Beautiful Rain Day
チャイムの音が教室に響く。聞き慣れたこの音を聞くと、1日の節目を迎えたことを実感できる。それと同時に毎日の徒労感も日々募っていくのだが気にしても仕方ないことだ。
教室にいたクラスメートのほとんどは三々五々と散っていく。残ったのは数人の生徒達。談笑する者もいれば机に向かいて勉強する者もいる。飽きもせずによくそのようなことができるものだ。俺は無感動にその光景を眺めて、それから窓の外に視線を向ける。自分の席は窓際なのだ。
空は曇天、雲行きはどっちつかずの五分五分といったところ。雨が降る前に帰宅するべきなのだろうが、生憎そのような気が起こる気配はない。昇降口から生徒が一同に出てきている。一部の部活の生徒はジャージに着替えて慌ただしく動いている。授業終わりの体のだるさは、瞼を少しずつ重くしていく。退屈な今日をまた乗り切ったのだ、それくらいの疲労が出ても仕方ないのだが、雨が降って体が冷えるのはさらに面倒である。憂鬱になりながら、無理矢理に体を起こし鞄を掴む。
教室のドアを開けて出る。音が出て、教室にいた数人が何事かと向けられた視線を背中越しに感じる。が、その原因が俺だったことに気付くと、すぐに興味を失ったように会話を続ける。ドアを元に戻し、また歩きだす。
誰もいない静かな廊下を1人の靴音だけが響いていた。
靴を履き替える為に、玄関先まできた。自分の出席番号の靴箱はを探し、しばらくして発見した。が、肝心の靴がなくなっていることにふと気付く。だが、慌てることは無い。このような出来事は過去にも何回かあった。俺はUターンして、ここから一番近くの教室へ向かう。ドアを開けると、そこには誰もおらず、ひっそりとした空間だけがあった。入り口付近にあるゴミ箱に手を突っ込むと、少し堅い、革の感触が手に伝わる。それを取り出してみると、それは確かに自分の靴だった。慣れていればどこに捨てられているのかなど簡単に分かる。くだらないことをする連中は隠す場所さえくだらない。玄関まで戻り、改めて靴に履き替える。校舎を出ると、眩しい光で思わず手で目を覆う。曇り空は白いため、晴れの日より余計に眩しい。しばらくして目が慣れるとまたすぐに歩きだす。校門をくぐったところで身につけていた腕時計に目をやる。現在4時半頃という半端な時間帯のせいもあり、街通りは少し控えめでひっそりとしている。通行人は自分だけで疎外感を感じつつも、毎日歩く見飽きた通学路に目を向ける。店の立ち並ぶ通りを改めてみると、アスファルトの地面には少々ひびが入っていた。普段注意して見なければ何も感じずに通りすぎていただろう。自分は偶然これを見つけてはいるが、明日ここに来た時にはもはやまた見つけられなくなるだろう。そのアスファルトのひびに、少し親近感を抱く。
ひたり
と、不意に冷たい何かが額に落ちる。目を数度瞬せ、額に手をやる。水、いや、雨が降ってきたのか。続けざまにまた数滴降りかかる。己の不運に空を見上げて睨みつける。俺の怒りは矛先を空に向けられたのだ。何故、思い通りに行かないのか。あと10分遅く降ってくれてもいいだろうに。小雨だった雨は、次第に強さを増していく。制服がみるみるうちにずぶ濡れになっていくのを感じた。頭が濡れ、前髪が鬱陶しくなり、水と共にかきあげる。俺は雨宿りのできる場所がないかと、周りを見渡した。
少し向こうに小屋根のついた店が見えた。屋根は薄汚れて古びた様子で、定休日か閉店しているのかは知らないがシャッターが降りていてもの淋しい雰囲気をかもし出している。そこに向かってノロノロと足を動かす。前からきた相合傘をした女2人が大声で騒いでいるのが聞こえる。雑音、あえてそう表現しよう。この上なく聞くに耐えない音だ。五月蝿い場所は嫌いだ。ノイズが次から次へと耳を痛くしてくる。その傘は折りたたみ傘のような構造をしており、柄はリボンでびっしり埋め尽くされたデザインをしていた。傘に入っている二人組は若く、10代後半といったところだ。化粧を施してあり、濃いアイラインが目立った。いかにも毎日を謳歌しているような今時の若者。
おそらく、彼女達とはもう会うことはないだろう。例え会ったとしても、お互いに誰なのかもはや覚えていないはずだ。彼女達が自分という存在に気付いていたかすら疑わしいと言うのに尚更である。どちらも覚えていないのなら、初対面であるのと何も変わらない。そうやって俺は、何人と同じ事を繰り返してきたのだろうか。
