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~Lion Kiss~  作者: 友崎沙咲
episode8
16/18

心の中にあるものは

*****


『マヒル?』


ある日の定時後、スマホが鳴った。


「來也」

『漸く仕事が一段落したんだ。マヒルさえ良かったら……今日、会えないか?飯でも食いに行こう』


フワリと浮くような、暖かい日差しを浴びたような感覚。


「うん」

『じゃあ決まり』

「了解。何時に宮代?」


來也がクスッと笑った。


「今日は……違うとこに行きたいんだ。俺の会社まで来てくれないか?職場見学も兼ねて」


私は笑った。


「なんか今日はいつもより口調が優しいね」


だって俺様度が低いんだもの。それに会社に迎えに来てだなんて。

來也がフッと笑った。


「優しくしないと断られるかも知れないし」

「いつも通りでも断らないよ。それに私が行ってもいいの?」


來也とはあれ以来会っていなかった。仕事が一段落したら会って話すからと言った來也を、私はずっと待っていた。


「俺に会いたいだろ?来いよ」

「うん、会いたい。來也は?」

「惚れた女に会いたいのは当たり前だろ」

「…………」

 

來也の低くて艶やかな声が、私の顔を赤くした。なんか急に恥ずかしくなってきた。焦って辺りを見回す。だってまだオフィスだ。


「15階の総合受付には話しておくから、着いたら23階まできて。待ってるから」

「分かった。後でね」


はあー、やっぱり來也は素敵。


「あいたいー」

「うわああっ!」


真後ろから声がして、私は心臓が口から出そうになった。

咄嗟に振り返ると、中川くんがめちゃくちゃニヤニヤしていた。多分、全部聞かれてたんだ。

頬がカアッと熱くなって、私は両手で顔に触れた。


「藤吉ー、なになにー、会いたいのー?」

「殺すよ?」


中川くんはゲラゲラ笑った。


「藤吉って、ツンデレなんだな」


く、く、くぅー!


「あのね今のはね、お祖父ちゃんと話してたの。田舎から出てくるって言うから、会いたいって言ってたの!」

「お前、お祖父ちゃん呼び捨てかよ。無理ありすぎだろ」


……どうやらダメみたいだ。中川くんは笑った。


「まあ藤吉が元気になって良かったよ。じゃないとまた俺の仕事が増えるからな」

「そ、その節はありがとう」

「はははは。じゃあ、また明日な!」

「ん、じゃあね!」


中川くんに手を振った後、私はデスクの周りを片付けてバッグを手に取り、立ち上がった。


****


会社を出て東方面、ゆりかもめの汐留駅を目指して歩くと、程なくしてひときわ立派なビルが目に留まる。

來也の会社は汐留にあるオフィスビル・相澤ビルディングだ。

地上25階建てのそのビルの外観はとても美しく洗礼されたデザインで、名前からしても相澤ホールディングスの関連ビルだとすぐに分かる。

柚希に聞いたところによると、相澤ビルディングには有名企業が多数オフィスを構えていて、柚希の彼氏である裕太君の会社もその中にあるらしい。


來也の会社はその23階。うちの会社から來也の会社まではとても近くて、ゆっくり歩いても10分もあれば着いてしまう距離だ。だから、ビルまでは迷わない。けど私、中で迷うんじゃないだろうか。

生まれてこの方、そんなご立派なビルに足を踏み入れたことなど一度もない。うちの会社は自社ビルで複合型じゃないし、受付も一階で分かりやすい。

けど、相澤ビルディングは、巨大だ。私……総合受付にたどり着けるんだろうか。なんで総合受付が15階なの?15階から下はなんなの?

……まあいいや。來也に聞こう。


*****


何とか総合受付を通過し、私は23階の來也の会社を訪れた。

ワンフロア全体を見渡せる來也のオフィスは、就業時間を過ぎたせいか人はまばらだった。

私が入ってきても誰も気に留める様子はない。

入るには受付で受け取った許可証を首から下げ、セキュリティゲートを通らなければならないので、当然と言えば当然かもしれないけど……。


「すみません、相澤さんはいらっしゃいますか?」


近くにいた女性に尋ねると、彼女はニッコリ微笑んだ。


「社長ならあちらです。あのドアを開けて突き当たりの社長室にお入りください」


彼女が指し示したのは遥か向こうの、私が壁だと思っていたところだった。なに、あの向こうに部屋があるの?

