Lion Kiss
*****
翌日の午後、総二郎さんのお兄さんの許可が下りて、來也は退院した。
私は午後から半休を貰い、來也に付き添うことにした。
「なあ」
「ん?」
來也の部屋に着いて彼をソファに座らせ、寝室から部屋着を持ってきた私に彼が声をかけた。
「今日、泊まっていけよ」
來也は偉そうな言い方の割には照れたような顔だったから、私は思わずフッと笑った。
「マヒル、今晩泊まってって、可愛く言ってみ。そしたら泊まってあげる」
「っ……!」
悔しそうにしながらも狼狽える來也が凄く可愛い。私は來也の髪を優しく撫でた。
「買い出しに行ってくる。何が食べたい?」
「……俺も行く」
「ダメ。安静にしてて」
「一緒にいきたい。お前と一緒に食材を選んで一緒に食事を作りたい。これからもずっと」
トクンと鼓動が跳ねて、私は來也を見つめた。
ソファから私を見上げる來也の瞳は真剣で、私は思わず口をつぐんだ。
『これからもずっと』
この言葉が、來也がこれからも私を必要だと言ってくれているようで嬉しかった。けど……。
私は曖昧に微笑むと、來也から視線をそらした。
「なあ」
「な、なに」
來也が咳払いをしてから、姿勢を正して私を見上げた。
「もう一度、ここで一緒に住まないか」
……來也……。
素直に嬉しかった。けれど、それはできない。私はそれに答えられない。……だってもう決めたんだもの。
****
約二週間前。
「考えてみてくれ。今回のプロジェクトにはどうしてもお前の力が必要なんだ」
來也の部屋を飛び出し、社長と花音さんのお宅にお世話になっていたある日、社長が私に言った。
「マレーシアで来年リニューアルオープンするダイヤモンド・オーロラホテルの件だが、知ってるか?」
私は社長を見て頷いた。
ダイヤモンド・オーロラホテルとは、クアラルンプールにある大変素晴らしい有名ホテルだ。
ホテルからは随時シャトルバスが運行しており、観光名所まで難なく行けるし徒歩でもモノレールでも有名スポットへアクセスしやすい。
そのダイヤモンド・オーロラホテルが、来年の1月にリニューアルオープンする。
社長は続けた。
「ダイヤモンド・オーロラホテルのGフロアに、新しく寿司処が出来るんだ。その寿司屋で扱う水産物の手配及び加工をうちが任された」
たしか、柚希がその件を興奮ぎみに話していた。
なんでもダイヤモンド・オーロラホテルの寿司屋を社員割引で利用可能になるとかなんとか。
「ホテル客以外には会員制とし、セレブをターゲットにした本物の寿司を提供するらしい」
ホテル側がうちに白羽の矢を立てたのは、社員の私から見ても賢明な選択だと思う。
何故ならばわが社の水産物は徹底的に鮮度にこだわっていて、極めてスピーディーな輸送ルートは他社を寄せ付けないし、水産物調達ネットワークは世界中に広がっている。
「お前、現地で水産物の手配に携わってみないか?軌道に乗るまでの一年でいい」
社長には、恩がある。花音さんの親友というだけで社長直々に私を採用してくれたのだ。
いつもいつも本当の兄のように良くして貰っているのに、断るなんてバチが当たる。
それに……海外勤務もいいかもしれない。
來也の会社とうちの会社は距離的に近いし、いつどこで出くわすとも限らない。
きっと海外勤務は、失恋の痛手を軽くしてくれるだろう。
「私で良ければ是非お役に立ちたいと思います」
何だか少しだけ清々しい気分だった。これで來也を忘れられる。きっと、日本にいない方が早く立ち直れる。
私は社長に少し笑った。
*******
「なあマヒル。一緒に住もう」
私は観念してギュッと眼を閉じた。
「……マヒル?」
「ごめん」
來也が唇を引き結んだ。
來也をがっかりさせたくない。だけど、言わなきゃならない。
「……來也。私ね、秋にはマレーシアに立つの」
