スペア
***
「お久し振りね」
ドッペルゲンガーが、私を見て口を開いた。
「あなたが」
ドッペルゲンガー、と言いかけて私は口をつぐんだ。
この人だったんだ、私のドッペルゲンガーは。
あの日、來也のマンションに鍵を返しに来た、この女性が。
あの時、私はまるで気付いていなかった。彼女が私に似ているって事を。けど、今は分かる。
だって、顔立ちこそ似ていないが、他はどこからどこまでソックリだ。
ヘアスタイルはブラウンのロング。バッグも同じものだし、ピアスだって同じだ。服装はメーカーこそ違うが、かなり似たデザインだ。
おまけに背格好も似ていて、後ろ姿だと翔吾くんや柚希が間違えるのも納得出来た。
「……どういう事」
張り付いたような喉を必死で押し開くようにして言ったが、私の声は完全に掠れていた。
再びドッペルゲンガーが声を出して笑った。
「前に言ったでしょ、完成度高いって」
あまりにも衝撃が大きくて、彼女の言った意味がまるで理解出来ない。
「その驚きようを見ているとあなた、來也の事をまだ理解してないのね」
何の返事も出来ずに、私はただ彼女の顔を見つめた。
やけに暑い。湿気の残る梅雨明けの夜は風ひとつなくて、私はこの緊張感と湿度の高さに目眩を感じた。
そんな私を前に、またしてもドッペルゲンガーが意味深な笑みを浮かべたまま話し出した。
「……來也はね、私と付き合ってたの」
「……聞きました」
「彼はね、私の事が嫌いになった訳じゃないし私だって彼をまだ好きよ。けどね彼って同情心が強いのよ」
先の読めない話に、冷静さを保てない。
「來也はね、愛する人を亡くして心に大きな傷があるの。だからスペアが必要なのよ。きっとあまりにも大きな傷のせいよ」
次第に心臓が耳元で脈打っているような錯覚を覚える。
自分の身体なのに、早鐘のようなそれをどうすることも出来ない。
「來也があなたに優しいのはただの哀れみよ。彼は絶対に私の元へ帰ってくるわ。私だけよ、彼を理解できるのは」
黙って聞いてりゃ何なんだ、この女は。言われっぱなしでいるほど私は大人しくない。
「あなたとはとっくに終わってるって聞いたけど?」
私の言葉にドッペルゲンガーが笑った。
「あなたの前で本心出さないわよ彼は。現に」
含むような眼差しがやけにイラついたけど、私は唇を引き結んで彼女を見据えた。
ドッペルゲンガーは続ける。
「……あなた……あの部屋を見た?」
あの部屋……?
我慢できないと言った風に彼女は声を上げて笑った。
「私ね、結婚してるのよ。色々あってね」
結婚……?!
「だから來也には淋しい思いをさせちゃて。それで……彼もあなたに同情してるのよ。……まあ、あの部屋に入ってよく見てよく考えなさい、自分の立場を」
そこまで言うと一旦言葉を切って、彼女が私に近づいた。
至近距離から私を見つめる二つの瞳は、まるで光が反射して光る蛇の眼のようだった。
それから最後に彼女はゆっくりと唇を引き上げると、囁くように言った。
「あなたはね、スペアよ。じゃあね」
ちょっとまって、どういう意味?!
まるで理解出来ないのに、カツカツと踵を鳴らして遠ざかるドッペルゲンガーを、私は追いかけることが出来なかった。
……ダメだ。頭が働かない。平常心を取り戻せないまま、私は必死で考えた。
來也のマンションの間近でドッペルゲンガーと出会うという事は……。
私の留守にドッペルゲンガーが、來也と過ごしていたってこと?