私は女性にお礼を言うと、ゆっくりと社長室に近付いた。

ドアノブに手をかけてそっと開けると、廊下を挟んで左側のドアには社長室、右側には会議室とプレートが貼られている。

私は社長室をそっとノックした。


「開いてる」


來也の声が聞こえて、ホッとしながら私はドアを開けた。


「……來也……」


黒で統一してある洗礼された社長室に、來也はいた。恵美理さんと。

デスクの向こうの椅子に腰掛けた來也のすぐ隣に、恵美理さんが立っていたのだ。

ズキッとするような痛みが胸に走り、私はみるみる硬直した。

な、んで……?どうしてここに、恵美理さんが?そして……どうして彼女は泣いているの?……なんなの、意味が分からない。

次第に心拍が上がって、痛いくらい胸が苦しい。そんな私を來也が真っ直ぐに見つめた。

そんな彼の顔色は悪く、額には汗が浮き出ている。


「マヒル、愛してるよ」


なに、なんなの。そんな言い方、普段はしないのに。

嫌な予感ばっかする。

來也の妙な息遣いが私の不安を掻き立てた。


「來也、なんなの?どうしたの。何かあったの」


その瞬間、信じられない言葉が私の耳に流れた。


「…………刺したの、わたしが」


サシタノ、ワタシガ


「……ごめんなさい……許して。そんなつもりはなかったの」


な、んで、どうして!?

ガタガタと全身が震えて、一気に身体が冷たくなる。嗚咽を漏らす恵美理さんに、私は言った。


「どうしてよ?どうしてっ。來也、來也」


私はカバンを放り出すと來也に駆け寄った。

そのとき恵美理さんが震える声で話し出した。


「話をしてたの。だって彼が好きなんだもの。けど彼は藤吉さんを愛してるって……。拒まれて私が取り乱して『死ぬ』って言ったら來也がナイフを取り上げようとして飛び掛かってきてっ」


彼女は一度大きく息をして、それから続けた。


「私の足と來也の足が絡まって……揉み合いになって転んだの。……刺す気なんかなかった!!」


彼女の言葉を聞きながら、脇腹を押さえた來也の手を見て私は眼を見開いた。

細いナイフの柄が來也の指の間から飛び出していて、どう見ても突き刺さっている。

シャツは赤く染まり、ピタリと皮膚に貼り付いていて、私は息を飲んだ。

嘘、こんなの……!


「救急車……!」


私が身を翻そうとするのを、來也の声が止めた。


「ダメだ、騒ぎになる。もうじき社員が帰るからそれを見計らって青木は家に帰れ」


恵美理さんが涙に濡れた眼で來也を見た。


「でも、」

「いいから旦那が迎えに来たら帰るんだ。このことは他言無用だ。それからマヒル、俺のスマホで総二郎に電話してくれ。数分前にかけたが繋がらなかった」


私は頷くと來也のスーツの内ポケットを探った。

來也はそんな私を至近距離から見つめてクスリと笑った。


「そんな顔すんな。大したことない。リダイヤル見て」


私は指が震えそうになるのを一生懸命抑えながら、総二郎さんの番号を探した。

……あった!

総二郎さんは直ぐに電話に出た。


『來也?』

「総二郎さん、マヒルです。來也に代わるね」

『分かった』


來也にスマホを渡すと、彼は大きく息をして話し出した。


「総二郎。脇腹を怪我したんだ。事を大きくしたくない。お前の兄貴の病院に連れてってくれ。ああ。分かった」


恵美理さんは、両手を胸の辺りでギュッと握りしめて泣き続けていた。


「來也、本当にごめんなさい」


小刻みに震える恵美理さんを見て、來也は首を振った。


「恵美理、悪かった。お前の気持ちに答えられなくて。お前が心までの関係を望んでいるなんて分かってたら、お前を誘ったりしなかった。気付いてやれなくてごめん」


恵美理さんは更に涙を流した。


「いつか振り向いてもらえるって思ってたの。でも、やっと分かった、自分の愚かさを。ルールを破ったのは私。所詮セフレだったのに、心を求めた私が約束を破っただけ。來也は悪くない」


