特別なライオン
*****
週明け。
悲しみにくれる私を、更にどん底に蹴り落とすような出来事が起こった。
それは柚希からの内線電話で知ることとなる。
『マヒル……落ち着いて聞いて』
「なによ……怖いんだけど」
『私、今日は早出で開発部の人とエレベーターで一緒になったんだよね。そしたら有川物産に送る祝電の話をしてて、聞き耳たててたら、今晩、婚約発表するって……治人さんが……有川治人が婚約したらしいの』
頭を殴られたような衝撃を覚えた。
激しい目眩がして目の前が真っ暗になり、転げ落ちそうになるのを防ぐため、必死でデスクにしがみつく。
治人さんが、婚約……。
『相手は緑川グループの、緑川冴子さんらしいわ』
「そ、う……」
『ごめん、電話で言う事じゃないのは分かってる。けど私の口から耳に入れておいた方がいい気がして』
「ありがと、柚希。私は大丈夫だから」
大丈夫じゃなかった。
治人さんが、婚約。
相手は緑川グループの緑川冴子。
……ちょっと待って、緑川……。どこかで、聞いた名だ。
私は電話を切って眼を閉じた。
緑川……。あっ!
『緑川さん』
『この方が恋人なの?』
『そうです。ですから僕はあなたのお気持ちにはお答えできません』
あの時、確かに來也は緑川さんって……。
『私は緑川冴子と申します。……あなたは、相澤さんと真剣にお付き合いをされているのですか?』
間違いない。彼女は私を見て、確かに言った。緑川冴子ですって……。
そう言えば、私はあの日の事を来也に聞いていない。
來也とは二度三度しか会ったことなかったし、まさに『ひょんな事から出会った人』としか考えてなかったから、彼のプライベートなんて興味なかった。
彼は背も高くて顔も良くて凄くモテるのは一目瞭然だったから、どうせ緑川さんに言い寄られて交際を断るためには付き合ってる彼女を見せちゃえ、的な感じだろうなと想像していたのだ。
けど、それがきっかけで私と治人さんの関係にヒビが入った。そして今、それだけじゃなくなった。
來也が振った緑川さんと、私の恋人だった治人さんが、婚約?!
どうしてそうなるの?
『寄り道しないで帰ってこい』
來也からのラインに眼を通すと私は両手で顔を覆った。
このときの私には、冷静に考える余裕がまるでなかった。
******
なんとか業務をこなし、定時が過ぎた頃、付いていようか?と言ってくれた柚希に感謝しながらも、私はその申し出を丁重に断った。
誰よりも來也に会いたかったから。
渡されたカードキーを使い、30階の來也の部屋に入ると、私はリビングの床にペタンと座った。
來也はまだ帰っていなかった。
テレビもスマホも怖くて見れなかった。
*******
「マヒル……」
パチンと音がして部屋中が明るくなり、私は眼を細めた。
「おっかえりー!!」
來也はボトルを持っている私を見て唇を引き結んだ。
「スーツ姿の來也はかっこいーねえ!あ、ごめん、勝手にバーボン開けちゃった」
「バカか、お前は。飲みすぎだ」
私はフフフと笑った。
「そんなに飲んでないし。……それに、酔った方が今はいいと思ったから」
來也が私の頬を両手で包み込んで、至近距離から瞳を覗き込む。
「焦点合ってねーぞ」
私は來也に抱きついた。
「來也」
「ん?」
「治人さんが、緑川冴子さんと婚約したんだって」
來也は一瞬息を飲んだけど、すぐに頷いた。
「……らしいな」
それだけ言うと來也は私に回した手で、ポンポンと背中を叩いた。
「ほら、大丈夫か?俺がシャワーから出てくるまでソファにいろ。飯は?」
……なんだ、この温度差は。
「……食べてない。そーじゃなくて私、悲しんでるんだけど。元気付けてよ」
來也は上着を脱ぎながら私をチラリと見た。
「もう別れたんだし相手は婚約したんだし、どうしようもないだろ。諦めろ」
私は眉間にシワを寄せて來也を睨んだ。
「諦め方が分かんないから困ってんの!」
「分かった分かった!」
來也はそう言うとバスルームへと消えていった。
……雑い。なんと雑い扱いなんだ。
ところが來也はすぐに出てきた。
急いで出てきたのか上半身裸でガシガシと頭を拭きながら、冷蔵庫の炭酸水を勢いよくグイッとあおっている。
「で、なに、慰めてほしいって?」
……水も滴るいい男とは、まさに來也の事だ。私は來也の裸の上半身を見つめた。
「……來也は……フラれた事とか、ある?」
來也は私を見てニヤリと笑った。
「ない」
でしょーね!!
