大事な話
肩で息しながら、乱れた髪を手で直し、傘を差していたのに少し濡れてしまったワンピースの裾をハンカチで叩くように押さえる。
(場にそぐわない私…――――)
そう思いながらも、クラシックの音楽が優雅に店内に流れているレストランの扉を私はそっと開けた。
「いらっしゃいませ」
きっともうすぐ閉店時間になるだろうに、礼儀正しく出迎えてくれた店員に連れられ、私は努の席へと向かった。
「お客様、お連れ様がお越しです」
店員がそう言うと、努はそっとこちらを向いて…目を見開いた。
「…―――来ないと思ってた」
彼に似合わない、弱々しい言葉。
それが私の心をギュッと苦しくさせる。
「…ごめんなさい」
「ゆりが謝ることじゃないだろ?―――来てくれて、嬉しいよ」
(――――笑うと目尻が優しく下がるのが、好きだった。)
――――努の笑顔を久しぶりに見た気がした。
「食事、頼んでもいいかな?ゆりは?」
「私は…飲み物だけで…ーーー」
(ずっと、水だけで待ってたんだよね…ーーー)
そんな努に、心が痛む。
努は食べ物と、私に飲み物をオーダーしてくれた。
料理が来るまでの待ち時間、私は話を切り出す。
「それで…大事な話って?」
「それは、食べながらでもいいかな?」
努はすぐに話そうとしなかった。
私は努が大事な話をする前に、言っておこうと思った。
「―――…私、彼がいるの」
泉と付き合っているということ。
それは、努のことはもう好きではないという遠回しな表現。
でも、努は肩をすくめて微笑みながら、言った。
「知ってるよ。学生なんだろ?」
(え…ーーーなんで知ってるの…)
「ゆり…。俺と付き合う前の君は、ひどく恋愛に臆病だったのに」
驚いている私を見つめて、努は真剣な眼差しで話し出した。
「どうして…?」
「努には、関係ないよ…ーーー」
「俺は心配してるんだ、君がまた傷ついてしまうんじゃないかって」
努のその言葉に、私は言い返そうと俯いていた顔を上げる。
「それは「分かってるよ、“俺には言われたくない”って、言いたいんだろ?」」
「―――…」
(そうだよ…っ)
「もし、俺のせいで自棄になっているのなら、止めてくれ」
「違う、私は泉が好きなの…」
「結婚してほしい」
「―――…私の話、聞いてる?」
「聞いてるよ、だからこうして今プロポーズしてる」
そう言う努の瞳は真剣で、私を真っ直ぐに見つめている。
「君を諦められない…」
(結婚って…ーーー私は努と別れたんだよ?私をフッたのは努だったじゃないっ)
一方的な告白に、私は彼に怒りを感じていた。
それなのに…――――、
それをぶつけることができずテーブルの下でギュッと拳を固く握り締めることしか出来ないでいた。
「結婚して…一緒にアメリカに付いてきて欲しいんだ」
「アメリカ、に?」
「うん。海外赴任が決まった。二ヶ月後、アメリカに。」
「――――…」
(努が、アメリカに…?)
「ゆり?」
“結婚”の話より、“アメリカに海外赴任が決まった”話の方が、私はショックだった。
茫然としている私に、努は苦笑して、私の頭をそっと撫でた。
「返事は来月までに頼む」
彼の申し出を、私はすぐに断ろうと頭を下げた。
「お断りしま「今は、聴かない」」
努が、強引に私の言葉を聴こえなくする。
「良い返事、待ってるから」
ニコッと微笑んで、この話はおしまいだと言わんばかりに、努は運ばれてきた料理に手をつけるのだった。
(返事は決まってるのに…ーーー今も、来月も。)
私は貴方と結婚なんてするつもりもない、アメリカに行くつもりもない。
(――――…じゃあなんでこんな気持ちになるの?)
目の前に置かれたワイングラスを、じっと見つめながら私は自分の気持ちに困惑していた。
(私が今、好きなのは…ーーー泉のはずでしょう?)




