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~Lion Kiss~  作者: 友崎沙咲
episode7
15/18

抑えきれない想い

*****


数日後。私はなんとか生きていた。

只今、飯島社長宅……すなわち花音さんのお家に居候させてもらってる身だ。けどそれも、今週いっぱいまで。

だって、イイ大人がこんなんじゃダメだ。思いっきり家なき子だなんて。

来週には、契約した小さなアパートに越す予定。超狭いけどロフト付きだし、家具付き。


そしてここは、小さな居酒屋。

しばらくの間、宮代は封印。だって來也に会う確率が高いから。


「何でライオンは追いかけてこなかったのかしら」


柚希の疑問に再び胸が痛んだ。


「私がスペアだからだよ、たぶん。けどスペアの分際で別れを告げちゃったものだから……また別のスペアを見つけるんだと思うよ」

「電話とかメールは?ないの?」

「……ない」


正直これには落ち込んだけど、來也ほどのイケメンが去っていった女に連絡なんかしないわよね。

柚希が物憂げな表情でガヤガヤと騒がしい店内を見回しながら言った。


「ねえ……落ち着いたらちゃんと話をしなよ、ライオンと」

「当分落ち着けないし話なんて怖くて出来ない。來也本人から『お前はただのスペアだった』なんて言われたら死ぬ」

「……そこだよ、マヒル。私も話を聞いて頭に血がのぼっちゃったけどさ、よく考えるとドッペルゲンガー側だけの話を鵜呑みにするのは、危険だと思わない?」

「……思うよ。思うけど……」


私は來也の物置部屋を思い返した。どうして、同じものが二つづつあるんだろう。

それに彼女と私はすごく似ていて……。

ドッペルゲンガーの言葉が脳裏に甦る。


『來也はね、愛する人を亡くして心に大きな傷があるの。だからスペアが必要なのよ。きっとあまりにも大きな傷のせいよ』


私は箸を置いて柚希を見つめた。


「來也の亡くした愛する人って、誰なんだろう」


柚希がジョッキを置いて私を見た。


「さあね。恋人かもしれないし親友とか肉親かもしれないけど」


…………。


「救ってあげたい?」


弾かれたように身体がビクリとした。


「え?」


柚希が少し笑った。


「好きなんでしょ?」

「……うん……」


………だから辛いのだ。私は、來也が好きだ。だから、苦しい。

スペアだった事も來也が心の傷を抱えているのを知らなかった事も、彼が相澤ホールディングスの息子なのを隠されていた事も。

來也が何も言ってくれていなかった事実が辛いのだ。

頼ってもらえてなかった。信用されてなかった。

柚希が重苦しい雰囲気を変えるかのように、少し大きめの声で言った。


「……少し気持ちが落ちついたらライオンと話をしなさい。それでダメになったなら仕方ないじゃない。本当にマヒルがスペアだったとしたら、こんなイイ女の良さに気付かなかった相澤來也は正真正銘のバカだね!思いきり奴の頬っぺた張り倒して思いきり泣いて、キッパリ諦める!それから次の恋を見つける!」


私はコクンと頷いた。そうだよね。

ドッペルゲンガーの話を鵜呑みにして、來也の話も聞かずに彼の元を去ってしまった。けど私、ショックすぎたんだ。

治人さんとの事からようやく立ち直れて來也を好きになったのに、また押し寄せてきた悲しみに耐えられなかった。

なんて私は意気地無しなんだろう。ポトリと涙がテーブルに落ちる。


「よしよし」


柚希が子供をあやすように私の頭に手を伸ばした。


「大丈夫、大丈夫」


柚希に迷惑なのに、私は涙が止められなかった。


*******


週末。

私はスーツケース二個と大きなスポーツバッグを肩に担いで、飯島家の豪華な門の前に立って頭を下げた。

社長の柔らかい眼差しと、花音さんの心配そうな顔に胸が熱くなる。


「社長、花音さん、お世話になりました!」

「おう!」

「いつでも帰ってきていいんだからね」

「うん、あ、来月の社長の誕生日パーティー、楽しみにしています!社長、何が欲しいですか?」

「俺、時計!時計が欲しい!ロレックスの新」

「ばか!」


ガチで言ってるし!