來也は私を斜めから見ると、クスッと笑った。
「悪いが失恋の対処法は教えてやれない。けど、傍にはいてやる」
私は何だか可笑しくなって笑った。
「私も悪いけど來也のせいでもあるんだから元気になるまでここから出て行かないからね!」
來也が頷いた。
「家賃はただにしてやるよ」
「当然でしょ!弱ってる女から家賃取るなん……」
言いながらテレビの電源を入れた私は、映し出された画面に釘付けになった。
『経済界でのビッグカップル誕生!有川物産のプリンス有川治人さん・緑川グループのプリンセス緑川冴子さんご婚約発表記者会見』
眼を開けていられないほどのフラッシュの中、治人さんと冴子さんは、金屏風の前に並んでいた。
「消せ」
來也が私の手からリモコンを奪い取って電源をオフにした。
私は大きく息をついた。
ああ、本当に終わったんだ。
庶民の私には理解できないけど、お金持ちの人達にはこういう結び付きが必要だったりして、こういう人達がいるからこそ日本経済が発展していくのかも知れない。
まるで理解できないけど、とにかくこれは分かった。
治人さんと結ばれるのは私なんかじゃなかったって、事実。
來也のせいでも、神様のせいでもない。
私と治人さんは、最初から結ばれる間柄じゃなかった。
赤い糸は、二人を結んでなんていなかったのだ。
何だかやけにスッキリした。
夕立の後の、爽やかな空と空気を思い出して私はもう一度大きく息をつくと來也を見上げた。
「來也……色々ごめんね。私、もう大丈夫だよ」
來也は眩しそうに眼を細めて私を見つめた。
私はそんな來也をみて大きく笑う。
「なによその顔!酔ってメソメソしてたと思えば急に元気になったものだからビックリした?」
私は続けた。
「何だかさっきの映像を見て思ったよ。確かに私達は恋してたけど、死ぬまで一緒にいるような縁はなかったんだなって。悲しいけどもうグズグズ泣くのは終わりにする」
その時カタンと音を鳴らして來也がリモコンをテーブルへ置き、一瞬それに気を取られた私を、彼は素早く引き寄せて胸に抱いた。
「なあ知ってるか?」
私は首をかしげて來也を見つめた。
「……なに?」
「孤児になった少年が、特別なライオンを探す話」
「……特別な、ライオン?」
「ああ。泣き虫で弱虫な孤児の少年は、強くなるために特別なライオンを探すんだ。
もう二度と泣かないために。
これから出逢うであろう大切な人を守れる、強い男になるために。
特別なライオンにキスをされると、強くなれるから」
來也は更に私を引き寄せた。
これ以上くっ付けないほど密着した裸の肌が熱い。
「……お前は俺を見かけ倒しのライオンみたいだって言ったけど……俺がお前の特別なライオンになってやるから。お前がこの恋の終わりから、きちんと立ち直れるように。お前が前を向いて歩けるように」
來也の焦げ茶色の瞳を、私は夢中で見上げた。
「……來也が?」
返事の代わりに來也の唇が降ってきて、私は眼を見開いた。
柔らかくて優しい、來也のキス。
じんわりと身体に広がる、何ともいえない安心感。
ふしだらだと思われても仕方がないけど、私は嬉しかった。
ねえ來也。
來也が私にとって特別なライオンなら、私は本当に強くなれる気がするよ。
だからこのキスで背中を押して。
そしたら今すぐ、治人さんとの思い出にすがって生きるのをやめにするから。
そして、誰かを守れる強さをちょうだい。どうか私に。
そう願いながら私は來也のキスを受け続けた。
******
「おはようございます!」
「おはよう、藤吉、なに、今日は爽やかだな!」
中川君がデスクから私を見上げた。
「いつも爽やかだっつーの!おっともうすぐ送金日だね。それと税金関係の準備はやっとかないとね」
中川君がニヤリと笑った。
「それ菜穂さんが早出してやってくれたよ。藤吉は貨物関係やっといて。配送確認もね。今日は定時で上がれるよ」