だとしたら、さすがはドッペルゲンガーだ。いや、待てよ。そうと決まった訳じゃない。冷静にならないと。
私は大きく深呼吸すると、歩き始めた。
*****
「……ただいま……」
リビングへと進みながら私は小さく呟いたが、ソファで眠る來也を見て少し息をついた。……寝ちゃってる。
テレビはDVDのトップ画面を映し出している。
ソファの前にあるガラスのローテーブルの上には、赤ワインを飲んだグラスがひとつだけ。
何となくだけどずいぶん前に眠ってしまったような感じだ。
私は床に膝をつくと、腕を組んでスヤスヤと眠る來也を至近距離から見つめた。
……來也……。
ダメだ、よく分からない。考えようとしても、考えられない。
私は大きく息をついて天井を仰いだ。……今日は……もうよそう。
「來也」
そっと身体を揺すると、來也が少し動いた。
「來也、ベッドで寝て」
私が來也の唇にキスすると、來也は柔らかく微笑んだ。
「今度は俺と宮代だからな、二人だけで」
「ん」
「マヒル、水」
「ん、待ってて」
私が立ち上がろうとすると、來也が腕を掴んだ。
「マヒル」
「……なに?」
「愛してる」
ギュッと胸が軋んだ。
「私も。一生好き」
來也が甘い眼差しを私に向けた。
「一生?」
「ん」
「じゃあ、一生離れんな」
……うん。一生離さないで。
急に涙が出そうになって、私は來也の腕をそっと外した。
「お水持ってくる。待ってて」
ジワリと湧き出る涙の意味は。
「來也、私の事ギュウッてして寝て」
水を飲み干してから、來也は優しく私を見た。
「どうした?今日は甘えたい気分?」
私は來也に抱きついた。
「ん、甘えたい」
だってなんだか怖いんだもん。
「ほら、シャワー浴びてこい。もう寝るぞ」
「ん」
目に見えない何かが怖い。
このときの私は不安で不安で、來也の身体を抱き締めて眠るより他に、なす術がなかった。
*******
私はドッペルゲンガーの呪縛に苦しめられながらも、何とか一日の業務をこなした。
彼女が言った『あの部屋』ってなんだろう。
就業時間が過ぎても私はデスクから立ち上がらず、『あの部屋』の事を考えた。
來也のマンションの部屋を全て思い出してみる。
……あの部屋……。
しばらく考えてから、急に私は來也の言葉を思い出した。
あれは……あの日だ。
八木麻里が幹事だった合コンに参加する準備をしているときに……。
姿の見えない來也を探しに、物置にしている部屋に入って……。
『……入ったのか?』
『……見たのか、この部屋』
『見たからには……何処にも行かせない』
『お前はここにずっと住むんだ、俺と』
あの時の來也は少し変だった。
けどすぐいつも通りに私をからかうものだから、きっと冗談だろうと思って気にしてなかった。
『……まあ、あの部屋に入ってよく見て、よく考えなさい、自分の立場を』
ドッペルゲンガーの言葉が、頭の中でグルグルと回る。
彼女の言う『あの部屋』とは、本当にあの部屋なんだろうか。だとしたら、あの部屋に何があるのか。
確かめなければならない。確かめなければ。
私は手早く帰り支度を始めるとオフィスを飛び出した。
******
急いで來也のマンションに帰った私は、靴を脱ぐとすぐにスーツケースを置かせて貰った物置部屋のドアを開けた。
パチンと電気をつけると中はあの時のままで、特別に変だと思うところなどなかった。
なんなの?この部屋に入ってよく見たら、何が分かるの?私は本棚を見つめた。本棚には相変わらず20冊ほどの本が収めてある。
……何の本?……ビジネス書だ。帝王学の分厚い本もある。
……え……?
漸くそこで、私は眉を寄せた。
気のせいではなかろうかと背表紙を凝視し、反射的に指でその文字をなぞる。
……なんで、同じ本が二冊ずつあるんだろう。思わず両手に一冊ずつ取ると、表紙を交互に見つめて比べる。
【上巻】【下巻】ではなかった。
私の両手の二冊の本は、まさに同じものであったのだ。
なんで?
その他の書籍も同様で、どの本も二冊ずつある。
私は本を戻すと部屋を見回した。
……もしかして……。
恐る恐る段ボールを見つめ、私は眼を見開いた。
ファックス、電話、オーブンレンジ、ノートパソコン、プリンター……。その他の物も、何もかもが、來也の愛用品と同じものだ。
ドッペルゲンガーの最後の言葉が、私の胸を撃ち抜いた。
『あなたはね、スペアよ』
……スペア……。
あまりの痛さに、私は胸に手を当てて前のめりにうずくまった。
『來也はね、愛する人を亡くして心に大きな傷があるの。だからスペアが必要なのよ。きっとあまりにも大きな傷のせいよ』
愛する人を亡くした話なんて、私は聞いたことがなかった。
その傷のせいで、日常的に使うものにはスペアが要るの?