恵美理さんは続けた。


「藤吉さん」


私は恵美理さんを見つめて小さくはいと返事をした。


「來也があなたを私のスペアにしてるなんて言ってごめんなさい。私、本当に最悪な女よね。……もうお二人の邪魔はしません。こんな大変な事をしてしまって本当にごめんなさい」


その時、ガチャリとドアが開いた。恵美理さんの顔がみるみる強ばる。

ドアに眼を向けると、背の高い眼鏡をかけた男性が立っていた。

その男性を見て來也が頭を下げた。


「青木さん、御足労お掛けしてすみません。奥様がご気分を悪くされて」


眼鏡の男性……恵美理さんのご主人は申し訳なさそうに頭を下げた。


「相澤さん、お電話ありがとうございます。わざわざすみません。……恵美理さん大丈夫ですか?歩けますか?」


私は胸を突かれて、ただただ恵美理さんの旦那さんを見つめた。

柔らかく優しく、恵美理さんを心から気遣うような温かい眼差し。

ああ彼は、心の底から恵美理さんを愛しているのだ。

恵美理さんが涙声で彼に告げた。


「敦也さん、どうして、どうしてよっ。私はあなたに酷いことしてるのにっ」


恵美理さんのご主人はフワリと笑った。それはそれは寂しくて切なげに。


「……君が相澤さんを愛してるのは知ってる。けれど僕は、誰が君を愛してると言っても勝つ自信があるほど君を好きなんだ。大好きだよ、恵美理さん。僕はいつでも君を包み込むから。君が苦しみから立ち直れるように、傍にいるから。頼りない男だけれど、君を救い出すから。君はきっとここから抜け出せる。僕がそうしてあげるから」