一瞬にして胸が熱くなる。私の状況を察してくれているのだ。本来なら、私がやるべき業務なのに。
私は中川君に頷いてから菜穂さんのデスクへ向かった。
「菜穂さん、ありがとうございます」
菜穂さんはパソコンから私に視線を移すと、じっとこちらを見つめた。
「早くマヒルが立ち直って、肉食全開で新しい男をゲットする話、聞きたいだけ!バーで男引っ掛けて、その気にするだけして逃げた話とかね!」
來也との話だ。あの後すぐに治人さんとの交際が始まったから、そういう話もストップしていた。私は、あはははと笑った。
「出来るだけ早く肉食系に戻るように頑張ります!」
「私が男にフラれて化石みたいになったら、仕事手伝ってね」
私はしっかりと頷いた。
菜穂さんは素敵だからフラれてたりなんかしないと思うけど、菜穂さんに何かあったときは出来る限りの手助けをしようと誓いながら。
******
『何時に帰る?途中で待ち合わせしようぜ』
《治人さんのマンションに寄ってから帰るよ。いい加減、荷物を運ばなきゃならないから》
私は来也と、短くラインでやり取りしながら治人さんのマンションへと向かった。
『平気か?付いていこうか?』
《心配性のライオンだなー。大丈夫だよ、ありがと》
『何かあったらすぐ電話してこい』
《うん》
……正直、荷物なんて化粧品と少しのバッグ、貴金属と服に靴だけだ。
家具類なんて私のものはひとつもないし、一、二度の往復で運び終えるくらいの量しかない。取り敢えず、運べるだけ運ぶか。
私は治人さんのマンションに入ると、部屋の奥の広いクローゼットへスーツケースを取りに向かった。
化粧品や貴金属、バッグやドライヤーを詰め、服を丁寧に畳んでスーツケースに入れていく。さすがにすぐに一杯になり、私はもうひとつのスーツケースを開いた。
結局、全てのものを入れる事が出来ず、私はため息を漏らした。……この調子じゃ、今日中に運び出せないじゃん。
なんとか大きなスーツケースを2つ運びながらエントランスを出ると、私は驚きのあまり立ちすくんだ。
そこに、治人さんがいたから。
「コンシェルジュに頼んでたんだ。マヒルが来たらすぐに知らせてって。……久し振りだね……マヒル」
たちまち、掌にじんわりと汗が滲む。
あんなに愛しいと感じていた治人さんの存在が、今は恐怖でしかない。
……ダメ、怯んじゃダメ。私は気持ちを奮い立たせると、治人さんを正面から見据えて微笑んだ。
「ご婚約おめでとうございます」
瞬く間に治人さんの顔が歪んだ。
『裏切ったお前に祝ってもらいたくなんかない』
とでも言いたいのかも知れない。
「また近々、残りのものを取りに伺います」
「ねえ、マヒル、話があるんだ」
「……なに」
「ここじゃ話せない。部屋に戻って」
治人さんは切り返すように言って、私の手を掴んだ。ビクンと身体がすくむ。
「私には、ない。……離して」
治人さんが真顔で私を見つめて、呟くように言った。
「マヒル、愛してるんだ」
愛してる……?私を……?
「君が他の男とキスしてる画像を見て、僕は正気を失ってしまった。
君に酷いことをしたのを凄く後悔してる」
私はカラカラになった喉を必死で押し開いた。
「治人さん……もう遅いよ。もう、私達は」
治人さんが私を抱き締めた。
「いやだ、やめて」
寒気がして不快で、私は身を固くして治人さんから顔を背けた。こんなときに限って、誰も通らない。中のコンシェルジュも、ここからじゃ見えない。
「マヒル、君を諦めきれない!……僕考えたんだ。……僕のお祖父様も、父も愛人がいたんだよ。だから」
何を言い出すのだろう、この人は。早鐘のような心臓が痛い。
私は全身が冷たくなっていくのを止められなかった。
「ね?僕とマヒルがこれからも一緒にいる方法として、お祖父様や父のように」
治人さんがフフフと笑った。
「こっち向いて、マヒル。……キスしたいから」
嫌だ、嫌だ、誰か助けて!