寝室の冷蔵庫も、そのせい?
なら、來也の駐車場の隣の同じ車も、來也のものなの?
そして、私もスペアだったの?!
結婚してしまった愛する彼女の代わりに、私を見付けたの?
あの日、彼女が鍵を返しに来たあの夜、私を追いかけて来たのも想いが通じ合ったと思ったのも身体を重ねたのも、全部私を彼女のスペアとして傍に置いておく為だったの?
一度そう思うと、本当にそうだったのではないかと思えてならない。
あの温かい腕も甘い眼差しも、情熱的なキスも、全部彼女に向けられた叶わない愛なの?私というスペアで、彼女への想いを吐き出していたの?
だとしたら……なんてバカなんだろう、私は。カタカタと身体が震えだした。もう……ダメだ、私……。
グニャリと視界が歪んだ。
ボロボロと大粒の涙がいくつもいくつもこぼれて、私はたまらずに声を上げて泣いた。
その時、スマホが鳴った。來也だ。
声が聞きたいのに、聞きたくない。でも、この事について話さないと。
鼻水をすすり、画面をタップする。
『マヒル?悪い!ちょっと出張先でトラブルがあってさ、今日は帰れないんだ』
「……うん」
『ごめんな。明日、詳しく話すから』
返事をしようとしたその時、
『來也、早く!』
心臓にナイフを突き立てられたような痛みが走った。その声は紛れもなくあの彼女だ。なんで?!なんでよ、やっぱりそうなの!?
「じゃあな、マヒル」
…………。
惨めだ。惨めすぎる。何でこんなことになるのよ。どうして!?どうして私ばかり、辛い目に遭うの!?
再びスマホが鳴った。
『マヒル?来月の桂治の誕生日パーティーなんだけど』
「か、花音さん……」
『ん?!マヒル?!きゃあ、泣いてんの?!』
ワアワアと、我慢できずに私は泣いた。
「花音さん、私、もうダメ」
『やだ、マヒルちょっと待って、桂治ね、今日は早いの。迎えに行かすから!場所言いなさい!』
桂治とは、私の勤めるセネカ貿易株式会社の代表取締役社長である飯島桂治さんで、私の留学時代からの親友、花音さんの旦那様だ。
「うん、ごめんね、花音さん」
『話は家で聞くから!しばらく待ってなさい』
******
一時間後、社長が迎えに来てくれた。
私は荷物を全てスーツケースに詰めて、大通りまで歩いた。
「マヒル!」
社長は自ら運転してきた高級車を路肩に停車して、私に駆け寄ってきた。心配そうに私を覗き込む社長に、またしても涙が込み上げそうになる。
「社長……すみません、私……」
「大丈夫だ。お前には俺と花音がついてるから」
私は頷きながら涙を拭った。
*******
治人さんとの破局事件、來也とのこれまでの経緯を、私は二人に泣きながら話した。
「……有川さんとの事は、俺も責任感じてるんだ」
社長がうつむき加減でポツリと呟いた。
「社長のせいではありません。多分最初から私と治人さんとはあれ以上のご縁はなかったんだと思います。それに、」
私は一瞬だけ躊躇したが、花音さんと社長にスマホの画面を見せた。
緑川冴子さんの前で、私と來也がキスしているあの画像だ。
花音さんと社長は寄り添うようにしてスマホをみていだが、私がその事について語り出すと眉を寄せた。
「……結局……私は彼を好きになってしまって、彼のマンションに間借りさせていただいてたんです」
社長がスマホから顔を上げて小さく呟いた。
「これ……相澤ホールディングスの相澤來也じゃないのか?」
心臓に氷を当てられたようにヒヤリとした。
相澤ホールディングスの、相澤來也……?