來也が掠れた声で問う。
「……なんだよそれ。なんで」
「ここを……來也の部屋を飛び出した後、直ぐに社長に誘われて……それで決めたの」
「ダメだ、断れ」
私は首を横に振った。
「ダメだよ。社長には恩があるし、私」
「ダメだっつってんだろっ!!」
來也が声を荒げて勢いよく立ち上がると、私の腕を掴んで乱暴に引き寄せた。
ギュッと眉を寄せて睨むように私を見つめる來也に、私は更に言葉を重ねた。
「來也が好きだよ。けどもう私達は『好き』だけでは一緒にいられないんだよ。來也は、相澤ホールディングスの後継者でしょう?」
「それが何だよ?!だったらダメなのかよ!?」
來也が至近距離から私を睨んだ。
「意味分かんねえ」
「……私は……そんな大企業の後継者には不釣り合いだよ」
來也が私を抱き締めた。
「つまんねぇ事言ってんじゃねえっ!お前は俺のものだ!何処にも行かせない!」
筋肉質の身体に包まれると來也の香りがして、私は胸が震えた。
私の髪に顔を埋めて、來也は囁くように告げる。
「俺は……お前と結婚したいと思ってる」
來也……。
こんなに嬉しい言葉はない。私だって一生來也の側にいたい。でも、いつか私は來也に迷惑をかけて足を引っ張ってしまう気がする。
やっぱり御曹司とか、そういう世界で生きている人は、家柄が大切なんだと思うし……。
「來也。私にはその覚悟がないの。もしも來也と結婚したらお金持ち同士の付き合いとかに顔を出さなきゃならないだろうし、学歴を聞かれたって來也に恥をかかせるだけだし、もしも子供が生まれたら小さな時から上流社会へ進むための教育を受けさせたり、出来が悪けりゃ母親が庶民出身だからだとか言われたりするだろうし、何かにつけて私はお金持ちの人達とは違いすぎるし無理だと思うの」
「だから、つまんねぇ事言ってんじゃねえよ」
來也は苛立たしげに大きく息をついて唇を引き結んだ。
「來也にはつまらなくても、私には大きな事だよ」
來也は私を少し離して、僅かに頬を傾けた。
「俺は相澤ホールディングスを捨てることはできない。けど、お前を諦めるのもごめんだ!」
「來也……」
強く言い切った來也を見上げて息を飲んでいると、彼は私をソファへ押し倒した。
「お前は分かってない。どれだけお前が俺の人生に入り込んでるか」
來也が射るように私を見た。
欲情が沸き上がったその瞳は私を真正面から見下ろしていて、思わず眼を見張った。
「俺から離れるなんて、馬鹿げてる……忘れられなくしてやるから覚悟しろ」
「……待って、來……、」
言うなり來也は私の首筋に唇を寄せ、噛みつくように吸い上げた。
容赦なく攻め立てる舌と指先が、たちまち私の息を乱していく。
「來也、待って」
「待てない」
來也の指が深く沈み、私はその刺激に仰け反った。
「來っ也……っ……!」
波打つ私の身体を見下ろして、來也は切なげに口を開いた。
「マヒル、俺はお前じゃなきゃダメなんだ」
身体を駆け抜けるこの感覚と、來也の苦しげな瞳に泣きそうになる。私は來也の首に両腕を絡めた。
「來也、思いきり抱いて」
あなたを、私の身体に刻み付けて。離れても忘れないように。この先もあなたの温もりが消えないように。
*****
「……変態」
「『思いきり抱いて』って言ったのはおまえじゃねーか」
ベッドの真上の天井を見つめながら、私達は毒ついた。
「思いきり抱きすぎ。傷、開いたんじゃないの?!」
「感じまくりだったくせに」
「それは來也でしょ」
「お前だって何回イってん」
「ばかっ!」
耐えきれなくなった私がポカポカと來也の胸を叩くと、彼は弾けるように笑った。それから私の手首を優しく掴み、來也は肘をつくと斜めにこちらを見下ろす。
「秋って……随分ザックリしてるな」
私は來也の胸に頬を寄せたまま答えた。