ああ、と思った。

彼はライオンだ。

敦也さんもまた、恵美理さんの『特別なライオン』なのだ。

受け止めてもらえるか定かではない、狂おしいほどの愛を抱えながらも見返りを求めず、ただ相手を導いていこうとする彼も、『特別なライオン』だったのだ。

涙で濡れた瞳を真っ直ぐ上げて、恵美理さんが敦也さんを見つめた。


「敦也さん、今までごめんなさい。それから……ありがとう」


敦也さんがそっと恵美理さんの手を握った。それから來也を見て、


「相澤さん、妻がご迷惑をお掛けしました。後日改めてお詫びに伺います」


敦也さんは深々と頭を下げると、恵美理さんを連れて帰って帰っていった。

その時、來也が小さく笑った。


「……なんだよ、その顔」

「………素敵なご主人だなと思って」


來也が頷いた。


「そうだな」


そういった彼の顔色は、良くない。


「來也、大丈夫?」

「ああ。……刺さってる割には大して痛くない」

「私、ちょっと見てくる」

「俺のスマホを持っていけ」


私は來也のスマホを受け取ると、エレベーターホールへと急いだ。

丁度上がってきたエレベータの中を、私は覗き込んだ。中に総二郎さんがいるかもしれないと思って。


「マヒル!?」

「治人さん……!」


エレベーターに乗っていた数人のうちの一人が、治人さんだった。

治人さんとは六本木のマンションから荷物を運び出した時以来だった。


「どうしたの、マヒル」


きっと、このビルに取引先の会社や傘下の企業があるのだろう。


「……は、るとさん」


治人さんは私を見てわずかに眉を寄せると、エレベーターを降りて私の腕を引き、壁際へと導いた。


「顔が真っ青じゃないか。何があったの」


心配そうに私の様子を窺う治人さんを見て、思わず涙声になる。


「來也がオフィスで怪我をしたの。ペーパーナイフが脇腹に刺さって……。騒ぎになるから救急車は呼ばないって。総二郎さんのお兄さんの病院に」

「マヒル、落ち着いて」


私は耐えきれなくなって治人さんを見上げた。


「どうしよう、治人さん」

「相澤はどこ?」

「このフロア」


私がそう告げると、治人さんはスマホを取り出してどこかへ電話をかけ始めた。

その時、來也のスマホが鳴った。総二郎さんだ。


『マヒル?俺の兄貴には話をつけたからタクシー呼んで來也を連れていってやってくれ。俺がそっちに戻ってたら遅くなっちまう』

「分かった」


私はスマホをしまうと治人さんを見上げた。


「ごめんなさい治人さん。私、行かなきゃ」

「待って、マヒル」


電話を終えた治人さんが私を引き留めた。


「地下駐車場に僕の車がある。僕の車で病院へ運ぼう」


私は信じられない思いで治人さんを見つめた。

彼は素早く状況を読み、私達を助けてくれようとしているのだ。


「……いいの?」


治人さんはしっかりと頷いた。


「勿論。さあ、彼のところへ行こう。車まで連れていかないと」


治人さんは少しだけ笑った。


***


「來也……?」


オフィスに戻り、社長室のドアを小さくノックしながら開けると、來也は少し顔を起こした。

それから私を見た後、彼は後ろにいた治人さんに視線を移して眼を見開いた。


「相澤」


先に口を開いたのは治人さんだった。來也は驚きの表情のまま、視線を私に移した。そりゃあ驚くに決まっている。


「治人さんとはさっきエレベーターホールで会ったの。総二郎さんがお兄さんには話をしたから來也を病院まで連れていけって。そしたら治人さんが車で送ってくれるって」


來也は唇を引き結んで私の言葉を聞いていたけど、やがて治人さんに視線を移すと小さく頭を下げた。


「先輩、面倒かけてすみません」


治人さんは、首を横に振った。それを見た來也は、小さく頷いてから私を呼んだ。


「マヒル、給湯室のタオル取ってきて。出てすぐ右側のドア。タオルを巻き付けておかないと、歩く度に出血するかも知れない」


私は頷いてタオルを取りに行くと、柄を避けるようにしてそれを來也の腹部に巻いた。


「相澤。このままエレベーターで地下駐車場まで行く。立ち上がれるか?ゆっくりでいい」


來也は頷いて立ち上がった。まばらになった社員に挨拶をしながら、私達は何とかオフィスを出た。

エレベーターホールに向かい、私と治人さんで來也の腹部を隠すようにして降りてきたエレベーターに乗り込む。スーツのジャケットでみえないけど、念のために。

それから地下駐車場の治人さんの車に乗り、私達は総二郎さんのお兄さんの病院を目指した。

そこでやっと私達は緊張が解け、ようやく三人が三人とも大きく息をついたのだった。


******


総二郎さんのお兄さんの病院は港区にあり、区役所から南に15分ほどの距離にあった。

病院の中に入る頃には來也の顔は苦痛に歪み口数は極端に減っていたけど、入り口から数歩進んだ距離で車椅子を準備した40代くらいのベテランっぽい看護師さんに声をかけられ、私達は速やかに処置室へと入れた。

一度処置室に入った來也は次に出てきた時は幅の細いストレッチャーに乗せられていて、二人の看護師さんに連れられていってしまった。


「二階の手術室の前でお待ちください」


治人さんは小さく返事をしてから私を見て柔らかく笑った。


「大丈夫。相澤はタフだから。きっと今からレントゲン撮影だよ。二階に上がろう」


エレベーターへと向かいながら、私はすがる思いで頷いた。


「治人さん、付き合わせてしまってごめんね」


治人さんは首を横に振ってからフワリと笑った。


「……僕はね、マヒル。……償いたいんだ、あの日の事を」


あの日の事とはきっと、酔って帰ってきて私に乱暴した日の事だ。


「マヒル。本当に、本当にごめん。いつも思ってた。あの日に戻れたらって。いや、あの日だけじゃない。僕は君を」


そこまで言って、治人さんは一旦口をつぐんだ。二人でエレベーターに乗り込むと、そっとボタンを押す。

エレベーターは直ぐ二階に到着し、扉から出るとあまり明るくない広い廊下は殺風景で、とても空気が冷たかった。

 手術室の大きなドアの手前に備え付けられた椅子に二人で並んで座ると、治人さんは思いきったように話し出した。


「相澤とはね、スイスの大学で一緒だったんだ。二年後輩だったけど、彼はいつも輪の中心にいて人気者だった。眩しかったなあ。僕に無いものを沢山持っている相澤がいつも羨ましかったよ」


