ライオンの本音
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それから約一週間ほど経った週末。
突然マヒルから電話があった。アイツは泣いていた。
迎えに行った俺の頬を、マヒルは思いきりひっぱたいた。
女に頬を殴られるなんて初めてだった上に、激怒し激しく泣きじゃくるマヒルに息を飲んだ。
……密かに心配していた俺の予感が的中したんだ。どうやら、バレていたらしい。緑川冴子の前で俺の恋人役を演じたあの日の事が。
マヒルが俺に見せたスマホには、あの日俺がマヒルを抱いてキスしている鮮明な画像が写し出されていた。
……ベストアングルだ。きっと、プロだ。いわゆる探偵か週刊紙のカメラマンか。
……有川治人、緑川冴子、それに俺という、いわゆる財界のサラブレッドが関わっているとなると、そいつらを雇った人物は不特定多数だ。
……誰なんだ。
マヒルは俺のせいで有川治人に別れを告げられたと泣き叫んで俺を詰った。
けど取り乱すマヒルとは対照的に、俺はやけに冷静だった。
そして内心、来るべき時が来たと思ったんだ。
マヒルと有川治人じゃ合わない。なんというか、もって生まれた『色』が違いすぎる。
それは家柄とか経済力の話ではなく、生まれ持った『色』のことだ。
たとえ今回の事件がなかったとしても、俺にはこの二人の愛が長く続くとは思えなかった。
そこには勿論、俺がマヒルを気に入っているという事実も含まれてはいるが、とにかく有川治人じゃマヒルの相手は務まらない。だがマヒルはそんな事、露にも思わず悲嘆にくれている。
どうしたものかと思い、俺は溜め息をついた。
こんな画像たった数枚で激昂し、一方的に別れを告げるような浅はかな男をマヒルが心底愛しているという現実。
……だが……。
マヒルには気の毒だが、俺にとっては悪くない。
だからといって今すぐ、ここぞとばかり心の傷に付け入り甘い言葉を囁くような真似はしたくない。
当たり前だが、二人の仲を取り持つなんて気は更々ない。寧ろ、この破局は俺にとって最高の事件だ。
結局俺はマヒルに嫌われるような毒舌を吐き散らし、悲しむアイツの神経を逆撫でしてしまった。
『…アンタの生まれた日を全身全霊で呪ってやるーっ!』
目の前のアイツは、傷付きながらも狩人に牙を剥く雌豹のようだった。
……困った女だぜ、全く。酒はガンガン飲むし、気が強くて口が悪くて平気で俺を殴る。けど……。
「……そろそろおとなしくなれって」
声をあげて泣き続けるマヒルを俺は抱き締めた。もう暴れなくていい。
涙が止まるまで抱き締めていてやるから。俺がずっと付いててやるから。
*****
マヒルを見ていると抱き締めたくなる。
『俺は週末はいつも、女を抱き締めて寝てんだよ。今ここにお前しかいないんだから仕方ねーだろ。黙って抱き締められとけ』
抱き締める理由がこれじゃ俺が女だとしても呆れるが、案の定マヒルも怒って俺を睨んだ。
けど、いい。これからは抱き締めるって決めたんだ。
それからこいつを此処に居候させる。
着の身着のまま、バッグひとつで有川治人の元から逃げてきたマヒルが此処に住めるようにするために、俺は彼女に服や靴、日用品を揃えた。
俺は浮き足立っていた。悲しんでいるマヒルには悪いが、嬉しかったんだ。だがマヒルは情緒不安定だった。当たり前だ、昨日の今日なんだから。
どことなく嬉しそうな俺を見て、マヒルは不信感を抱いたらしい。
徐々に表情が曇り、とうとう再び泣き出してしまった。
『來也、私、辛い。治人さんが好きなの』
胸がジリジリと焦げるような気がした。
大学時代の俺は、有川治人に嫉妬する事など一生ないと思っていた。
背も高くなく、美形でもなく、取り分け秀でている事もない。なのに今、俺は猛烈に有川治人に嫉妬している。
……なんでアイツなんだ。なんでだよっ!