相澤ホールディングスは、誰もが知っている企業グループだ。
「社長、彼って」
社長は、私を辛そうに見つめた。
「マヒル、これは紛れもなく相澤ホールディングスの跡取り息子だ」
カシャカシャと、胸の中で何かが壊れた。ああ、と思った。來也はいわゆる金持ちの……息子で。世間でいうところの御曹司で……だからあのドッペルゲンガーとは身分違いとか何かが原因で結ばれなくて、彼女は別の男性を選んだ。けれどお互いに、忘れられなくて……。だから、私はスペアで。
私はテーブルに視線を落としたまま、かすれた声で言った。
「知らなかった。彼がそんな日本を代表するような凄い企業の息子だったなんて。彼は友人と起業しているみたいで、一言も相澤ホールディングスの話なんて口に出さなかったもの」
「この写真、誰に撮られたの?」
花音さんの質問に、私は首を横に振った。
「分かんないの。けど、誰かが治人さんにこれを送って……」
社長は小さく息をついた。
「マヒル。しばらく此処にいていいから。けど、相澤來也の事は忘れろ」
私は弾かれたように社長を見上げた。花音さんが眉を寄せて社長を睨んむ。
「もう!桂治ったら!そんな言い方ないでしょ!?」
私は社長を見つめた。
「社長、やっぱりダメでしょうか。私と來也じゃ」
社長が苦しそうな顔で私を見つめた。
「マヒル。相澤ホールディングスはトップ企業だ。いずれ相澤來也はこの頂点に立つ事になるだろう。そうなればお前にとっては良いことばかりじゃない。盗撮される以上に嫌な思いをしたり、恐ろしい目に遭う可能性も否定できない。世界を相手にしながら、関連会社の将来を背負う男と一緒になることがどれだけの事か。俺はお前にそんな思いをさせたくないんだ」
社長の言う意味は痛いほど解る。治人さんの時と同じなのだ。私と來也では住む世界が違いすぎる。
「…………」
涙を流しながら押し黙る私を見て、花音さんが優しく声をかけてくれた。
「……とにかく、しばらくうちから会社に通いなさい」
「有り難うございます、社長。花音さん」
私は温かい二人に感謝しながらも、來也との恋の終わりを感じて苦しくて涙が止められなかった。
********
翌日私は、社食で柚希に全てを話した。柚希は泣いた。
「……酷い、酷いよ」
涙を拭う柚希に、私は呟くように言った。
「私ね、思ったの。……ドッペルゲンガーは彼女じゃなくて私だったんだって。そして私は彼女のスペアにすぎなかったんだ」
「私、相澤來也を許さない!マヒルをこんな目に遭わせるなんて……絶対に許さない」
「……ごめんね、こんなテンション下がる話しちゃって。柚希……心配してくれてありがとう」
柚希はブンブンと首を横に振った。
「私が勝手に心配してるの。マヒル、マヒルが元気になるなら、私、何でもするよ」
私は少し笑った。
「ありがとね」
あれから來也とは連絡を取っていない。
私は荷物全てを持って、何も言わずにマンションから出てきてしまった。
出張先から帰った來也は、荷物と共に消えた私をどう思うだろう。來也から連絡が来たら、話さなければならない。
私はその時を想像して、小さく息をついた。
*****
その時は定時と共にやって来た。
『焼き鳥、食いにいこう』
來也からのラインにうん、と一言返事を返した。
『俺、帰りにそのまま宮代行くから現地集合な!』
会社から宮代までは徒歩で10分もかからない。時計を見ると5時30分を指していた。
ああ、ついに来てしまう。出来れば泣きたくない。涙を見せたくない。……冷静に、冷静に。
私は深呼吸をするとゆっくりと立ち上がった。
****
私が宮代に着いて30分後、來也が到着した。
「マヒル」
店内を見回し、店長の篠山さんに軽く会釈をすると、來也は私を見つけてフワリと笑った。
「何杯目?」
斜めに私を見ながら、來也は椅子に鞄を置き、向かい側に座った。
私は少し笑った。
「二杯目。お帰り」
「ん」
店内は徐々に活気づき、賑やかになり始めていた。來也は私の手に大きな自分の手を置くと、キュッと握った。
「取引先のアクセサリーショップがさ、商品を間違えたんだ。その上ゲリラ豪雨で交通機関がストップして帰れなくなったんだ。急遽ビジネスホテルをさがしたら一部屋だけ空きがあって助かったよ」
「そう……」
ひとつだけの、空き部屋。
そこに……あの人と一緒に泊まったって事だよね。
仕方ないよね、私はスペアで、彼女は……。
私は來也を静かに見上げた。胸に鉛を流し込まれたように苦しい。
「……マヒル?」
「ん?」
來也が眉を寄せて私を見た。
「……なにかあったのか?」
心臓を掴み上げられたような苦痛に、私は思わず頬を歪めた。
「……來也、私、」
「出るぞ。帰ろう」
私は震える声で、立ち上がろうとした來也を止めた。
「……帰れない。もう、來也とは帰れないの」
たちまち來也の顔が強張り、彼はこちらを見据えて唇を引き結んだ。
「あの人と一晩中一緒だったんだよね?たったひとつだけ空いてたホテルの部屋で」
來也は苦しげに眉を寄せて私から目を背けた。
……何でなんにも言わないの。どうして私の眼を見ないの?!
