壊れた
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朝。
私は会社に遅刻するという旨の電話をすると治人さんのマンションに向かう事にした。
本当は休みたい気分だったけど、服を着替えたかったしフォワーダーに送る資料に一部不備が発覚したため出来るだけ早く書類の作成をしなければならなかったのだ。
ああ、ほんとに気分が悪い。
来也のマンションを出ようとした時、彼が思いもかけない言葉を放った。
「電話番号教えろ。じゃないと外に出さない」
「……なんで?」
來也がムッとして私を睨んだ。
「俺はなあ、イイ男なんだ。深夜に恋人からDV受けたか弱い女性……いや多分、か弱かったのは昨晩だけだろーがな。……とにかく強かな女豹を放っておけない。また何かあったら俺に落ち度があったみたいな気分になって嫌だしな。どうだ優しいだろ」
……なんだ、人を奈落に突き落とすようなこの返答は。
「……お世話になりました」
「こら、聞いてんのか!スマホかせ!」
言うなり來也は私の手からスマホを奪い取った。
「きゃあ、何すんのよっ」
來也は両腕を高く伸ばして私の手を阻止しながらスマホを素早く操作した。直ぐに聞き慣れない着信音が、部屋の奥から聞こえる。
「はい、終了。ちゃんと履歴から番号登録しろよな!俺もしといてやるから」
……ジャイアンか、お前は。
思わず口を突いて出てしまいそうになる言葉を飲み込んで、私は來也のマンションを出た。
*****
当たり前だけど、治人さんは出勤していて留守だった。
手早く化粧を済ませ、大きめのバッグに身のまわりの物を詰め込むと、私は急いで会社へと出掛けた。
「おはようございます……」
「藤吉、おはよう。風邪でもひいたの?」
隣の席の中川君が、マスク姿の私を見て心配そうに眉をひそめた。
「ん、まあそんなとこ」
「今日は定時で帰りなよ?こないだ手伝ってもらったし今日は俺が頑張っとくからさ」
「ありがと。何種類かの買取期限の確認して輸入貨物の納期調べたら、後は昨日の書類作成の続きなんだ。定時であがれそう」
「そう?無理すんなよ」
うん、と返事をした後菜穂さんのデスクを見ると、彼女は丁度こっちを見ていた。
「大丈夫?」
彼女の口パクに思わず首を横に振る。
「後で聞くから」
私はコクンと頷いた。
*****
「信じられない!」
菜穂さんの怒りのこもった言葉に、私は小さく息をついた。
「治人さんの30歳の誕生日だったんです。なのに……」
「なんでそんなに豹変したんだろう。心当たりはないの?」
「心当り……実は、1つあります」
それは、この事件から二週間前に來也とキスした事だ。
正直、あの時の事が頭をかすめなかった訳じゃない。
けど私は來也とのキスに罪悪感などなかったから、スッポリ頭から抜けていた。
だってキスしてきたのは來也の方で、私じゃない。
それに私は治人さんだけを好きだから。
だから、治人さんの豹変の理由が來也とのキスだとは考えていなかったのだ。
けど……。私は菜穂さんに、來也との事を話した。
「けどそれは二週間前も前の話でしょ?それまでは治人さん、普通だったんでしょ?……二週間も経ってから彼が豹変する原因になのかしら」
わからない。
……治人さんは凄く忙しいみたいで、毎晩帰りが12時近かった。
「生活はすれ違いぎみだったけど、いつも通り穏やかで優しい彼でした。それが突然……」
菜穂さんがピシャリと言った。
「しばらく私の家にいなさい」
「菜穂先輩にそんなご迷惑おかけできません」
すると菜穂さんは笑った。
「彼が冷静になって謝罪してくるまで、うちにいればいいわよ。遠慮しないで」
私は胸が熱くなる思いで菜穂さんに頭を下げた。頼れる先輩がいて、幸せだと思った。
