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賢者の迷宮  作者: うにどん
11/18

賢者ファムルタール、帰郷する

 勇者、聖女と別れた翌日から、急ぎ一人で迷宮へと向かう準備を進めた。自走魔道車を走らせれば半日でつく距離も、馬では倍かかる。大商人や王侯貴族ならば持ってもいるだろうが、まだまだ自走魔道車はいっかいの市民が持つものではない。だいたい、私などは旅をしているので、整った道しか走れない車はむしろ邪魔なのだ。私は健脚そうな馬を一頭買い、昼には荷物をまとめて下町の安宿を発った。

 迷宮までの道のりはよく均されていて、定期的に人が迷宮街に訪れていることがわかった。少ないながらも、旅の商人の一団ともすれ違う。私は馬を休ませながら、しかし道沿いの村々には寄ることなくまっすぐに進んだ。目的地へと近づくにつれ、冷静だと思っていた頭の奥がだんだんとまた熱くなってくる。私はワクワクしているのだ。どんな迷宮に立ち入る時も同様の思いは少なからずあるものだが、この先の地こそ長い間探し求めた故郷だという確信めいた予感が胸をはやらせるのだった。

 夜は道沿いの木陰に野営し、朝は日が昇るより早くに目覚めた。今日もしっかり走ってもらえるように枯れ草を凝固させた餌を馬に与え、水の魔法で軽く顔を洗う。今から走れば昼には迷宮の領域に到達するだろうと地図を確認しながら硬いパンとチーズで腹を満たすと、一晩経ってもおちつかない胸の内がさらに騒々しくなった。


 あの人があの迷宮にいる。


 百年も前に見失った手のひらの暖かさがじんわりと思い出され、いても経ってもいられずに馬にまたがった。手綱を取りながら心は記憶の波を攫っている。目の端に流れていく景色は見慣れたもののように感じ、馴染みの道をかけているかのような郷愁が背を押してくるかのようだ。

 夢中で旅順を早め、予定よりすこし早く迷宮の光壁へとたどりついた。急がせてしまった馬を労わり、毛を梳いて休息をとらせる。私はもはや全ての疑念を解きほぐし、帰り道を得たのだと解っていた。境界を示す光に、忘れようのない懐かしい魔力を感じ得たから。

 長い時間がかかってしまったが、私は帰ってきたのだ! 大きな歓喜と安堵で、ズルズルとその場へへたり込んだ。たった一人で生きた旅路は決して楽な思い出ではない。努力を重ね、欲さぬ賢者の名を負い、故郷へ戻ることだけが希望だった。

 とたん、私は不安に襲われた。はじめずっと考えていたそのことは、考えてわかることでもないからと長い間蓋をして心の奥底に沈めていたものだ。けれど今こうやって、数歩先に進めば戻れてしまう希望の地を目にし、急速にその思考は精神の表層へと浮き上がってきていた。


 私は、あの人に棄てられたのではないか? 

 戻ってきてもよかったのだろうか。


 私は一人顔を青ざめさせたが、大きく首を振って雑念を払った。それならなおのこと、確かめねばならないと思った。幼い頃ならばもとより、今ならば本当の一人になっても生きていけるのだ。どんな理由であったにせよ、私はどうしてもあの人を憎むことなんてできはしないと感じている。せめてもう一度、言葉を交わすくらいこの孤独な旅路に免じて許されるべきだ。

 思考を整理しながら、私は大きく息を吸い、ゆっくり吐き出した。恐れはいまここで必要ない。馬を率いたまま、大きく一歩を踏み出した。


 故郷へと戻った私は、夜がふけるまで記憶を確かめるように小高い丘や清涼な泉のほとりを訪れ、迷宮の中をあちこち彷徨った。馬は青々とした草の茂る草原に放した後だ。迷宮の恩恵を受けて野生でも生きていくことが出来るだろう。今は一人、街を遠くに望める大木に腰掛けてぼうっとそれを眺めているところだ。今日行ったどの場所にもあの人はいなかった。

 迷宮に立ち入って一つ、自分の肉体に大きな変化があった。頭の奥で何かにつながっていた、記憶を辿り迷宮のことを考えるといつも熱くなっていた場所が、突然ぶつりと切断されたように冷たくなったのだ。それはまるで、あの人からの拒絶であるかのようだった。体中を満たしている熱が温度を下げたように感じ、おぼつかなさが故郷の地に居る安心感とせめぎあって心持ちはとても不安定だ。

 この迷宮をつくり、支配する黒い輪郭。その大きな魔力の固まりは、どうやら街の中にいるようである。勇み足で飛び込んだはいいが、どうにも踏ん切りがつかず、いないとわかっている思い出の地を巡っていたのだった。


「……明日、会いに行こう」



 ここまできて会わないと言う選択肢はない。意気地のないのは今晩までだと私は自分に言い聞かせた。あまりぼやぼやしていても、勇者や領主がやってくることを思うと、足踏みもしていられない。

 そうは考えても、冴えた瞼を下ろすのには苦労した。冷たい後ろ頭をひとなでして寂しさを紛らわし、無理にでもと眠りについた。


 翌朝、ほとんど浅い眠りしかとれなかったことによるけだるい足取りで、私は街に向かった。あの人の場所は分かっている。昔から、私は直感的に迷宮に満ちる魔力がどう偏り、どこにその主がいるかを本能的に悟ることができた。それが、私が迷宮の賢者などという囃し立てを受ける原因の一助にもなったわけだが、もしかすればこの能力も私が迷宮主に育てられたから故なのかもしれない。

 ゆっくりした足取りで歩いたからか、街に入ったのは日も高くなったころ。あちこちの白い家からは昼食を作る匂いがただよってきている。いつも遠くに見ていた思い出の姿よりも一段と栄え、賑やかな街だと思った。

 こんな街にいるのなら、あの人も少しは寂しくなかっただろうか。

 そんなことを思った時、目指す方角で大きな魔力の気配が膨れ上がり、同時に地面を揺らす爆発音が鳴り響いた。


「!?」


 迷宮主と爆発した魔力がごく近いところにあることに気付いた時には、私は身体加速の魔法を使いながら走り出していた。


(だめだ、だめだ、だめだ----あの人は、誰にも渡さない!)


 呼吸をするのも忘れて向かった先には、崩れた白い壁と立ち込める土埃、顔を覆う勇者と聖女、片腕をあらぬ方向に折り曲げた領主、そして----闇が濃密に蟠りその形を作る、この迷宮の支配者の姿があった。

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