けれど俺には彼女を抱き締める事しか出来ない。
この夜、俺は初めてマヒルに謝った。
抑えきれずキスした事。失恋を密かに喜んだ事。
この時マヒルはきっと俺を、親友か兄貴のように思っていたのだと思う。
もしくは布にくるまれて安心する赤ん坊のように、ただただ僅かな安心を求めていたのだろう。
『一緒に寝て』
独りで朝を迎えたくない彼女の気持ちは何となくわかる。よほど辛いんだ、こいつ。
俺はマヒルをくるむようにして添い寝をした。
ほんのひとときでも、彼女に安らぎを与えたかったんだ。
*****
翌朝、株価に影響を及ぼす大ニュースが入った。
有川治人と、あの緑川冴子が婚約を発表したのだ。水面下で着々と準備がされていたのは明白だ。
有川治人にしても緑川冴子にしても、所詮は互いの会社、傘下の大中小企業の為の駒に過ぎないのか。
俺は重苦しい胸中を誰にも知られないようにしながら業務をこなした。
今ごろきっとマヒルの耳にも入っている事だろう。
有川治人との破局で情緒不安定なアイツの精神状態を考えると、今すぐにでも仕事を放り出して迎えに行きたい衝動に駆られる。
だが、俺達は立派な大人だ。アイツは今ごろ、歯を食いしばって必死に業務をこなしているはずだ。
今の俺に出来るのは、目の前の仕事をやり遂げ、マヒルの傍へ急ぐ事だ。
俺は仕事を終えると急いで家を目指した。
玄関と廊下のライトは感知式だが、リビングは違う。
廊下の向こうに灯りはない。土間にはアイツの靴があるのに。
……この僅かな距離が長く感じるほど心臓が煩くて痛い。アイツ、電気もつけずになにやってるんだ。
自分の家の中をこんなに急いだことはない。
「マヒル?」
俺は部屋のライトに手を伸ばしながら声をかけた。
マヒルは笑っていた。バーボンのボトルを抱えて。マヒルが無事だと分かると、俺は一気に力が抜けそうになった。
そして思った。こいつが無事なら……酔ってたっていい。
マヒルは有川治人と緑川冴子の婚約を聞き、独りでいるには呑まなきゃいられなかったんだろう。
俺は何とかマヒルをなだめると、急いでシャワーを浴びた。
汗臭い身体でマヒルを抱き締めたくなかったんだ。
きっとこんな夜は、抱き締めてやらないとこいつは眠れない。
俺の態度に気を悪くしたマヒルがグズグズと文句を言ったが、傍にいてやると言うとマヒルは笑った。
此処に居ろよ。
家賃はただでいい。
マヒルがつけたテレビに、有川治人と緑川冴子の婚約記者会見が映し出された。
これ以上、苦しむマヒルを見たくない。
俺はマヒルの手からリモコンを奪うとテレビの電源を落とした。
またマヒルが取り乱すんじゃないかとハラハラしたが、意外にもマヒルは冷静だった。
マヒルは茶色い大きな瞳で俺を見上げた。
「悲しいけど、もうグズグズ泣くのは終わりにする」
俺は嬉しかった。ようやく、マヒルは有川治人から飛び立とうとしているのだ。俺はたまらずにマヒルを胸に抱いた。
「俺が、お前の特別なライオンになってやるから」
そうだ、俺が。
なあ知ってるか?
特別なライオンにキスをされたら、強くなれるんだ。
強くなるために特別なライオンを探して旅する孤児の話を思い出して、俺はマヒルに誓った。
俺がお前の特別なライオンになってやるよ。
この先、お前が強くなれるように。
不思議そうな顔で俺を見上げたマヒルの唇に、俺はそっと口づけた。
……こんなお伽噺を引っ張り出さなきゃマヒルを勇気づける言葉が見つからないなんて、俺はバカだ。
こんなお伽噺を口にしなきゃ、今のマヒルにキスできない俺は本当にヘタレだ。
なんでキスぐらいでこんなに緊張するのか分からない。ガキみたいだ、俺。けれどそれを悟られたくない。
そして優しく、優しく。
もう、大丈夫だから。
俺がお前を守るから。
お前を俺が強くしてやるから。
*******
いつもの定食屋で、総二郎がニヤリと笑った。
「どんな気分だった?女豹がキスマークつけて帰ってきて」
「うるせー」
全身の血が沸騰して逆流するくらい、ムカついたに決まってるだろーが。
「お前がさっさと告白しねぇから女豹は狩りに出かけるんだろ。いつもみたいにサッサと売約済の判子押さないと、あの手の女はすぐ奪われるぞ」
総二郎の言葉に、俺はグッと詰まった。思わずグラスの水をイッキ飲みし、ヤツを睨む。そんな俺に総二郎はシラケた視線を送り、尚も続けた。
「マンションで鉢合わせた有川治人から女豹を守ったってだけで余裕かましてると、どっかのハンターに持ってかれるぜ?」
俺は諦めてポツリと呟いた。