そう語る治人さんの眼差しは柔らかくて、私は食い入るように彼を見つめた。


「だからあの写真を見たとき、僕はどうしようもなく狂ってしまった。何もかも持っているのに、僕からマヒルを奪っていくのかと思ったらもう、自分を律することが出来なくて……。あの時冷静に君の話を聞いていたらと後悔したよ」


治人さんはホッと息をつくと再び続けた。


「あの写真を撮るように指示していたのは、緑川冴子なんだ。彼女は相澤が好きだったんだね。けれど断られて、君の事を調べたみたいだよ。相澤家にも写真を送りつけて、君達の仲を裂こうとしたみたいだったけど、彼女の思惑は失敗したみたいだ」


……そうだったのかという思い。何と言って言いか分からずに、私は治人さんを見つめた。


「マヒルの事を調べた緑川冴子は、君が偽物の恋人だったと知り、僕達の関係を嗅ぎ付けて今度は僕と君の仲を潰しにかかった。……僕はまんまと引っ掛かってしまったけど。あのあとすぐ舞い込んできた話……冴子との縁談話に、自暴自棄だった僕は二つ返事で承諾したんだ。彼女とは何度かパーティーで会ったことがあるだけで、見合い当日までは話したこともなかったけど。婚約発表してから何度目かのデートで、彼女は僕に言ったよ。『私は、緑川グループの為になるなら何だってする。あなたと藤吉さんを破局に追いやったのは私です。本当は一生黙っていようと思いましたが、どんな形であれ添い遂げようと決めた相手にそれではあまりにも卑怯だと思い打ち明けることにいたしました。けれど、私はあなたを夫として愛し、大切にいたします。だから過去は忘れて、あなたも私と向き合ってくださいませんか』って。正直、呆れたよ」