「加工技術者達は先に現地入りしてるけど、私達手配グループは、早くて10月かな」
「俺と離れて……後悔すんなよ」
私は少し身を起こして來也の瞳を見つめた。切れ長の眼は私を一瞬だけ捉えると、プイとよそを向く。
「俺は相澤ホールディングスに入る」
「……うん」
「約束はしないし、待たないからな。イイ女が現れたら結婚しちまうかも知れねーからな」
ズキッと胸が痛む。……だけどこれは、自分自身の選択だ。
「分かってる」
來也がムッとしたように私を睨んだ。
「可愛くねぇな。ここは普通『待ってて、來也』だろーが」
「イケメンモテモテ御曹司を待たすなんて、恐れ多くて」
言いながら私は來也を押し倒した。肘をついて身を起こしていた來也の身体が、ゆっくりと仰向けになる。
私はそんな來也の胸に身をよせると、彼の瞳を覗き込んだ。
「來也、頑張ってね。私も頑張るから」
來也は眼を見開いて私を見つめたけど、やがて呆れたように溜め息をついた。
「面倒くせぇ女だな、お前は。ややこしい事考えないで俺と結婚すりゃいーじゃねーか」
私はクスッと笑った。
「私もセネカ貿易株式会社が大切なの。今回のプロジェクトには、うちの会社の威信がかかってる。ダイヤモンド・オーロラホテルの寿司がマレーシアで一番だと、セネカ貿易株式会社の力だと、言わしめてやるわ」
來也がニッコリと笑った。
「……頑張れよ。応援してるから」
「……特別なライオンのお陰で、私、強くなっちゃった。……來也。來也もきっと大丈夫」
來也は私を胸に抱いて身体を反転させると、真上からこちらを見つめた。
「もっと強くなれよ」
「え?」
「もっと強くなって日本に帰ってこいよ。何の迷いもない、強い覚悟を携えて」
「來也……?」
來也は続けた。
「相澤ホールディングスの後継者と、一生添い遂げる覚悟を手に帰ってこいよ。約束しないと空港爆破してでもお前のマレーシア行きを阻止する」
ああ。
來也は待つと言ってくれているのだ。
胸が熱い。
「バカか!テロリストか!」
泣きそうになるのを必死で抑える為にそう答えたのに、來也は私を愛しそうに見つめたままだった。
「な?……今から、もう一度キスするから……」
來也の男らしい唇を感じて、私は眼を閉じた。來也の気持ちが痛いほど伝わってくる。そうだね、來也。私はまだ少し、意気地がないのかも知れないね。けど、このキスで、もしも私が……。
私は來也を強く抱き締めた。
だって、離れていてもこの温もりを忘れたくなかったから。
*******
一年後。
「マヒル、マヒルと会えなくなるのが淋しい!」
声を押し殺すようにアイシャが眉を寄せて言った。
ここはマレーシアの首都、クアラルンプール。
ダイヤモンド・オーロラホテルのGフロアのバーで、私は仲良くなった現地スタッフを含めた数名で、ささやかなお別れ会の二次会を開いていた。
同じ日に帰国する海外勤務チームの江藤さんと川上さんはまるっきりの下戸で、一次会の後帰って行った。
ああ、このバーは、本当に素敵だ。
薄暗く、青を主流とした間接照明はまるで海の中を思わせるようで、凄く幻想的だ。
クリスタルのテーブルもとてもゴージャスで、私は何度もその縁を指でなぞった。
店内はうるさくなく、それでいて静かすぎず、とても雰囲気がよい。
「ねえ、マヒル」
三歳年下のディンが、遠慮がちに私に尋ねた。
「ん?」
私は一口飲んだコスモポリタンのグラスを置くとディンを見つめた。
「あ、あのさ、俺……」
何かを敏感に察知したアイシャが、長いストレートの髪をサラッと揺らして勢いよくディンを見上げた。
「なに!?」
ディンが嫌そうにアイシャを見た。
「……なんだよ、お前に言ってないし」
アイシャは、悪戯っぽくニヤリと笑った。
「……よくもまあ、同僚のいる前で口説こうとするわね」
えっ!!