同じ事の繰り返しーーーいつ聞いても気に入らない響きだ。中学に上がった頃から、日を重ねるごとに嫌いなものは増えていった。環境の変化が自分を変えていったのだと思うが、本当のところ自分自身でも上手く説明できない。周囲の俺に対する目は冷たかったことは覚えている。今でもそうだからだ。自嘲気味に口元を歪めて笑う。まったくもってこの世というものは生きにくい。
その屋根の下にダンボール箱が見える。中には布のようなものが入っていて、時折小刻みに震える。捨て猫か捨て犬か、どうせその類いだろう。歩幅を緩めることなく、その屋根の下に入る。
既に制服はすっかり濡れており、水滴がとめどなく滴り落ちる。雨音と滴る音が混ざり合い、ちょっとした音楽にも聞こえる。こういう音は嫌いでない。人の作り出した自己主張の激しい雑音とは違う、ただ静かに心安らぐ和音。あるべき姿そのものを表わしている気がするのだ。目を閉じて、そのささやかな音楽会に耳を傾ける。屋根に当たる雨の音、降ってくる本来の雨の音、自分の袖から滴る雨の音、なんて美しいのだろうか。1つの天候が作り出す自然の音楽。この雨も少しは粋な計らいをしてくれるものだ。そして、横からダンボールを引っ掻く不快な音が乱入してくる。せっかく雨の余韻に浸っていたというのに、これでは興ざめもいいところだ。
再び目を開けて、そのダンボール箱を睨む。その近くに寄ってみると、小さな子ネコがダンボールを爪で引っ掻いて出ようとしていた。その子猫はとても小さかった。十数センチメートルと言った大きさ、手のひらの上で支えられるほどだ。まだ生まれて間もないのだろう。耳は立っておらず、前に向けて折れ曲がっている。丸みを帯びた顔と体、小さいくせに目だけは大きかった。普通の人間であれば、この様な生き物を見た時に、愛らしいと思うのだろう。それが大切な感情だということは分かる。しかし、その感情を知らない人間だっているのだ。もしくは忘れてしまった者か。屋根から流れ落ちる雨の飛沫で、子ネコが入っているダンボールに水が降り注いでおり、そのせいで子ネコの体はぐしょ濡れだった。手を差しのべてやらなければ、この子ネコは死ぬとまではいかなくとも危険な状態にさらされることだろう。この子ネコの運命が自分にかかっているという状況が、とても居心地が悪かった。黙りこくったまま、子ネコごとダンボール箱を屋根の奥にずらす。
子ネコは体を小刻みに震わせ首をかしげる。寒さで弱っているのか、元気でない。体を拭いてやらねばならないのか。制服の上着を脱ぎ捨てる。下から着ていたワイシャツ姿になり、ところどころ水が染み込んでいたものの濡れてない部分があったのでタオル代わりにそれを使うことにした。俺は子ネコ軽々と持ち上げる。そいつの体はまるで凍てつく氷に手を当てたように冷たかった。この冷たさは決して温度だけの問題ではないのだろう。そっと、慎重に袖で拭いてやる。服の生地が水を吸っていくのを感じる。その部分が十分水を吸ったと判断すれば、また違う箇所を当て、子ネコを拭いてやる。
次々と乾いている面積は小さくなっていき、半分水で濡れたところでハッとする。何故この生き物の為に労力をかけているのか。何のメリットもないくせに、夢中になってしまっていた。今助けたところで、その後の面倒を見れる訳でもなく、ただのその場しのぎの善意など、ただの偽善だ。そんなものは、悪意より余程タチが悪いと考えていたのは俺ではないか。俺の家ではこれを飼うことなど許されないだろう。子ネコを、自分は助けるべきでなかった。それが自分の美学であったはずではないか。拭きかけだった手をとめる。数秒間その子ネコを見つめ直す。ネコの体は、すっかり拭かれ、ほのかに温かい感触が手のひらに伝わる。何も出来ない俺が、こんなことをするべきではなかった。ダンボール等が戻そうとする。が、手が動かない。この子ネコに情でも芽生えたのか。そうしようとする意思を何かが邪魔をするのだ。
だから、こんなモノは嫌いなのだ。
関わってはならないと分かっておりながら、
どうしてなかなか、
人の心をこんなにも揺り動かすのか……
俺は子ネコを持ったまま項垂れる。
「ねえ、あなたは何をやっているの?」
そんな声が突如としてかかる。顔を上げると自分と同じ高校の制服を着た女子がいた。見覚えはない。濡れた長い黒髪がさしずめ俺と同じく傘を持ってなく、ここで雨宿りをしようという考えを容易に連想させる。だがそれも違ったようで、彼女の手にはビニール傘が握られていることに気付く。女は俺の手にのっていた子ネコに気付き、覗き込む。
「へえ、スコティッシュフォールドってやつかな。なー、ニャン吾郎?」