來也の伏せられた視線が肯定を表していて、私はギュッと拳を握りしめた。
「來也の部屋には、どうして同じものが2ずつあるの?あの部屋の家電は今使ってるやつと同じものだよね?もしかして駐車場の隣の車も來也のもの?」
來也は私から顔を背けてなにも言わない。
「愛する人を亡くしたって、誰のこと。昔になにがあったの?」
私の問いに來也がギュッと眼を閉じた。
「マヒル……」
「相澤ホールディングスの息子なんでしょ?」
「待ってくれ、マヒル」
「それにあの人、私にそっくりだよね。全然私は気付いてなかったけど」
私は少し笑った。だって、笑えるんだもの。愛してるなんて言われて、私はまんまと信じていた。
「あの人とはとっくに終わったなんて、嘘なんでしょ?」
來也がゆっくりと首を横に振った。
「違うんだ、マヒル」
「私はただの代わりだったんだよね?それとも初めて出逢ったあの日の仕返しに、私の気持ちを弄んで楽しんでたとか?」
何かが憑依したように、恨みがましい言葉が口を突いた。
「治人さんとの破局で弱ってた私なんて簡単だったよね。あんたはすごくイケメンだし」
「聞いてくれ、マヒル」
「ホントにバカだよ、私は。……來也にしたらどの女も簡単でチョロいのにね。ちょっと金使ってやりゃ簡単なんだよね。大抵女ってのは見た目に惹かれるんだもんね」
初めて会った夜、バーでそう言って笑っていた來也。
「來也にとって私なんて、スペアでしかなかったんだよね」
來也が眉を寄せて私を見た。
「違う、俺にとってお前は」
私は來也の言葉を遮って、彼を睨み据えた。
「違わないよ!じゃあなんで同じものが二つも必要なの?!過去に何があったの?!どうしてご実家があんな大企業だって隠してたの?!」
「それは」
私はフフフと笑った。
「いいよ、もう何も聞きたくないから。來也の事なんてもう何も知りたくない。あなたは治人さんと一緒だよ。金持ちは訳がわからない。理解不能だよ。そして私とは住む世界が違うんだよ」
私は札をテーブルに置くと立ち上がった。
「さよなら、來也」
翔吾くんが心配そうな顔をしてこちらを見ていたけど、私はそのまま店を出た。外の空気はぬるくて、皮膚にまとわりつく感覚が不快だったけど、そのときの私にはそれも良かった。
ああ、夢のようだった。
いや、『ようだった』ではなく、來也との生活は本当にひとときの夢物語だったのだ。
もっと泣くかなと思っていたけど、想像より涙は少なかった。それは多分、あの部屋で泣き倒したから。そして心のどこかで、自分が來也とは釣り合わないとわかっていたから。
「さよなら、來也」
バイバイ。私の、特別なライオン。
私は大きく息を吐き出すと空を見上げた。
どこにも星は見えなかった。