悲しい豹変
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二週間後、治人さんの誕生日がやって来た。
近頃、治人さんと私はお互いに忙しくてすれ違いの日々だったけど、今晩は二人とも仕事を早く切り上げて帰宅する予定だった。
なのに……遅い。どうしちゃったんだろう、治人さん。もう午後八時を過ぎているのに、何の連絡もない。
ラインを送っても既読が付かないし、もちろん電話も繋がらなかった。
やだ、胸騒ぎがする。事故に巻き込まれてたりしたら……。
いや、それならさすがに連絡くるよね。
仕事上のトラブル?どちらにしろ心配だ。
銀座の日本料理店を予約していたけど時間はとうに過ぎ、二時間経っても治人さんは帰ってこなかった。
さすがに、もう待っていられない。
私は玄関へと脚を進めた。早く治人さんに会いたかった。
その時、ガチャリと玄関ドアが開いた。
「治人さん……」
全身の緊張が解けていく感覚に、私は大きく息をついた。
良かった、無事で。
「お帰りなさい……心配しちゃっ……」
すぐに私は彼の異変に気がついた。
……酒臭い。
「治人さん……」
治人さんは唇を引き結んで私を見下ろしていた。
冷ややかでありながらその瞳は虚ろだった。
「治……」
言葉の途中で腕を掴まれ、その痛みに早鐘のように鼓動が響く。
「治人さん、痛い……」
治人さんは瞬きもせず私を凝視し、無言で奥へと歩き出した。
急かすように私を先に歩かせて、彼は荒々しく寝室のドアを開けた。
「脱いで」
凄い勢いで私をベッドにつき倒して、彼は冷たく言い放った。
「え?」
聞き間違いかと思ったけど、そうじゃなかった。
眼を見張る私を見下ろしながら、治人さんは手早く上着を脱ぐとベルトに手をかけた。
カチャリというバックルの音に、思わず息を飲む。
「早く脱いで。脚開いて、マヒル」
いつもの優しい眼差しも微笑みも、今の彼の顔には微塵も存在していない。まるで別人だ。
私は目眩がした。
必死で身を起こそうとするのに、布団に肘が沈み、思うように身体が動かない。きっと恐怖も手伝ってる。
もがく私に治人さんが覆い被さり、彼は乱暴に唇を寄せた。
「いっ……!」
ガチッと衝撃が走り、唇が痺れるように痛んだ。
驚いて口を閉じる私を、治人さんが睨む。
「口開けろ」
「治……」
私の頬を片手で掴み、膝を割って自分の身体を押し付けてくる彼は、もはや私の知っている治人さんじゃなかった。
「やだ、やめて……!」
素早く舌を滑り込ませた治人さんは、私の口内を凌辱した。
片足を押さえ込まれ、両手を拘束され、私にはなす術がない。
下着を乱暴に脱がされた時、なぜか來也の笑顔が脳裏に浮かんだ。
「……ハッ……!」
「……っ!」
力ずくで私に押し入った治人さんの顔が苦痛に歪む。
「……痛い」
激しく動く彼もまた、呟くように言った。
「売女」
バイタ。
な、んで。
「やめて!」
治人さんは動き続けた。
苦痛に歪んだ顔が徐々に上気し、恍惚の表情へと変わる。
再び私は目眩がした。
なんでこんな事になったのか。
今日は治人さんの誕生日で、私達は一緒に食事に出掛ける筈だった。
それなのに、彼は飲めないお酒を飲んで深夜に帰り、私を……。
泣けてきた。訳がわからない。分かってるのは。
私の眼から涙が浮き上がり、頬を伝った。
「治人さん、お誕生日おめでとう」
私の上で治人さんはピタリと動きを止めて眼を見開いた。
憎しみなのか怒りなのか分からない光を宿した瞳が、やがて迷うように揺れる。
それから一瞬ギュッと眼を閉じ、頭を左右に振ると、治人さんはユラリと身を起こして私から出ていった。
背を向けて、力なくベッドに腰かけた彼の顔は見えなかった。
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乱れた衣服を直し、財布とスマホを手にすると、私はマンションを出た。
ジンジンと身体が痛み、相変わらず目眩がする。
けれど、治人さんとはいられなかった。
なんなの、どうしてこんな事に?治人さんはいったいどうしちゃったの?
いまだにバクバクしている心臓に手を当てて、私は歩き続けた。
駅へと歩きかけてハタと立ち止まる。……終電なんかとっくに過ぎている。
まるで頭が働かない。これからどこへ行けばいいかも分からない。
とにかく手が震えて、考えがまとまらないのだ。
胸の中に鉛が詰まったような重さと目眩。ジンジンと痛む身体。
辛くて苦しくて、涙が止まらない。
「女豹ちゃん!?」
知らない声がすぐ近くで響いた。女豹という言葉に來也が浮かぶ。
「あ……」
この人は確か……。
「総……二郎……さん?」
「め、女豹ちゃん、どうしたの」
今の私はボロボロだ。鏡なんか見なくても、総二郎さんの表情で分かる。
総二郎さんは回りを見渡すと私の肩を抱き、街路樹の脇に座らせた。
「す、すみません、私……」
「マヒルちゃん、血が……」
「……え」
反射的に口元に手をやると、総二郎さんは私の前にしゃがみ込んで正面から見つめた。
「頬にアザも出来てる。何かあったの?」
……何があったのか。私にもよく分からない。
総二郎さんに迷惑がかかるのに涙を止めることが出来なくて、私は両手を握りしめた。
「俺、明日休みなんだ。だから夜更かししてコンビニ行ってたんだけど……会えて良かった。俺の家、近くなんだ。こんな時間に行くとこないでしょ?おいで」
総二郎さんが、優しく私の手を引いてくれた。
「でも……ご迷惑でしょう」
「平気だよ。來也もいるから。野郎二人で飲んでたんだ」
……正直なところ、來也にこんな姿を見られたくない。
「いいです。私、ホテルに泊まります」
「もう深夜だよ?あと何時間かで夜明けだよ?勿体無いし、ホテルが開いてるかどうか」
確かにそうだ。
「もしかして……來也に今の自分を見られたくない?」
鋭い。
総二郎さんが首を横に振った。
「あいつは、人の不幸を笑ったりしないよ。試してみる?」
……え?