想像の上を行く緑川冴子さんの人物像に、私は息を飲んだ。


「呆れたけど……なんだか……」


治人さんがそこで言葉を止めたから、私は少し頷いた。治人さんの気持ちを表すのにピッタリな言葉が、今はまだきっと見当たらないのだ。

けれど治人さんの表情は、決して悪くなかった。

何もない向かいの白い壁を見つめるその眼差しは、穏やかだった。



********


「マヒル」

「……総二郎さん!」


廊下の幅いっぱいの自動ドアが開いて、総二郎さんが早足でやって来た。案の定、総二郎さんは治人さんを見て一瞬眼を見張ったけど、


「有川先輩、ご無沙汰してます。もしかして先輩が來也を?」

「偶然エレベーターホールで出会って、助けてくれたの。車でここまで送ってくれて」


私がそう言うと、総二郎さんは深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」

「いいんだ」

「入って何分?」


総二郎さんの問いに私は戸惑って治人さんを見上げた。


「処置室で別れてから……20分くらいかな」


総二郎さんは軽く頷いてホッと息をはいた。


「……怪我の原因は、恵美理だろ?」

「……うん……」


総二郎さんは視線を下げた。


「……もう、邪魔しないって……彼女、凄く泣いて謝ってた」

「……そっか」


それから私達は誰もが無言だった。


*****


どれくらい経ったかはっきり分からないけど、急に奥の自動ドアが開いて、看護師さんと共にベッドに寝かされた來也の姿が見えた。


「病室へお連れしておきます」


看護師さんはそう言うと、來也のベットを押しながらドアの向こうへと消えていった。


「兄貴」


後から出てきた手術着の医師が、総二郎さんの呼び掛けに軽く手を上げた。


「急に悪いな。どうだった?」

「大したことない。刃物は臓器にも動脈にも達してないから安心していい。感染症の心配もないだろう。まあ念のため、一晩入院してもらうがな」


私と治人さんが頭を下げて、総二郎さんがお兄さんの肩をポンと叩いた。


「助かったよ、恩に着る。この事は他言しないでくれ」


お兄さんは憮然とした顔で総二郎さんを一瞥した。


「どうせアイツの事だ。別れ話の縺れで女にでもブッ刺されたんだろ」


そう言ってセセラ笑った総二郎さんのお兄さんだったが、硬直する私達を見て、


「あれ?……マジかよ」


マジよ、マジ。


「こえー。怖すぎて誰にも言えねー」


お兄さんはそれだけ言ってニヤッと笑うと、再び手術室へと消えていった。


*******


10分後。

私は治人さんに深く頭を下げて別れると、6階だと気かされた來也の病室へ向かった。そっと引き戸を開けると、來也はベットを起こして座っていた。


「……服、取りに行ってくるね。あと、保険証とか」


私がそう言うと、


「保険証なら財布にある」


言いながら來也は、財布やスマホが置かれている背の高い机をチラッと見た。


「……マヒル。もっとこっち来て」


私が來也のベットに近寄ると、來也は視線をそらして私の手をそっと握った。


「……座って」


椅子に座った私を見て、來也はポツポツと話し出した。


「……俺、兄貴がいたんだ」


そう言うと來也は、悲しそうに、それでいて懐かしむように白い布に視線を落とし、わずかに眼を細めた。


「一歳年上でさ、ガキの頃は何をするにもいつも一緒だった。けど死んだんだ。8年前に」


やっぱりという思いと、予想が的中して胸が潰れるような痛み。


「兄貴が死んだのは俺のせいだ」


來也は私を見た。

ゆらゆら揺れる、來也の悲しそうな瞳。どう言っていいか分からなくて言葉が出ず、私は來也の手を握り締めた。 


「俺の二十歳の誕生日に、俺と兄貴は会う約束をしてたんだ。俺はスイスで兄貴はアメリカの大学だったから滅多に会えなくて、俺がワガママ言ったんだ。会いたいって」


來也は私を見ずに、繋いだ指先に少しだけ力を入れた。


「ところが、俺の誕生日の一ヶ月前に、突然アメリカから連絡が来たんだ。兄貴が死んだって」


來也の精悍な頬が苦痛に歪んだ。


「兄貴は俺のせいで事件に巻き込まれたんだ。会う約束をした時、兄貴は俺に『何か欲しいものないか』って聞いてきたから、俺は時計が欲しいって言ったんだ。俺の好きな有名時計ブランドが、アメリカ限定で五十周年記念モデルを発売したから。……兄貴はそれを俺への誕生日プレゼントにしようと考えて、襲われた」


來也の声が震えた。


「店から出て10メートルほど離れた防犯カメラに、兄貴が二人組の男に後ろから襲われる映像が残ってたよ。兄貴は抵抗しなかったのに、やつらは兄貴を銃で撃ったんだ」


來也は続けた。


「結局、兄貴を襲ったやつらは直ぐに捕まったが、やつらはこう言った。『限定モデルの時計を奪う為に撃ったが、彼は時計を持っていなかった』って。俺たち家族は怒りに震えたよ。命を奪ったうえに嘘を付いたアイツらを許せなかったんだ」


私はどうしていいかわかなかった。ただ聞くことしか出来なくて、胸が張り裂けそうだ。


「夢みたいだったよ。信じられなかった。家族で直ぐにアメリカに飛んで、兄貴の遺品の整理、彼を連れ帰って日本での葬式、目まぐるしく一ヶ月が過ぎたよ」


來也はそこで言葉を切ると大きく息をした。


「脱け殻になっていて自分の誕生日なんて忘れてた時、荷物が届いたんだ」


やっと私は声を出した。


「……荷物?」


來也が頷く。


「アメリカから。……兄貴から」


……それって、まさか……。


「奪われたと思ってた時計だったよ」


來也が悲しそうに私を見つめた。


「兄貴を襲った強盗が、ポケットを物色してたのは写ってたけど、俺たち家族が見せられた画像は画質が悪くて、ハッキリしなかったんだ。警察もその辺の事は何も言わなかったし。けど……兄貴は店で時計を購入して、頼んでたんだ。俺の誕生日に時計が日本に着くように」