「あれ以来、わりとイイ感じなんだ。……抱き締めても拒否られねーし、有川治人から守った時はアイツから俺の背中に抱き付いてきたし。でもアイツは俺を男として意識してねーんだよ。兄貴か親友みたいに思ってる」
「はー?兄貴とも親友ともキスしねーだろ」
……それはそうだが……。
「キスはいつも俺が勝手にしてるんだ。アイツにされた事は1度もない。……とにかくアイツは俺と恋愛とか考えてないみたいだわ」
総二郎が俺の眼をジイッと見ながら言った。
「なんで、好きだって正直に言わねえの」
俺は箸を置くとサラッと言った。
「さすがにアイツがキスマーク付けて帰って来た日は結構アピールしたつもりだけどな」
……そうだあの夜は……ネカフェで過ごすと言ったマヒルを帰ってこさせて抱き締めたし、キスした。首筋のキスマークに滅茶苦茶頭に来て、俺意外の男に身体を触らせるなって命令した。
キスだって何回してんだよ、いい加減気付けよ。
そう思って抱き締めたけど……アイツはそんな俺に困ったように身じろぎして……。
総二郎が眉間にシワを寄せて俺を見た。
「……お前なあ、何で女豹がお前を恋愛の対照としてみないのか、分かってんのかよ」
「…………」
「いつまでも不特定多数と付き合ってます、なんて遊び人を演じてるとマヒルはお前をそういう奴だと思って諦めんじゃね?……ズルズルしてっと逃げられるぞ」
「ああ」
総二郎の言う通りだ。
俺は立ち上がると姿勢を正した。ちゃんとマヒルと向き合おうと決心しながら。
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ある日の夜。
『今日はね、炊き込みご飯としじみの澄まし汁、煮魚、お浸しだよ』
マジか。
『奥さん、今日の晩御飯はなに?』
俺がそうラインしたら、マヒルがこう返してきたんだ。
たちまちのうちに胸がフワフワと浮くような妙な感覚を覚えて、俺はギュッと眼を閉じた。
……マヒルに会いたい。
早く顔を見て抱き締めてアイツの作った晩飯を二人で食べたい。
ところが。
「來也っ」
リビングのドアを開けた俺に飛び付いてきたのは、恵美里だった。
マヒルの姿はどこにもない。
「來也、会いたかったあっ」
……恵美里は俺の会社のスタイリストだ。
わが社は、アクセサリー、服、バッグというように三点以上レンタルしてくれた客に対しお気に入りのスタイリストを選び、何通りかのコーディネートを選べるシステムを導入している。
恵美里は二年契約で、わが社のスタイリストとして業務に携わっている。
……実はそれだけじゃなかった。
契約を初めて交わした二年前、俺は恵美里を抱いた。
互いに特定の恋人はいなかったし、恵美里は可愛いかった。
身体の相性も悪くなかったから、後腐れのないように『互いがその気になったら寝る』関係で、恋愛感情は抱かない事をルールとしていた。
俺はそれでよかった。
恵美里は可愛いが俺の回りに可愛い女なんていっぱいいるし、誰か一人に絞って恋愛する気なんて更々なかった。
何故なら総二郎と立ち上げた会社が起動にのっていて忙しかったし、いずれ俺は相澤の家へ帰っていかねばならない。
そう、相澤ホールディングスへ。
重役達は俺がガキの頃から知っている面々ばかりで、両親よりも寧ろ彼等の方が俺を正式な後継者として鍛え上げようと手を子招いている。
……結婚したいと思う女がいないのなら相澤の家の為に、見合う相手と結婚するのもいいと思っていた。
そんな俺に、数々の見合い話が舞い込んできた。そろそろ身を固めて相澤の家へ戻れという催促だ。俺は毒付きながらも、卒なく見合いをこなした。
見合い相手はどの女も強い好意を抱いているようだった。
相澤の家柄、財力、そして俺に。
それを感じ始めると、徐々に見合いする気がなくなってきた。
『家のために』なら、相手も同じ考えでいてもらいたい。家のため意外の感情は不要だ。
俺に対する恋心がある奴との結婚なんて、まっぴらだ。
愛を求められても困る、俺は与えてやれないんだから。
だから俺は、楽な女……恵美里がちょうどよかったんだ。
仕事上の関係もあり、恵美里とは頻繁に会った。
打ち合わせのついでに寝る場合もあり、恵美里だけには鍵を渡していたんだ。
それが裏目に出た。
関係は解消していたが、部屋の鍵の事をすっかり忘れていたんだ。
俺が家につく前に恵美里が到着し、マヒルは彼女と鉢合わせた。
「家政婦さんなら帰ったわよ」
飛び付いてきた恵美里に、俺は冷たく言い放った。
「鍵はポストに入れといてって言っただろ?」
「いーじゃん、來也の顔見たかったし」
