることになってしまいます。
当時、最高年俸900両だった三代目瀬川菊之丞は400両もカットされてしまいました。○電の社長だってここまで身はけずりません。
おそらく、どこからか大々的な『曾我祭』の計画をききつけた蔦屋重三郎が控櫓の3座へメディア・ミックスをもちかけたとおもわれます。
歌舞伎界から浮世絵業界へオファーしたものなら、無名の新人ではなく豊国や春英に白羽の矢をたてていたはずだからです。