その時だった。
「有川さん」
低い声が響き、治人さんの身体がぐらついて、私との間に距離が生まれた。
信じられなかった。だって、そこに來也がいたから。
治人さんの腕を捻り上げた來也は、私を見て短く言った。
「こっちに来い」
その顔は怒りに満ちていて怖かった。
來也は至近距離から治人さんを睨み据えた。
「有川さん、お戯れが過ぎるのでは?」
「は、離せ」
來也は更に治人さんの腕を捻り上げた。
「ぐっ……!」
「今後一切、マヒルに近付くのはよして頂きたい」
治人さんは來也を見上げた後、唇を噛み締めた。
一方、激しい怒りを瞳に宿した來也は、真っ向から治人さんを見据える。
その激しさに治人さんのみならず、私も同様に息を飲んだ。
やがて治人さんは來也から顔を背けると、ガックリと項垂れた。
來也は治人さんの腕を投げ出すように離すと、後ろを振り返って私を見た。
「行くぞ」
ギラリと光る瞳が怖い。
「う、ん」
スーツケースをトランクに積み込むと、來也は私を見て短く言った。
「乗れ」
***
……それからは全くの無言で、車内の雰囲気は死ぬほど悪かった。
助手席から運転席の來也を見つめると、これ以上ないくらいの不機嫌な横顔で、よくもまあ、こんなにムスッとできるものだなと関心すらした。
私は……來也とは真逆で、実は少し嬉しかったりするんだけど。
だって、ピンチをイケメンに救われるなんてシチュエーションはそうそうないし。いや、不謹慎なのはわかるし怖かったけど、微妙に心が浮き足立つような。
けれど來也の顔を見ていると、そんな思いも徐々にしぼみ始めた。声かけづらいなあ。
その時だった。
「お前っ!」
「きゃあっ!」
來也のデカイ声に驚き、私は反射的に悲鳴を上げた。
「な、なにっ」
チッ!と來也が舌打ちした。
どうやらこっちを向いて何か言おうとした瞬間、十数メートル先で赤だった信号が青に変わり、停止することなく再びアクセルを踏まなければならなかったのが原因らしい。
「あのー、……っ!」
怒ってるか聞こうとした瞬間、來也が私の手を掴んだ。
……聞くだけ野暮だ。だって、握られた手が痛いんだもの。
「あの、力強すぎ……」
再びギロリと來也が睨んだ。
……黙っていた方が良さそうだと、ようやく私は気付いた。
******
マンションの地下駐車場に着くや否や再び来也にギン!とガンを飛ばされ、私は素早く車から降りた。
部屋まで上がるエレベーターの中は、まるで拷問。
こっちをジッと見たかと思うと唇を引き結び、チッ!と舌打ち。
…………。
「ねえ、來也」
來也の部屋に入ると、私は悪すぎる雰囲気に耐えきれず、靴を脱ぐ前に声をかけた。
「怒ってるの?ごめんってば」
私に背中を向けたままの來也が、硬くて冷たい声を響かせた。
「なんで俺を呼ばなかったんだ」
「だって来也だって忙しいだろうし、ただでさえいっぱい迷惑かけてるのに、これ以上」
しどろもどろになって答える私をほったらかして、來也はさっさと靴を脱ぐと部屋の中へと消えていった。
……おーい……。
私はため息をつくと、來也の後を追ってリビングへと向かった。
「ねえ、來也」
「…………」
「來也ってば」
「…………」
來也は私を完全に無視している。
大きな背中を見ているうちに、私は無性に寂しくなって堪らずに來也の背中に抱きついた。
「來也ってば、もう怒んないで」
來也が動きを止めた。それからゆっくりと振り向く。
私は來也を見上げて、ポツンと呟いた。
「……ありがと。助けてくれて」
來也は唇を引き結んだまま私を見つめる。
彼は相変わらず瞳に苛立ちを浮かべていて、私はどうすればいいか分からなかったからただ黙って來也を見つめた。
「もう、あいつの部屋へは二度と行くな」
「……いやでもまだ服と、靴が……」
次の瞬間、ブシッ!と額に衝撃が走り、私は思わず額を押さえた。
來也のデコピンが命中したのだ。
「いったあ!」
「服も靴も、諦めろ」
そう言ってから、來也は私をフワリと胸に抱いた。
「……俺が買ってやるから」
私は來也が温かくて心地よくて、思わず眼を閉じた。
「……買わなくていいよ。必要ない。それより、機嫌直して」
異性の中で一番親しくなった来也に嫌われたくなかったし、これ以上怒られたくなかった。
來也は小さく息をつくと、諦めたように私の瞳を覗き込んだ。
「二度と有川治人と会わないって約束するなら許してやる」
私は即答した。來也に怒られたくないし、私ももう二度と治人さんに会いたくなんかなかったから。