記憶
どうしても、忘れたくない思い出がある。
あのとき、全てが満ち足りていたのだろう。
私の手を引く大きな手のひらは慈悲深く、その温かさが幼い私を笑顔にさせた。高い背の向こうから投げかけられる夜色の瞳は常に私を捉え、私はその頃孤独というものを知りさえしなかった。広い背を走り追いかけることはひどく栄誉あることで、私は彼のそばに寄り添うために生まれたのだと確信していた。
それはそれは、幸せな日々だった。
朝、起きたら隣の彼と身支度を整え、軽く魔法の練習をしてから朝食を摂る。それから日の高いうちは広い世界を歩き回り、日々その様子を観察した。彼は弱った獣がいれば癒してやり、枯れそうな木が有れば生命力を与えた。そうしてあちこちを渡り、夜には小高い丘の上から雨のように降り注ぐ星の光をあびたり、清涼な泉のほとりで妖精たちと戯れたり、人々の住処を離れた場所から観察したりして私たちは過ごした。
同じ日は二度となく、毎日の新しい出逢いは退屈を感じる暇もなかった。たった二人きりの暮らしは、空の色や香しい花の香りや穏やかな川の水音で賑やかに彩られていた。私たちが訪れる場のすべてはいつも完璧に統制され、美しい。幼い私の目に映り、耳に響き、鼻に香り、肌に触れるすべては、私を連れる黒色の影と同じ温度を持っていたように思う。
今は手の届かない、懐かしい思い出。
記憶には欠けがあった。ずいぶん昔のことだからだ。時間は無情に私から彼を奪い取り孤独をおしつけようとしてきたけれど、それに抗って幾度でも思い返す。これ以上欠けぬよう脳裏に焼き付ける。これだけが、私の道標だ。
私に向けられた穏やかな瞳を、決して忘れるわけにはいかない。
「……お前は、俺のただ一人の家族だ。ずっとそばにいてくれよ……」
そう言って私の髪を不器用に撫でたあの人は、寂しがっていないだろうか。
あんなにきれいな無二の世界を創り出したのだろうになお、独りを嫌う彼。
私の愛しい、迷宮主。