私は驚いてディンを見た。
「気付いてんなら気を利かせろよ」
「だーめ!だってもう、三日後にはマヒルは帰国しちゃうんだからね!ディンにマヒルを独り占めさせられないわ」
「うううっ」
さっきまでおとなしかったサシャが泣き始めた。
「絶対メールちょうだいねっ」
私はサシャの手を握りしめてしっかりと頷いた。
「うん、絶対メールする」
******
「マレーシアは素敵ね。スコールにもすっかり慣れた。帰国しなくちゃいけないのは少し悲しい」
私は繁華街を歩きながらディンを振り返った。
「……少しだけ?」
ディンが私を見つめて立ち止まった。
「ディン……」
「俺、君が好きなんだ」
ディンの漆黒の瞳が街の灯りで綺麗に光って見える。
「……マヒルにはその……好きなヤツとかいるの?」
真っ先に來也の顔が浮かんで、私はすぐに頷いた。
「……そっか」
「ごめん」
ディンは少しだけ微笑むと、私を見下ろした。
「……どんなヤツ?」
私は諦めて笑った。
「女ったらしの俺様御曹司」
「……え?」
「けど男前で見た目は最高。ううん!見た目だけじゃなくて中身だって素敵なの。仕事熱心だし潔くて男らしいし」
ディンの驚いた顔に気付いて、私はすぐに口をつぐんだ。
「……付き合ってるの?その彼と」
「ここに来る前は付き合ってたけど……今は関係解消してる」
そう、私はあれから一度も來也と連絡を取っていなかった。メールのやり取りも電話での会話も一切なし。
來也の連絡先を消去した訳じゃないけど、マレーシア勤務になった一年間は絶対に連絡を取らないと決意していた。
「……俺じゃ……ダメ?」
「ディン……ごめん。私、彼をまだ好きで」
ディンは一瞬瞳を伏せたけど、すぐに私を見てフワリと笑った。
「そっか……残念だけど俺はマヒルを応援するよ。頑張って、マヒル」
「ありがと、ディン」
ダイヤモンド・オーロラホテル側が用意してくれたアパートまでディンに送ってもらって、私はホッと息をついた。
この一年間、こっちで働きながら來也との事を考え続けた。一年前は來也と将来を共に歩む覚悟がなかった。
私と結婚して來也が周りからバカにされたり、笑われたりしたらどうしようとか、私自身が大企業の御曹司を夫に持つ事へのプレッシャーに耐えられるのかすごく不安だったから。
でも、こっちで働いて思ったんだ。思いきり頑張ってみたら、道は開けるって。やらずに諦めるより、挑戦して失敗する方が私らしい。
そう。
失敗しても、後悔だけはしたくない。
一年前の私は、來也をガッカリさせたくないという気持ちが大きかった。でも、そう思っていた私は、今はもういない。
私はアパートのドアを開ける前に夜空を見上げた。
大通りから何本も奥に入って見上げた空は、うっすらと雲がかっていたが風のせいでその流れは早く、三日月に絡み付くようにしてから去っていく様子は綺麗だった。
その薄い雲はまるでこの国から去ろうとしている私のようで、私は微笑みながら小さく呟いた。
「さよなら、マレーシア」
*******
4日後、日本。
羽田空港の到着ロビーで他の二人の海外勤務終了組の社員と別れると、誰にも迎えに来てもらっていない私はタクシー乗り場を目指した。
到着ロビーを出る頃には午後11時を過ぎていて、私は物凄く迷いながらスマホを見つめた。
來也に電話しようか。いや、こんな遅くから一年ぶりに電話は……マナー違反のような。
……じゃあ、ラインは?絶対起きてるだろうし。けど仕事かもだしなあ。もしかして、デートかも。