花音さんの肘鉄をくらい、社長が顔をしかめた。


「マヒル、送るよ」

「助かります!」


私の新居は駅からは少しだけ遠いが、静かで環境もいい。近くには商店街もある。

アパートに着いて荷物を中へと運ぶと、社長が言った。


「マヒル、この状態が一生続く訳じゃない。大丈夫だから。俺達が付いてるんだからな」

「はい。社長や花音さんが付いていてくれたら百人力です!」

「デケーんだよ声が。余計痛々しいわ」

「いつまでもメソメソしたくないんです」


社長は暫く私を見つめていたがフワリと笑うと手を上げて、また週明けなと言い、帰っていった。

……さあ、今までは花音さんや社長のお家でなんとか気が紛れていた。けど、これからは帰宅すると独りぼっちだ。耐えられるんだろうか、私。

來也と過ごした日々を思い出して泣くんじゃないだろうか。いや、きっと泣くだろう。けれど、いつまでも他人を頼れないのだ。


このての苦しみは、自分で治さなきゃならない。

自分自身で乗り越えなければならないのだ。

耐えなきゃならない、大人なんだから。


****


週明け。

定時後、私はとんでもない人物の襲来を受け、永久凍土のマンモスよりも凍り付いた。

まあ、永久凍土は年々溶けてきてるらしいが。


「藤吉マヒル様でいらっしゃいますか」


会社を出て歩き出した私の元に、ダークなスーツの青年が声をかけてきた。

は?

若い割には髪を後ろに撫で付けていて、妙に馬鹿丁寧な話し方だ。

ちらりと歩道の向こうを見ると、路肩にハザードランプを点滅させた黒塗りの高級車が停車してある。

……もう、嫌な予感しかしない。

藤吉マヒル『様』と呼ばれるなんて、去年の冬に予約した温泉旅館以来だ。あれ、若旦那?!……いや、違うけど。どう見たって目の前の男性は温泉旅館の若旦那ではない。

私はにっこりと微笑んだ。


「……違います」

「ではお名前を伺ってもよろしいでしょうか」


切り返すような男性の言葉に僅かに心拍が上がる。


「まずそちらからどうぞ」

「チッ」


きゃあ、舌打ちされたっ!

眼を見張る私を一瞥すると、青年は上着の内ポケットから何かをスッと取り出して、私に見せた。


「この件について……お話があります」


私は更に凍り付いた。


「どうして……?」

「お乗りいただけますか?」


次第に早鐘のように心臓が脈打ち、私は息を吸っても吸っても苦しくて、思わず胸に手を当てた。

この時の私は、青年を見て頷くしかなかった。

だって彼が見せてきたのは、緑川冴子さんの前で私と來也がキスしている、あの画像だったんだもの。


*****


超高級なソファのようなシートに包まれて、私はゴクリと喉を鳴らした。運転中の青年は一言も言葉を発しないまま、やがて車は大田区に入った。更に車は西へと進む。


「あの……」

「なに?」


……急にタメ口かよ、なんて思ったけれどそのせいか、徐々に緊張が解れてきた。


「何処に向かってるんですか?私の家と正反対の方向ですけど」


青年が、鼻で笑った。


「田園調布の相澤家に向かってる。アンタのショボい家に向かうわけないだろ」


……こいつは親にどういう教育を受けてきたんだ。

思わずムッとして眼を細める私とミラー越しに眼が合い、青年はフッと笑った。


「あんた、兄貴が好きなの?」


……やっぱりな。だってこの人、來也にすごく似てるんだもの。


「あなた來也のご兄弟?だったら彼から聞いてない?私と來也は何でもない」

「ふうん」


青々とした街路樹の葉の間の広い道路を滑るように進み、暫くすると閑静な住宅街が見えてきた。

その中の一際高く真っ白な塀の邸宅の手前で、青年……來也の弟はブレーキを踏んだ。途端に大きなシャッターが、ゆっくりと上がる。何此処、人ん家?!都営の緑地公園じゃなくて?!