もう我慢できなかった。溢れ出る涙を止めることが出来ず、私は俯いた。來也の苦しみは、きっと私の想像を越えていて、私はその苦しみを癒す術を何も持っていない。

來也を慰めたい。來也の苦しみを軽くしてあげたい。

なのに私は。私は、なんて無力なんだろう。

來也は私の頬の涙を指で拭いながら続けた。


「箱の中には兄貴が買ってくれた時計と店からのメッセージ、警察からの手紙が入ってたよ。……兄貴は、店にこう言っていたんだ。『この時計を、一ヶ月後の大切な弟の誕生日に贈りたいんだ。その時僕は彼といる予定だけど、ちょっとしたサプライズを仕掛けて、彼の驚く顔や喜ぶ顔が見たいんだ。万が一、誕生日に帰国出来ないかも知れないけど、プレゼントは当日にどうしても渡したい。たとえ僕に何があったとしても、この事は内緒だよ。確実に誕生日に届けて』って」


來也が拭ってくれたそばから涙がこぼれる。

きっと、警察は分かっていたんだ。

けれど店側の話を聞いて、來也のお兄さんの思いを優先したから時計の在処を伏せていたんだ。

來也は私を見つめて掠れた声で言った。


「俺が兄貴を殺したんだ」


咄嗟に私は首を横に振った。


「そんなこと、言わないで。お兄さんだって喜ばない」


來也は悲しみに溢れた眼差しを私に向けて、わずかにその眼を細めた。


「あれ以来、俺に近づく人間を信用できなくなったよ。相澤の財力に打算的な思惑で近付く奴らや、俺の中身など見ずに外見や金に寄ってくる女達。兄貴を襲って金品を強奪しようと命まで奪った奴らとどこか重なってしまって、心を許せなかった」


來也は小さく笑った。


「兄貴の人生を奪ったのは自分だと思えてならない。俺は最低だ」


來也の言葉を聞いて、私は何だかあの物置部屋の意味が分かったような気がした。

二冊ずつの本もお洒落な高級家電も、來也は全てお兄さんに捧げたかったんじゃないだろうか。

21歳という若さで天に召されたお兄さんも、本当なら社会でバリバリと働き、欲しいものを手にしながら人生を謳歌していたに違いない。

それを奪ってしまったという來也の強い懺悔の思いが、あの部屋につまっているのだ。

きっと來也は、自分が何かを得る度に、亡きお兄さんにもそれを捧げずにはいられないのだ。


私は声を殺して泣いた。來也が可哀想で、どうしようもなかった。

どうしたら彼の気持ちを癒せるのか分からず、手を握りしめて唇を寄せるしかなかった。


「俺はもっと傷つくべきだ。こんな傷じゃ足りない」


私は來也を見つめてかぶりを振った。


「恵美理さんとの事はもう終わったでしょ?彼女も言ってた、來也は悪くないって。きっとどっちも悪くない。だって人の心は複雑だもの。それにお兄さんだって、來也には幸せでいてもらいたいはずだよ」


私を見つめる切れ長の眼には絶望の暗闇が広がっている。

私は來也の手をしっかりと握って、まっすぐに見つめた。


「お兄さんが來也のプレゼントに時計を選んだのはきっと、あなたがその時計を望んだからだけじゃないよ。お兄さんはきっと、かけがえのない來也の『時』を、後悔しないようにしっかり歩んで欲しいんだよ。彼はきっとこう言ってる。俺の死でいつまでも立ち止まるなって。そんな風に自分を責めて立ち止まるなって。だってお兄さんの選んだ時計はずっとあなたの『時』を刻んでるもの。お兄さんだってきっと、あなたの活躍を見てる。これからのあなたの未来を彼は楽しみにしてるはずだよ」


みるみる來也の瞳に涙が浮かんだけど、來也は素早く顔を背けると、グイッと私の腕を掴んで引き寄せた。


「俺は……抜け出せるんだろうか。この闇から」


バランスを崩した私を胸に抱き止めると、來也は掠れた声でそう言った。

温かい來也の体を心地好く感じて、私はゆっくりと息を吐き出した。

それから身を起こすと、両手で來也の頬を包み込んだ。ゆるゆると來也が瞳を揺らして私を見る。

私は來也の唇にキスをすると、精一杯微笑んだ。


「來也。あなたの特別なライオンは、もう何度もあなたにキスしてる。きっともう大丈夫。大丈夫だから」


來也は再び私を抱き締めると、僅かに震える声で囁くように言った。


「……マヒル、ありがとう」


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