ふたりの菊之丞、ふたりの野塩。〈4〉
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では『二代目中村野塩の貫之息女・この花』とされる作品にえがかれた歌舞伎役者の正体はだれでしょう?
その人物こそ初代中村金蔵。二代目中村野塩につきしたがい、上方よりくだってきた二代目中村野塩の息子です(のちの三代目中村野塩)。
寛政6[1794]年11月『閏訥子名歌誉』と『鶯宿梅恋初音』の顔見世番付には、二代目中村野塩のとなりにどうどうとその名をつらねており、役割番付でも全4幕のうち第2幕にのみチョイ役で登場したらしいことが確認できます。
役割番付は脚本があがるまえにかかれた出演予定表で、へんこうもままあったとされています。そのため、じっさいに初代中村金蔵が舞台へ立ったのかどうかはわかりません。
初代中村金蔵は瀬川福吉・瀬川三代蔵・中村万世らとおなじチョイ役のため、興行中に劇場で販売された『閏訥子名歌誉』の絵本番付にもそのすがたはえがかれていません。
ですが、その翌月・閏11月『花都廓縄張』の絵本番付には、父・野塩とおなじ舞台に立つ初代中村金蔵がえがかれています。
二代目中村野塩は江戸へくだって6年後の寛政12[1800]年にこの世を去りますが、東京大学総合図書館秋葉文庫所蔵の『絵本番付集』をひもとくと、初代中村金蔵は父・野塩とともに寛政9[1797]年の10月までは都座で、同年11月からは中村座、寛政10[1798]年11月からは森田座の舞台に立っていたことがわかります。
ただし、ここにもひとつミステリがあります。
じつは、この初代中村金蔵、記録によると二代目中村野塩が江戸へくだってきた寛政6[1794]年11月から1年間、上方の角座で座本(興行主)をつとめているのです。
座本の名前は角座の役割番付の先頭にいちばん大きな字で黒々としるされています。いったいこれはどう云うことでしょう?
江戸の座元と上方の座本では漢字がちがうように、上方の座本は名義貸しが常態化していたのです。実質的には名代主(名代)が興行権をもち、仕打(仕内)が資金をだしていました。
ようするに、初代中村金蔵も座本へ名義だけ貸して江戸へきていただけのはなしなのです。
上方の役者もチョイ役もおおくえがいた写楽が新顔である二代目中村野塩の息子を1枚くらいえがいておこうとおもったところでおかしくありません。
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写楽絵にはまちがって喧伝されてきた歌舞伎役者がふたりもいました。
そして、それはふつうに絵をみればだれにでもわかるはずなのに、写楽ファンはおろか研究者ですら看過してきたのです。
作品をみあやまらせたのは絵そのものではありません。みるがわの知識と先入観です。絵をみるために知識がひつようないとはおもいませんが、知識にふりまわされてもつまらないとおもいます。