私は冷や汗の出る思いで、目の前の立派な庭とモダンな建物を見つめた。

車から降りたはいいが……圧倒されてハタと我に返る。……場違いすぎる、私。


「来て」

「やだ」


來也の弟はビックリしたように私を見た。


「やだって……じゃあなんで付いてきたんだよ」


私はツンと横を向いた。


「だって、急にあの写真を見せられて動揺したんだもん。

でもよく考えたら私にはもう関係ないし、帰る」


來也の弟は焦ったように私に近付いた。


「ま、待てって、まだ話は終わってない。とにかく家に入れ」


……出た。金持ちの、上から目線。


「やだ!もし來也がいたら嫌だし」


そう。まだ彼を見たら取り乱しちゃいそうで怖い。私の言葉に、彼が不敵な笑みを浮かべた。


「にーちゃんはいねえよ。だから来いって」


言いながら彼は、私の腕をグイッと掴んだ。


「やだってばっ!」

「いいから来い」

「嫌だって言ってるでしょう?!」

「ワガママ言ってると担ぐぞ!」

「きゃあ、触んなっ」

「いってぇ!!」


イライラした來也の弟に担ぎ上げられそうになって、私は思わず彼の太股に膝蹴りを食らわし、腕を振り払うと身を翻した。

その時である。


「やだ、つよーい!」


は?!

反射的に声のした方を振り仰ぐと、そこに綺麗な女の人が立っていた。來也のお母さんだって直ぐに分かった。凄く美人で、來也にとても良く似ていたから。

私が硬直する中、來也のお母さんは困ったように笑った。


「ごめんなさいね、征也ったら來也に似て強引で」


……來也じゃなくてあんたに似たんでしょーがっ。


「お呼びしたのは私なの」


ほらやっぱり!親が強引だから息子も……。

思わず突っ込みを入れたかったがそんな雰囲気でもなく、私は黙って彼女を見つめた。


「お呼びだてしてしまってごめんなさいね。私、來也の母で相澤理沙子です。藤吉マヒルさんよね?……実は……來也の事でお話があるの」


私は静かに深呼吸をすると、真正面から彼女を見つめた。


「……なんでしょうか」


私は、後ろで青アザがどーのこーのとブツクサ怒っている來也の弟を無視して口を開いた。


「來也さんとはその……もう連絡を取っておりません」

「だから困ってるの」


……へ?


「來也とよりを戻してやっていただけないかしら。何だか近頃、來也の様子がおかしくて」


……様子がおかしいって……。無意識に來也が心配になったけど、私は……。

私はマジマジと來也の母親を見つめた。


「相澤さん。私は息子さんにとって恋人ではなかったんです」


來也の母親……理沙子さんは驚いたように眼を見開いた。


「けど、じゃあ、あの写真は……」


……言いたくないけど仕方がない。


「あれは……來也さんに恋人フリをして欲しいと頼まれたんです」

「けどあなた、來也のマンションで一緒に暮らしてたわよね?」

「はい。お世話になってました。私はその……恋人と別れることになって……同情してくれた來也さんが部屋を貸してくださったんです」


理沙子さんが、様子を窺うように問いかけてきた。


「子離れ出来てない恥ずかしい母親とお笑いになってください。けれど私、あの子が心配で……。あなたは……來也の事をどう思っていらっしゃるの?」


心臓を掴み上げられたように、私は身体が引き吊った。

この問に……答えねばならないのかという思い。


日の長い夏の夕方は、思いの外ジリジリと太陽が肌に刺さる。

まるで私の心の痛みとリンクしているようだ。私は観念して口を開いた。


「私は次第に來也さんに惹かれていき、彼を好きになりました。ですがそれは私の一方的な思いです。彼の心は私にはありませんでした。だからもう、終わりにするべきだと思ったんです。現に私は彼に何一つとしてきかされていませんでした。彼の心の傷の事も、相澤ホールディングスの御子息だという事も」