ニャン吾郎、このネコに付けた名前か。まだ性別も分からないのに何故ニャン吾郎という名前を付けるのか全くの謎である。だが種類を答えたところからみてネコ自体には詳しいのだろう。ネコは急に現れた女にびっくりして離れようとして手から落ちかける。慌てて左手を添えて落ちないようにする。
「ふーん、状況から見てこのネコは捨て猫かな?自分で飼ってたくせに勝手に捨てるなんて、人ってどんだけ自己中心的なんだろうね」
同感だ。飼うことには責任がついてまわる。その対価を途中で放り出すことを心から軽蔑するだろう。卑怯で、傲慢で、冷酷で、無常で、だからーーー
「で、君はどうするの?そのネコのこと」
その女はまっすぐ目をみてくる。
「……俺の家はマンションで拾うことができん。面倒を見ることもできんと言うのに、コイツに関わってしまった自分が情けない」
だから、自分が気に入らないのだ。自分のしている事が、全く筋の通っていない幼稚な感情そのものであり、エゴイズムでしかないことを誰よりも理解している俺は、自分が、一番気に入らない。
「別にいいんじゃないかな?」
ふと、正面から言葉を投げかけられる。
「君はネコを拾うことはできなかったけれど、確かに救ったんだ」
「意味が分からんことを言うな。話が矛盾している」
「君はネコの体を拭いてあげた。それは絶対にネコにとって助けに違いないんだよ。ほら、そのおかげでここまでネコが元気になったんだ。君がネコを引き取ることにこだわっているようだけれど、私は君の行動が、ネコを救ったんだと思う」
その言葉は、不思議と胸の奥底にまで届いた。乾いた地面に一粒の雨が降り落ちたかのごとく。その一粒は少しだけ、しかし確かに心を潤した。黙りこくっていると、女は微笑み、また子ネコに視線を戻す。
「私がこの子を飼う。私の家は犬も二匹飼ってるし、一匹増えたところであんまり変わんないからね」
引き取ってくれるというなら文句はない。だが、先程より元気を取り戻した子ネコはこの女が苦手らしい。手を近づけられると俺の腕を伝って頭にひょいと登り、居座ってしまう。生まれて間もないというのになんという俊敏さか、抵抗する間がなかった。ネコの肉球が頭にあたり、不覚にも少し心地よいと感じる。
「こら、早く離れろ」
俺は少し苛立って無理に剥がそうとする。しかし、子ネコも負けじと離そうとしない。
「ニャン吾郎、すっかり君に懐いちゃったみたいだね」
女は吹き出したように笑う。その名前に決定したのか。もっとマシな名前を考えてもよかっただろうに。
「しょうがないネコだなぁ。ねえ君、悪いけど家までそのネコと一緒に来てくれない?」
女は苦笑して言った。頭を動かさず、目だけを動かして子ネコをみる。居心地が良さそうにゴロゴロと喉を鳴らして、眠りにつこうとしている最中だった。雨が上がればすぐにでも帰宅したいと言うのに、なんとも迷惑な話だ。口を動かさずに、首を縦に振って了承する。返事に相手も頷き返し、傘を広げる。傘に付いていた水滴が勢いよく地面に飛び散り、そのまま傘を差し出してくきた。
「入りなよ。ニャン吾郎と君が風邪引いちゃうから」
断る理由もないので入らせてもらう。女性用で傘は小さく、肩がはみ出てしまっているが、このさいそこまで大きな問題ではない。子ネコことニャン吾郎は、すっかり熟睡してピクリとも動こうとしない。傘に入ったのを見届けると、女はゆっくり屋根から出る。その歩幅に合わせて俺も進む。傘に雨が降りかかり、新たな雨音が生まれる。いや、それだけでは無い。一歩踏み出す毎に水が跳ねる音もしてくるのに気付く。静かな音楽に軽快な音色が重なり、新しい曲がまた生まれたのだ。
「そう言えば……」
隣で女がぽつりとつぶやく。
「お互い名乗ってなかったね。君の名前はなんて言うの?」
その問いかけがとても新鮮なように感じた。最後に誰かに名を聞かれたのはいつことだっただろうか。忘れてしまったその懐かしい記憶の中、自分はどんな顔をして答えていたのだろうか。思い出せない自分は、今どうすればいいのか。寝ている子ネコは、これからどこに連れて行かれるかなど知る由もないだろう。起きたときに自分がいなければ、また追いかけっこが始まるのかと思うと、どうにも気苦労が絶えないものである。
気苦労、気に入らない言葉だったはずの言葉に、ニヤリと笑う。雨は心無しか、少し強くなっている気がした。そして、渋々口を開くーーー
Beautiful Rain Day
美しい雨音と盛大な二つの不協和音が印象的なとある日の出来事だった。