嘘だ。
コーディネートを新しくするために三週間に一度は必ず職場で顔を合わせている。それがつい先日だったのだ。コイツはマヒルに会いに来たに違いない。
「お前とはもう終わったんだ。結婚してるんだし、仕事意外で会う気はないからな」
恵美里の顔がグッと曇った。
「結婚したら來也が嫉妬して私をさらいに来てくれるかなって思ってたのに」
「他の男を選んだのはお前だろ。それに俺はお前との将来なんて考えた事はない。旦那を大事にしてやれ」
恵美里が叫んだ。
「藤吉マヒルみたいな女がイイなら、私がそうなるよっ!今日だって見てよこの服!朝、彼女の服装をチェックして」
俺は溜め息をつくと、恵美里を侮蔑の表情で見つめた。
「つまんねぇ事してんじゃねーよ!いい加減眼を覚ませ」
「眼なんか覚めない!!私は別れても結婚しても、來也が好きなの!!」
「もう帰れ。二度と来るな」
恵美里はギリッと俺を睨むと身を翻して出ていった。
恵美里が結婚したのは半年ほど前だ。
それより少し前から、恵美里は徐々に俺を独占したがるようになっていた。俺はそれをうっとおしく思い、彼女と距離を置き始めた。
現時点で、恵美里との契約はあと二か月間だ。それが終了したら新しいスタイリストを雇う予定でいる。再契約はしない。
多分マヒルは恵美里と会い、俺の彼女だと思ったはずだ。たとえ、特定の恋人でなくても。
……こういう事が、マヒルを遠ざける原因なんだ。このままじゃダメだ。
スマホと財布をひっ掴むと、俺は玄関へと急いだ。
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泣いているマヒルを通りで見つけた。
恵美里にひどいことを言われたのか、俺の彼女と鉢合わせて自分が邪魔をしたのがいたたまれないのか、理由は分からなかった。
自分の家がないという現状を、改めて実感して心細くなったのか。
まさか、有川治人を忘れられないとか。
グルグルと回る考えの全てが、マヒルが俺を恋愛の対照として見ていない事に繋がっているように思えて、俺は次第にイラついた。
憮然とした顔で、ついついマヒルを追い詰めるように毒を吐いてしまう。
俺の態度に耐えきれなくなったマヒルが、再び泣きながら出ていくと言い出した。
もしかして、有川治人の元に帰る気なんじゃ……。
ダメだ、行かせない。
本当は泣かせたかったんじゃないし、こんな風にムッとして性悪な言葉を投げ掛けるつもりなんかなかったんだ。
俺は部屋から出ていこうとしたマヒルを抱き締めて止めた。
「……いじめすぎた。ごめん」
本当に俺が悪かった。
好きなんだ、お前の事が。なのに、お前は線を引いてて。
有るか無いかの線だが、やっぱり線は存在していて、お前は俺との一線を消して越えようとしなくて。
こんなに焦れた事はない。
だがマヒルの気持ちを無視して迫って、他の女と同じ扱いだと思われたくなかった。
それに今の俺が『好きだ』と言っても、信じてもらえない気がしていたんだ。つくづく、手当たり次第に女と遊んできた自分を呪ったが、仕方がない。
……マヒルが好きだ。愛している。だからどう思われるか分からないが、伝えるしかない。
俺は少しずつ、胸の内を語り始めた。……なのに……マヒルは何だか鈍い。 やっぱり俺の気持ちなんかに気づいてない。
チグハグな会話に、俺は呆れた。すると何故かアイツは怒り出した。
泣きながら怒り、自分の思いを捲し立てた。
それを聞いていた俺は、俺は……はじめて自分の方が鈍くて、恐ろしく女心が理解できてなかった事を知った。
……マヒルは……もうとっくに俺が好きだったんだ。
そこでまたしても、自分が鈍感な上に間抜けだと気付く。
……好きだと告白しようとしていたのに、いつの間にか先を越されているなんて。
泣きながら愛を告げるマヒルに圧倒されて、俺はただただ彼女を見つめた。
こんな告白、されたことがない。
最初にガツンと胸を殴られ、バカだの鈍いだのと罵られ、怒られ泣かれ、とっくに好きだと告げられたんだ。
涙と怒りでグシャグシャな顔で、思いきりの告白。
好きな女が過去の失恋を乗り越えて、ようやく俺を好きになってくれた事実。
我慢なんかもう出来ない。
こんなに可愛い女とのキスを、我慢できるわけがない。
俺は夢中でマヒルとキスをした。互いに名を呼び、見つめ合い、思いきり抱きあった。
俺を切な気に呼ぶマヒルが愛しくて可愛くて、この気持ちが抑えられない。
「マヒル、愛してる」
離さない。絶対に、離さない。
俺はマヒルを見つめて強く愛を囁いた。