理沙子さんの表情があまりにも固くて、私はそれが自分のせいのように感じて心苦しく、少し笑った。


「ですから私達は最初から戻すヨリなどないんです。……それに私、庶民なんです。お金持ちの方とはきっと合いません」


理沙子さんは眉を寄せた。


「お金持ちの暮らしに憧れはないの?シンデレラストーリーを夢見た事はないの?來也となら、それが叶うわよ」

「ないです。私を心から愛してくれる人とならささやかな暮らしで満足です。私、シンデレラのお話は好きじゃないですしお金もブランド品にも興味はないです」


理沙子さんは、小刻みに頭を振った。


「來也とは……もう元に戻らないの?」


私は頷いた。


「……最初から始まっていませんでしたから」


その瞬間、涙が頬を伝った。ダメだ、早すぎる。もう少し我慢しなきゃダメでしょ。

けどもう遅くて、理沙子さんは私を見て息を飲んだ。


「藤吉さん……」

「ご、ごめんなさい、失礼します」


身を翻して私は思いきり駆け出した。

開いたままだったシャッターから外へと出て、涙を拭いもせずに駅を目指す。


「おい!」


來也の弟が追いかけてきたけど、私は振り向かなかった。

二種類の靴の音が辺りに響き、やがて私は追い付かれて腕を掴まれた。


「はえーな、あんた。陸上部かよ」


兄弟揃っておんなじコメントかよ。


「そう!元短距離走者。ヒールじゃなきゃ負けてない」


半分ヤケクソで私がそう言うと、來也の弟……征也は大きく笑った。


「フッ!俺を舐めんなよ。俺は県大会で」

「どうでもいい」

「冷てーな、おい」

「……帰る。離して」

「なあ」


もう、なんなのよ、ほっといて!

そう思いながら征也を睨むと、彼は汗だくで私を見下ろしていた。

額から頬から汗が筋になって流れている。

來也と良く似た綺麗な顔が、私を追いかけたせいで汗だくという事実。

この状況で言うのはどうかと思ったが、あまりの汗に驚いてしまい、私は口を開いた。


「滝に打たれたみたいに凄い汗だよ?」


私がそう言うと、征也はムッとして私を睨んだ。


「アンタが逃げるからだろ。……とにかく暑すぎ!車まで戻ろう」


もう勘弁してほしい。私はうんざりしたように口を開いた。


「だから、私と來也はもう関係ないんだってば」

「だったらなんで」


征也がそこまで言った時、前方から一台の車が走ってきた。

私が道路の端に寄ろうとしたその時、


「よっこらしょ」

「……っ、きゃあっ!」


何を血迷ったのか征也が一瞬屈んだかと思うと、私をヒョイと抱き上げて道路の真ん中まで歩いた。


「ちょっとっ!殺すつもり?!轢かれるっ!」

「黙ってろ」


私は怯えてギュッと眼を閉じ、征也にしがみついた。

化けて出てやる、死んだら絶対恨んでやる!

ところが車は私達の前で静かに停車し、私は閉じていた眼を恐る恐る開けた。


「かーちゃんが電話したんだろーな」

「へっ?」


意味が分からず征也をジッと見つめると、彼は意味ありげに笑った。

その時、勢い良く車のドアが開いた。

……嘘でしょ。痛いくらい心臓がドキッとして、私は息を飲んだ。なんと運転席から降りてきたのは來也だったのだ。


「よう、兄ちゃん」

「征也、お前何のつもりだ」


苛立たしげに瞳を光らせて、來也は私達をギリッと睨んだ。

すっごい怒ってない?!……何の罰ゲームなのよ。

クラっと目眩がして、思わず私は征也にしがみついた。

もう帰りたい、早く帰りたい。だって來也とは宮代で別れたきりだったし、凄く気まずい。

もしかして私が実家まで押し掛けたとか思われちゃったらどうしよう。

そう思うと居ても立ってもいられずに、私は征也に耳を寄せて囁いた。


「ちょっと、下ろしてっ」


それなのに征也は焦る私なんかどーでもいいのか、


「こら、マヒル。にーちゃんの前でチューをねだるな。照れるだろ」


きゃあ、アホかっ!

ニヤける征也とは対照的に、更に怒りを顕にして來也は私達に一歩近付いた。

そんな來也を、征也は笑みを消して見据えた。


「間宮さんから聞いたよ。ろくに眠りも食いもせずに仕事場にこもりっきりで体調崩して入院してたんだってな」


え……?!