はやる気持ちをもて余して、私は溜め息をついた。
……確かめたい。まだ私にチャンスがあるのか。
その時、私のスマホが鳴った。
ビクッとして、画面をタップしていた拍子に相手と繋がってしまい、私はゴクリと喉を鳴らした。
だって、相手が來也だったから。
「は、い」
緊張しながら出ると、スマホの向こうでクスリと笑い声がした。
「出るの早えーじゃん。もしかして待ち構えてた?」
「スマホを操作してた途中で」
「可愛くねーな」
「……元気?」
「もう着いたんだろ?仕事はどうだった?」
ドキンと胸が鳴る。何で知ってるの?なに、どっかから見てたとか。
「仕事はその……大成功だけど……もしかして、エスパー?」
「アホか」
「……だって……」
「さっき、お前の会社の社長に聞いたんだ。お前を泣かせたせいでブツブツ言われたけど、マレーシアでの勤務を終えて日本に到着したのを教えてもらった」
「……そう」
確かにゲートを出てから川上さんが、無事帰国した旨を社長に電話していた。
「とにかくタクシーに乗ったら俺のマンションまで来い」
「いいの?こんなに遅くまで仕事だったんだし、疲れてるんじゃない?」
「いいから来い。その頃には俺も家に着いてる」
「うん」
嬉しくて嬉しくて、私はやって来たタクシーに乗り込むと來也のマンションを目指した。
****
30分後、私は來也のマンションに着いた。
運転手さんと、スーツケース2個とバッグをトランクから出そうとしたところで気配を感じた。
「あっ」
來也が運転手さんの脇からもうひとつのスーツケースをひょいと取り出すと、私をチラリと見た。
「行くぞ」
「うん」
エレベーターを降りて少し歩き、玄関ドアを開けると來也は私を振り返った。
「上がれよ」
「……お邪魔します」
リビングに入ると、來也は私を正面から見つめた。
お互いに見つめ合い、微笑み合う。
一年ぶりに見る、精悍な來也がかっこよくて、私の鼓動は痛いくらい激しい。
來也は唇を引き結んだままだ。今だ。今、伝えなければ。
私は思いきって口を開いた。
「來也」
「ん?」
優しい声。
「私、今も來也が好きです。……あの……もう一度、私と付き合ってください」
顔中に血液が集まってくる感覚に、私はきっと自分の顔が真っ赤なんだと自覚した。
來也は何も言わない。
どうしよう。ダメなんだろうか。私は次第に俯いた。
その時、來也の掠れた声がした。
「……断る」
心臓に巨大な岩の塊を置かれたような気がした。まさに圧死だ。顔を上げる事ができない。
断る……。
カシャンと胸で何かが割れた。
……仕方がない。約束なんてしてなかったし、彼は御曹司だし。
声が震えないように細心の注意を払いながら、私は頷いた。
「……分かった」
ようやく私がそう言うと、前方からカサカサという音がした。
僅かに目線を上げると、來也がスーツの内ポケットから何かを取り出したところだった。
彼の表情は固い。
「じゃあ、早く書け」
「……は?」
なに……?誓約書……?
さっきまで顔を真っ赤にしていた私は、一転一気に青ざめた。もしかして、
『今後一切、相澤來也の半径三メートル以内に近づきません』とかいう書類に、サインしろとか?やだやだ嘘でしょ、そんなの悲しすぎる。けどこの展開からしてその可能性が非常に高い。
もしかして御曹司特有の『政略結婚』とやらの為に、相手の財閥とかグループとかにバレないように身辺整理をせねばならず、こういう法に基づいた書類に一筆書かせてハイ、解決!みたいな?