*****
その時はほどなくしてやって来た。定時前、治人さんからラインが入ったのだ。
「菜穂さん、あの……」
おずおずとスマホの画面を差し出すと、菜穂さんは眉を寄せた。
「すまなかった。話し合おう……か。大丈夫?」
「わかりません……けど、このままでもいられませんし……」
菜穂さんは心配そうに私を見た。
「気を付けてね。スマホは肌身離さずに持ってなさいよ」
*****
定時後、私は駅へと急ぎ、電車に乗ると治人さんのマンションへと帰った。
ソッと玄関ドアを開けると、治人さんの靴が見えた。
廊下を奥へと進むと、リビングのソファに治人さんの姿を見つける。
私の気配に治人さんがゆっくりと振り向いた。
思わずビクリとしそうになる身体を、私は必死で抑えた。
「……お帰り、マヒル」
「…………」
治人さんは立ち上がると、私の真正面に立った。
窓から差し込む夕日が、異様に明るい。
私はゴクリと喉を鳴らした。
治人さんは、僅かに微笑んでいる。
「昨日はごめん。どうかしてたんだ」
……どうかしていた理由を知りたい。
「なにか、あったの?」
途端に、治人さんは唇を引き結び僅かに目を細めた。
微妙に浮かび上がった、怒りのような苛立ちにもみえる表情。
けれど彼はそれを封じ込めるように再び微笑んだ。
「もう二度とあんな事しない。だから許してくれないか?」
頷くしかなかった。治人さんが好きだから。
けれど私の胸の中はザワザワとしていて、これ以上治人さんを見ていられなかった。
******
金曜日の定時後。
「……許せない」
柚希がポツンと呟いた。
柚希の彼、裕太くんが今日から7日間、香港へ出張で留守だというので、仕事帰りに私達はビールとツマミを買い込み、柚希のマンションで女子会を開くことにした。
あの日の出来事を詳しく柚希に話すと、彼女は怒り狂った。
「こんなこと言いたくないけどさ、有川さんって、変なんじゃないの」
言いたくないわりにはドストレートだ。
「理由は言わないんだよね」
「けど、なにかあったんでしょうね。來也とあんたのキスが原因?どっかから見てたの?!悪いけど不気味だわあ!」
その時、ラインの音がした。
……治人さんからだった。
《今、どこ?》
私は素早く返事を返した。
『会社の同僚の柚希のマンションで飲んでます』
私は首をかしげた。柚希が眉をひそめる。
「どうした?」
私はビールを一口飲んで柚希をみた。
「朝、ちゃんと言ってきたんだけどな。柚希と彼女の家で飲むからって」
《本当に?》
「やだ大丈夫?!」
柚希が私のスマホを見て顔をしかめた。
『嘘じゃないです』
……疑われてる。
「やっぱりしっかり話し合った方がいいわよ。謝罪されてそのまんま理由も聞かずに終っちゃうって、解決してない感じだよ?」
確かにそうだ。
《迎えに行くよ》
心臓がドキンとした……というより、ビクッとした。
「迎えに来るって……。断るよ」
飲み始めてまだ一時間も経ってなかった。
『自分で帰れるから大丈夫です。少しおそくなります』
返事は来なかった。
*****
三時間後。
汐留の柚希の家を出て大江戸線に乗ると、私は治人さんの家の最寄り駅で降り、歩き出した。
時間は午後九時を少し過ぎたところだった。
……少し気が重い。カードキーをしまい、ソッと玄関ドアを開けて、私は息を飲んだ。
治人さんがすぐ前に立っていたから。
「きゃ!」
治人さんはボーッと私を見た。
ううん、私を見たというより、見つめていた玄関ドアが開き、私が現れただけといった感じだ。
「治人さん……」
早鐘のような心臓をどうすることも出来ずに、私は治人さんをただ見上げた。
瞬きすらしない治人さんは、私が見えているのかも定かではなかった。
「治人さん」
少し大きめの声で呼ぶと、ようやく治人さんが瞬きした。
「……マヒル」
「大丈夫?」