「……ほっとけ。入院っつってもたった三日だ」

「恋人ができて少しは人並みの生活に戻ったと思ったらまたかよ、兄貴!」


來也はギリッと征也を睨み据えたまま、唸るように言った。


「お前に関係ねーだろ」

「いいや、あるね!兄貴のそういうところが家族に辛い記憶を呼び起こしてんだよ!そんなに自分を追い詰めてそれを見てる家族の気持ちを考えた事があるのかよ!?兄貴が自分を痛め付ける度に、家族だって傷付くんだよ!」


來也が眉を寄せて顔を背けた。征也は続けた。


「そうやってマヒルの事も放っておくのか。傷に触れそうになった相手を拒絶するのか。だったらマヒルは俺がもらうからな!兄貴にマヒルは勿体無い」


弾かれたように來也が私達を見た。

その時突然、本当に突然、征也は素早く私の唇にキスをした。

まさかキスされなるなんて思ってなくて、私は驚きのあまり硬直した。

けれど次の瞬間、身体が横揺れし、引き剥がされるように私と征也に距離が生まれた。


「らい、や」

「行くぞ」


征也から無理矢理私を引き離すようにして担ぎ上げると、來也は短くそう言った。


「あ、あの、」


眼の端に映った征也がニヤリと私に笑ったのが見えたけど、私はどうすることも出来なかった。

助手席に乗せられドアを閉められて、私の心臓は飛び出しそうなくらい激しく脈打っていた。

もう、この先が不安で、運転席に乗り込んだ來也を見ることができない。早鐘のような心臓が痛すぎる。もしかして、


『実家にまで押し掛けんじゃねーよ!ストーカーかよ、お前は』


とか、


『ちょっと部屋に住まわせてやっただけで恋人面しやがって!このドブス!』


とか言われたらどうしよう。だって來也は御曹司だし、凄くカッコいいもん。私みたいなスペアなんて……。

ひどい言葉を聞かされるくらいなら、信号待ちで逃げようか。

私は咄嗟にドアロックの位置を確認しようと視線をさ迷わせた。

その時、來也に右手を掴まれた。


「きゃああっ!」

「叫ぶな」

「だって、急に手を掴むから、びっくりし」

「他の男とキスして喜んでんじゃねーよ!」


私の言葉を遮ってそう言うと、來也は私の手をギュッと握り直した。


「征也じゃなきゃ殴り飛ばしてるところだぜ」


……家族間の問題で、巻き添え食らってるんじゃない?私。

私からしたんじゃないし、なんて言おうものなら殺されそうだ。

來也の怒りモードがどうも納得できない私は思わずそう思ってしまったけど、すぐに後悔した。

だってチラッと來也を見ると、出会ってから一番だといっていい程怒った顔をしているんだもの。


「あの……」

「なんだよ」

「手を離して」

「ダメだ。お前は確実に逃げる」


來也がギラリと私を見た。鋭いし、顔が怖い。


「……」


私はポツンと呟いた。


「……私が誰とキスしたって來也に関係ないじゃん」


次第に胸が圧迫されるような感覚が強くなり、私は苦しさのあまり眉を寄せた。


「…………」


來也は舌打ちしたものの何も言葉を発しなくて、私も同じく無言だった。


車はいつのまにか港区へと入った。このまま東へ進むと代官山だ。私は小さな声で言った。


「來也のマンションには行かないから」

「……なんで」


なんでって。

私はシートから見を起こして姿勢を正した。もう私が、あなたの部屋へ行く理由なんかないじゃない。


「……停めて、來也」


來也がため息をつきながら車を路肩に寄せて停車した。

……どうしようもなくやりきれない空気が私達を包んでいる。

そんな中、先に口を開いたのは來也だった。

一瞬迷うように瞳を揺らしたが、直ぐに來也は私をしっかりと見据えた。


「マヒル」


精悍な頬を傾けて、來也は私を眩しそうに見つめた。


「俺は戻れない」


吸い込まれそうな綺麗な來也の眼を、私は夢中で見つめた。

……それって……。

息を飲む私を前に、來也は続けた。


「お前に出会う前の俺には、もう戻れないんだ。お前を離したくない」


なんて、残酷なの。


「……ひどいよ來也。どうして?!あなたはあの女の人が好きなんでしょ?なのに、」


來也がかぶりを振った。


「恵美理とは確かに関係があったが、今はもうなにもない」

「嘘よ。じゃあどうして出張の日、彼女と同じ部屋に泊まったのよ?!」

「……悪かったと思ってる。だが出張先は田舎だったし、回りにはなにもなかったから仕方なかったんだ。俺はソファで一晩中起きてたし、彼女には指一本触れてない」