……痛い。心臓を『雑巾絞り』されてるみたいに痛い。いや、さっき巨大岩に攻撃されたから、絞るほど残ってない。
相変わらず來也は真っ直ぐに私を見据えていて、有無を言わせない空気が私を包んだ。
「ううっ……!」
悲しすぎて、私はとうとう泣いた。
「お、おい、マヒル」
「そんなの書かなくても近づかないよっ!ストーカーなんかしないもん!」
「は?何の話だよ」
來也はイラついたように私を睨んだ。
そんなに睨まなくてもいいじゃん!
「うわあああん!」
「こら、泣くなよ」
「だって、だって……」
やっぱり、一年は長すぎたんだ。取り返しなんかつかない。
その時、ハアーッという、盛大な溜め息が部屋中に響き渡った。それから來也が我慢ならないといった風に叫んだ。
「お前、酔っぱらってんのかっ!なにひとりで早とちりして泣いてんだよっ!このボケッ!」
「……へ?」
は……はやとちり……?
來也はクシャクシャと短い髪の毛を掻き回しながら私の目の前にその紙を広げて見せた。
「左の一番上をよく読め」
へ?左の一番上?
言われた部分に、ゴシック体でなにやら書いてある。
「こ、婚、婚、こん、いん、こ、こ、こ、」
「鶏か、お前はっ!!」
「だって、涙でっ、こ、こ、んいんと、」
もういいと小さく呟くと、來也は私をふわりと胸に抱いた。
「マヒル。もう付き合うとかじゃなくて、俺と結婚してくれ」
至近距離から私を見下ろして、來也は優しく微笑んだ。
「な?」
もう、涙と鼻水で私の顔はグシャグシャだ。全然想像と違う自分の顔にゾッとする。
だってプロポーズを受けるときは、一番似合うお気に入りの服にバッチリ髪型もキメてメイクだってちゃんとしてて。
なのに、今の私ってば。
私はしゃくり上げながら言った。
「私と結婚して周りのセレブに笑われても知らないからね」
「笑うヤツなんかいない」
「子供がとんでもないガキ大将か、スケバンになっても知らないからね」
「スケバンって、昭和かよ」
來也はクスリと笑った。
「返事は?」
「……はい」
來也は私の瞳を覗き込んで白い歯を見せた。
「後悔なんか絶対させないから」
「うん、信じてる」
「明日は指輪を選びに行くぞ」
私は來也にしがみついて頷いた。
「でもあの、大きなダイヤモンドの指輪とか要らないからね」
來也が私に回した腕に力を込めた。
「お前らしいな」
「……來也」
「ん?」
「……したい」
來也が私にキスをしてから微笑んだ。
「俺も」
「でも、先にお風呂に入りたい」
來也が悪戯っぽい眼差しで私を見下ろした。その顔が、何とも魅力的でかっこいい。
「集中できないから?」
そ、それって。
「……よく覚えてるね」
來也が当たり前だというように口角を上げた。
「当たり前。あの日から俺は、お前に夢中なんだからな」
え……。
あまりにも驚いて私がマジマジと來也を見つめていると、彼は照れ臭いのかブルッと頭を振った。
「そんなに見るな」
「可愛い、來也」
私がフフッと笑うと、ムッとした來也が私を抱き上げた。
「風呂行くぞ」
「えっ、……もしかして、一緒に入るの?!」
今度は來也がニヤリと笑う。
「そうだけど?言っとくけど、ただ二人で仲良く風呂に入るだけだと思うなよ」
そう言った來也の瞳が妖艶な光を宿していたから、私の胸がドキンと跳ねた。
でも。
來也となら、それもいい。
きっとこれからも、來也と歩む人生はドキドキに溢れているはずだ。
ねえ、來也。
私も來也を退屈させないから。來也を全力で支えてあげる。これからずっと。
私は來也の首に両腕を絡めて、彼の唇にキスをした。
そう、とびきりの想いを込めて。