「マヒル……何してたの」
「だから、柚希と」
瞬間的に腕を引かれた。
勢いよく治人さんの胸に頬がぶつかり、私はギュッと眼を閉じた。
抱き締められたと思ったその時、
「男の匂いがするか確認しないと」
思わず身体が硬直した。
抱き締められたのではない。疑われているのだ。
治人さんは、私の髪に顔を埋め、臭いを嗅ぎ始めた。
頭、首筋、服。
「やめて」
抱き締められたかった両腕は、今は恐怖でしかない。
「治人さん、もう離して」
もがく私を、治人さんが睨んだ。
「マヒルが悪いんだろ?!」
「治人さん、もう離して」
次の瞬間、ガツンと後頭部に衝撃が走り、私は目を見開いた。
治人さんは私を突き飛ばすと、足早に奥へと消えていった。
……もう、ダメだ。誰か、誰か。
その時、ラインの着信音がした。慌てて鞄を探り、スマホを取り出すとタップした。
……治人さんだった。
う、そ。
私は、彼が送ってきた画像に息が止まりそうになった。
……1つだけの心当たり。それが豹変の原因だったとは。
自分の脳天気さに、吐き気がしそうになる。
立て続けに着信音が響いた。
これはあの日だ。來也にアルバイトしないかと言われた、あの日の画像だ。
送られてきた数枚の写真は、あの時の状況通りの順番だった。
私と來也が手を繋いで立っていて、緑川さんも写っていた。
それから、來也が私を抱き締めてキスしている画像。
そんな私達から、緑川さんが俯いて去っていく画像。
最後は私と來也が手を繋いで歩いている画像だった。
身体中がスーッと冷えていくのがわかった。
……誰が、こんな写真を……。
最後に、
『浮気女。出ていけ』
……いやだ、待って。
「治人さん!」
私は慌てて靴を脱ぐと、奥へと走った。
リビングに突っ立っていた治人さんが、こっちを睨む。
「治人さん、話を聞いて!」
「マヒルだろ、これはどうみても。言い訳なんか出来ないだろ、こんな写真」
「確かにこれは私だけど、来也に頼まれて……來也が少し側に居てくれるだけで5万円払うっていうから私、」
「五万円でキスさせたんだ?」
「ち、違っ」
「この、売女!!」
治人さんが叫んだ。
「お前もそこいらの女と同じだ!僕なんかちっとも見ていない!見てるのは有川物産の金だけだ!」
「……確かに、10分側にいて五万円って言葉に承諾したけど、こんな状況だったなんて知らなかった!キスだって、來也が勝手に」
治人さんは、叩き付けるようにダイニングテーブルに両手をついた。
激しい音に、思わず肩を縮めるしかなかった。
「僕達はもう終わりだ!今すぐ出てけっ!」
は、ると、さん……!
あんなに穏やかで温厚な治人さんが、激しい憎悪を剥き出しにして私を睨み付けている。
私は必死ですがった。
「嫌、嫌!治人さん、信じて!來也とはそんなんじゃないの」
治人さんの瞳に、嫌悪という感情が色濃く浮かび、口角が上がった。
「じゃあ……証拠を見せて」
途端に、先日の出来事が蘇った。無理矢理に抱かれたあの辛い記憶が。
一歩、また一歩と治人さんが私に近づく。
これ以上打てないというくらい激しく打つ脈に、私は息ができなくなりそうな感覚を覚えた。
ニタッと笑った治人さんの顔を見た時、とうとう私は限界を感じた。
「嫌っ」
思いきり治人さんを突き飛ばすと、私は身を翻した。
マンションのエントランスのタイルで滑って転んだけど、私は脱げて飛んでいった靴を探す余裕なんてなかった。
怖くて悲しくて、死にそうだった。やみくもに走るには人が多すぎて、それでも私はしゃくり上げながら歩いた。
六本木は、いつでも大抵混んでいる。
人々が行き交う中、ワアワアと泣きながら歩く私は、きっと異様だっただろう。
けれど、誰にどう思われようとそんなことはどうでもよかった。
なんで?なんでよ。
來也のせいだ。來也が悪いんじゃん!!
