世界でいちばんなぞの絵師!?〈1〉
※ この文章は、かつて〈よのすけ〉名義で2006年10月4日にWebサイト『水羊亭画廊』に掲載したものを大幅に加筆訂正したものです。
【1】世界でいちばんなぞの絵師!?
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「もんだいです。有名な浮世絵師を4人おこたえください」
そうきかれれば、日本美術にあまりきょうみのない人でも「歌麿、北斎、広重、写楽」くらいはこたえられるでしょう。
浮世絵界の「BIG4」にその名をつらねる東洲斎写楽ですが、じつのところ、写楽の浮世絵師としての活動期間は1年もありませんでした。
世界的な巨匠とよばれる画家のなかでも、写楽ほど活動期間のみじかい画家はほかにいません。
写楽は寛政6~7[1794~95]年のおよそ10ヶ月のあいだに約150枚のインパクトにとんだ浮世絵版画(おもに歌舞伎の役者絵)をのこして忽然とすがたをけしました。
それ以前の作品もなければ、それ以後の作品も一切ありません(「写楽画」と云う落款の扇面画など数点があるものの、いずれも真贋不明)。
記念切手や美術の教科書でもおなじみの東洲斎写楽は、世界でもっともなぞにみちた浮世絵師なのです。
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「歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきなせしかハ、長く世に行れず、一両年にて止む」(『浮世絵類考』)
浮世絵師のプロフィールをまとめた『浮世絵類考』にそうかかれているように、写楽はたくみなデフォルメできわめて「写実的」な役者の似顔絵をえがました。
うつくしさが信条の女形ですら「じつはオッサン」とわかるようにえがかれてはたまったものではありません。
「しかしながら筆力雅趣ありて賞すべし」と『浮世絵類考・加藤玄亀(曳尾庵)本』へかきしるされたように、写楽絵の評価は賛否両論ありました。
斬新で強烈な個性ゆえに、写楽は「オンリーワン」としての評価を確立していたものの、その異質さゆえに「一流の浮世絵師」とみとめられていたわけではありません。
そんな写楽が「一流の浮世絵師」としていっぱんにひろく評価されるようになるのは、明治10[1910]年いこうのことです。
ドイツ人のユリウス・クルトがかいた『SHARAKU』と云う本の評価をうけて、日本でもたかく評価されるようになりました。それまであまり注目されてこなかった日本の芸術家が、海外での高評価をうけて、日本でも再評価されることはめずらしくありません。
東洲斎写楽の正体は長いことかくされていました。写楽の氏素性についてはじめてかきしるされたのは文政4[1821]年以降。写楽がすがたをけしてから、なんと26年後のことです。
まず式亭三馬が「江戸八丁堀ニ住ス(江戸八丁堀にすんでいた)」とかきました。
そして『浮世絵類考・達磨屋伍一本』では「写楽は阿洲侯の士にて俗称を斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話那り(写楽は阿波藩の士分で名前は斎藤十郎兵衛だと栄松斎長喜老人がはなしていました)」としょうかいされています。
栄松斎長喜は美人画をとくいとした高名な浮世絵師です。かれの美人画のなかに写楽絵のうちわがえがきこまれている作品のあることや、写楽を意識したとおもわれる役者絵のあることでも知られています。そんな栄松斎長喜のコメントが事実であれば、信ぴょうせいはたかいと云えるでしょう。
また、このことがかきしるされたのは、斎藤十郎兵衛が亡くなったとされる文政3[1820]年の1年後です。そうぞうをたくましくすれば、斎藤十郎兵衛の喪があけるのをまって、かきしるされたとかんがえられます。