言うなり総二郎さんはスマホを取り出すと、画面をタップしてから耳に当てた。
「あ、來也?いま大通りで女豹ちゃんと出くわしたんだ。それがさ、泣いてるんだよね。女豹が仔猫に変身してて……あれ、切れた」
切れたって……。
総二郎さんが自信たっぷりに微笑んだ。
「さあ、何分でくるかなー。走ったら約3分てとこかな?けど、酒飲んでるからなー。てゆーか場所わかってんのかな。まあ大通りっつったら、この通りしか……あ、来た。早!」
ドキンと胸が鳴った。
スラリとした背の高い來也は、遥か向こうでもよく分かった。
來也はグルッと辺りを見回したあと、私達を見つけて駆け寄ってきた。
「來也、超はえー!」
來也は、荒い息を整えながら私を見下ろした。私は咄嗟に出血している口元を手で隠した。
來也は唇を引き結び、厳しい眼差しを私に向けている。
……きっとバカな女だと思ってるんだ。
私は自分が惨めに思えて、來也を見ていられなかった。
俯いた瞬間、來也の手が頬に触れて私はドキッとした。
「総二郎、俺、コイツ連れて帰るわ」
……嘘……。
「うん、それのがいーだろーな」
総二郎さんが頷くと、來也は軽く手をあげた。
「じゃ、またな」
「ああ。じゃあね、マヒルちゃん」
いや、でも……。
去っていく総二郎さんの背中を見てから、私は來也を見上げた。
「來也」
「来い」
來也が切れ長の瞳で私を捉える。
それから暫く私を見つめて、彼は小さく息をついた。
「……治療してやる」
言うなり來也が屈み、私の唇に手を伸ばした。
温かな指が私の唇に触れる。
私は唇の傷にあてがわれた來也の指が心地よくて、眼を閉じた。
ううん、傷だけじゃない、温かいのは。
やがてゆっくりと指が離れる。ヒヤリと新しい空気が唇に触れて、私は目を開けた。
「行くぞ」
來也がタクシーを求めて歩き出した。
握った手は力強くて頼もしくて、私はなぜかホッとした。
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タクシーで10分程度走ると、私達は來也のマンションへと到着した。
「……お邪魔します……」
來也はソファに私を座らせて小さく息をつくと、まっすぐに私を見た。
「……もしかして……彼氏に?」
硬い來也の声に、私はなんと答えるべきか分からず視線を落とした。
「うん……申し訳ないんだけど……シャワー、借りてもいい?」
「……こっち」
「……ありがと」
來也に連れられてバスルームへ入ると、彼は私に真新しいタオルを差し出した。
「嫌かもしれないけど、コンビニで買った新品の女物の下着があるからそれ使え。あと、俺のスウェットも」
「……ありがと」
女性用下着が誰のための物かとか、そんなのどうでも良かった。
來也の彼女には申し訳ないけど、今の私には凄くありがたかったのだ。
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熱いお湯を浴びると少し気持ちが落ち着いて、私はソファに座る来也に声をかけた。
「色々とありがと。下着はちゃんと買ってお返しするね」
私がそう言うと來也は、
「別にいいよ。特定のヤツのじゃないし。……てか、お前、笑える!」
來也は、ブカブカの服を着た私を見て笑った。
ズボンは裾をロールにしていたけど、上はグイッとまくっても袖がすぐに落ちてきて、手が出てなかったのだ。
ブラブラしている袖を見て、
「チビ」
來也はそう言うと私の腕を取り、袖を丁寧に折り曲げてくれた。
私はそんな來也の手を見つめていたけど、彼がどんな表情をしているのかが気になって少しだけ顔をあげた。
途端に視線がぶつかる。優しくて、綺麗な瞳。
そんな來也の瞳を見ていると、自然と言葉が口から出ていた。
「治人さんが……酔って帰ってきて……」
瞬間的に寝室の出来事を思い出して、声が上ずる。
「彼が、無理矢理」
「もう大丈夫だから」
來也が私の言葉を遮った。けれど私はかぶりを振り、先を続けた。
「分かんないの。いつも穏やかで優しい治人さんが、どうしてあんな事」
痛いより彼の豹変に恐怖を覚えたし、悲しかった。
「彼は私を憎んでる感じだった」
「暫くここに泊めてやるから。彼氏が冷静になるまで」
私は首を横に振った。
「治人さんがいるのに、他の男の家に転がり込んじゃまずいでしょ」
「非常識?」
來也がクスリと笑った。
だってそうでしょ?私と來也の関係って何?
出逢い方は良くないし、友達じゃないし兄弟でもないし説明できない。
そんなご迷惑かけられない。
それにどう考えても恋人がありながら他の男の家へ転がり込むなんて、非常識だ。
私は少しだけ笑った。
「そう、非常識」
來也は真顔で私を見つめた。見つめたまま、何も言わない。
「……なに?」
「……とりあえず明日……てかもう今日だけど、夕方はここに帰ってこいよ」
……話、聞いてたのかコイツは。
私は來也を見上げて曖昧に笑った。