私は來也に電話をかけた。こんな事になった元凶を、思いきり責めたかった。
『おー、女豹ちゃん、久し振り』
「來也」
『……泣いてんのか?』
私はわめいた。
「あんたのせいだからね!」
來也は少し息をついてから、低い声で言った。
『……迎えに行くから、場所言え』
「來也なんか大嫌いだから!会ったら殴ってやるっ!!うわあああん!」
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來也はすぐに迎えに来た。多分、10分くらいだった。出先だったのかも知れない。
細身のジーンズとダークグリーンのシャツを着た來也が見えた時、私は更に怒りを覚えた。
駆け寄ってきた来也の頬を、パシンと殴る。
「あの日の事を治人さんに知られてた!誰かに写真撮られてたのっ!!」
私はバシバシと來也の胸を殴った。
「だからこの間、彼は変だったのよ!」
來也は無言で私を見下ろしていた。
その顔が相変わらず綺麗でかっこよかったから、私は無性に腹立たしかった。
「何とか言いなさいよっ」
「取り敢えず、俺の家行くぞ。来い」
「行かないよ!ばかっ!」
「いいから、来い」
來也は暴れまくる私を一瞥した後、素早く抱き上げた。
「きゃー!」
「うるせー。急に乙女になるな」
「離してっ!じゃないと殺すっ」
來也は呆れたように私を見た。
「泣いてる時くらい、おとなしくしてろよ。気の強ぇ女だな、全く。
とにかく車、ロックしてねーんだよ。しかもあそこは駐停車禁止だ」
來也は私をお姫さま抱っこしたまま、悠々と歩いた。
涙と鼻水でグシャグシャになった顔で來也を見つめると、彼はクスッと笑った。
「ほら、俺の服で顔拭け」
え?
「抱き付けって俺に。気にしないでいいから」
「いいよっ」
私は自分の袖口で顔を拭うと、それからギュッと眼を閉じた。
*****
來也の車を降りて地下からそのままマンションの15階に到着すると、私は大きく息をついた。
急に肌寒く感じて、両腕をさする。
エレベーターの中での気遣うような來也の眼差しに、少しだけ落ち着いたからかも知れない。
「来い」
来也に手を引かれて、私は素直に部屋へと上がった。
カチャリとテーブルにキーやら財布やらを置くと、來也はバスルームへと消えていき、すぐに帰ってきて口を開いた。
「取り敢えず、シャワーでも浴びてスッキリしろ」
私は首を横に振った。
「今日は大丈夫。それよりこれ見て」
私は鞄からスマホを取り出すと、タップして來也に手渡した。
來也はスマホを受けとると少し顔を傾けて視線を落とし、唇を引き結んだ。
「……へー、よく撮れてんな」
どこか他人事な來也の声に、私は再び怒りを覚えた。
「どうして私がこんな写真を撮られる訳?!あんたやっぱりヤバイ奴なんじゃないの!?あんたのせいで私は治人さんに別れようって言われたんだよ!?私、振られちゃったんだよ!?」
しゃくり上げながらわめき散らす私を來也は静かに見つめていたけど、やがて小さく咳払いをして口を開いた。
「……あのさ、付き合ってる彼女を信じずに、一方的に別れを告げるような男のどこがよかった訳?」
テメーッ、グーで殴るぞっ!
若干呆れたような口調が、たまらなく腹立たしい。
私は拳を振り上げて來也の胸をボカボカと殴った。
「それはあんたのせいでしょーがっ!どーしてくれんの、私の恋人返してよーっ!」
來也は軽々と私の両手首を掴むと、その間から顔を近づけてこちらを覗き込んだ。
「お前が金に目が眩んだからこーなったんだろ?そんなの知るか」
「なんですって?!私は困ってるアンタの手助けを……」
私の言葉を遮って、來也は声のトーンを上げた。
「まあ、あれだ。お前らの愛情なんて所詮つまんねーもんだったって話だな。もう諦めろ」
……信じられない。なんて奴なんだ。
「…アンタの生まれた日を全身全霊で呪ってやるーっ!」
私はジタバタしながら來也を睨み付けた。
すると來也は両手に力を込めて私の手首を下げ、素早く離して私の背中に両腕を回した。
「……っ!」
逞しい來也に抱き締められて、私は驚いて固まった。
「……そろそろおとなしくなれって」
來也の低い声が耳のすぐ近くで響き、彼の息が首筋にかかる。
今日はこそばくない。それどころか……温かくて心地好かった。
涙が込み上げる。私は声をあげて泣き続けた。
来也に抱き締められて安心する自分が、矛盾だらけで嫌な奴に思えて、どうしようもなく情けなかったのだ。