「そんな問題じゃない!同じ部屋で一夜を過ごす事自体がおかしいでしょ!」


怒りと悲しみが私の心の中で渦になり、巻き上がった。


「それに來也は私にはなにも言ってくれなかったよね。私は恵美理さんの代わりなんでしょ?彼女が結婚しちゃったから仕方なしに私と」


來也が血を吐くように、苦しげな声を出した。


「どうして恵美理を信じるんだ」

「來也が何にも言わないからじゃん!!」


思わず声を荒げた私を、來也は見つめた。

それから僅かに頬を傾けて、眩しそうに眼を細めた。


「愛してるって言っただろ?」


その瞳の悲しげな光に、私は胸を突かれて俯いた。

……いつからだろう。

昔の私ならきっと『愛してる』の言葉だけで安心できた。

けれどもう、私はその時代を通り越しているのだ。

愛してるだけじゃ、一緒にはいられない。愛してるなら、もっと教えて。愛してるからもっと知りたい。

重苦しい沈黙の中、來也の弟……征也の言葉が蘇る。


『兄貴のそういうところが、家族に辛い記憶を呼び起こしてんだよ!』


押し潰されそうな胸の痛みが身体中に響く中、私は思った。

……來也が亡くしたというのは、家族の中の誰かなんじゃないだろうか。そのせいで、來也は自分を責めているのかも知れない。

もしかして、物置部屋のスペアの家電もそれに繋がっているのかもしれない。

私は……大切な人を亡くした経験がない。

だからその事で自分を責めたりしたこともなければ、それを自分の枷にした事もない。


自分を責めて追い立て身をすり減らして身体を壊すなんて、どんな精神状態なんだろう。

私は來也を見上げた。

迫った眉の下の涼しげな眼。精悍な頬に通った鼻筋。男らしい綺麗な口元。大きくて逞しい身体。


良く考えると、私は來也に頼りきりだった。かっこ良くて逞しい來也が頼もしくて。

彼の心に何があるのか気付かずに、私はただただ來也に甘えていたのだ。

それなのに恵美理さんの言葉を鵜呑みにし、『何も言ってくれない』と彼の気持ちも考えずに感情に任せて怒って泣いて。

來也が私に言わなかったのは彼なりの理由があったに違いない。なのに私は、自分の事しか考えずに彼の元から逃げ出したのだ。


ポトリと涙が落ちた。


「……ごめんね、來也。來也の心を分かってあげられなくて」


來也が首を横に振った。


「お前は悪くない」


來也の真っ直ぐな眼差し。いつも私を支えてくれた來也。



『……お前は俺を見かけ倒しのライオンみたいだって言ったけど……俺がお前の特別なライオンになってやるから。お前がこの恋の終わりから、きちんと立ち直れるように。お前が前を向いて歩けるように』



そうだ。

あの時だって、ボロボロだった私に手を差し伸べてくれたのは來也だ。

いつも私を守ってくれていたのに、私は……!

たとえこの恋が実らなくても、後悔はしたくない。私は、私は……來也が好きだ。なら、私が來也にしてあげられる事は。


「來也」


來也が私を見ている。

私は大きく深呼吸をしてから彼を見上げた。


「あなたがなってくれたみたいに、私が來也の『特別なライオン』になってあげる。あなたがもう自分を責めなくていいように。あなたが過去の苦しみから抜け出せるように」


一旦言葉を切ると、私は精一杯來也に笑いかけた。彼を安心させてあげたかったから。


「……特別なライオンにキスをされたら強くなれるんでしょ?……私があなたのそれになるから」


私は手を伸ばして來也の頬を引き寄せると、彼の唇にそっと口付けた。


私じゃ、力不足かも知れない。けど、來也にはこれ以上自分を責めて欲しくない。

ゆっくりと唇を離して、私は頭を下げた。


「頼りないライオンでごめん」

「マヒル」


勢い良く腕を引かれて運転席に倒れ込む私に、來也は激しくキスをした。

何度も何度も。

何度キスをしても足りなくて、私達は夢中で唇を合わせた。


「來也」

「マヒル」


名前を呼び合って見つめると、先に來也が話し出した。


「仕事が一段落したら、近々会ってくれないか」

「うん」

「ちゃんと話すから」

「うん。でももう、無理はしないで」

「ん」


このときの私は、再び感じる幸せの中にいた。

ヒタヒタと忍び寄る、事件の足音に気付きもしないで。

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