残業
「夏海さん、これも明日まで処理をお願いね」
バサッと、江崎さんが笑顔で書類の束を置いた。
「はい」
私はパソコンと睨みっこしながらそれを受け取った。
「わー、書類の山じゃん…なんか手伝おうか?」
定時間近に渡された書類に、陽子が横から声をかけてくれる。
「ううん、大丈夫。」
(残業してた方が、気も紛れるし…ーーーー)
陽子の有り難い気遣いを私は笑顔で断った。
私の彼氏、吹成泉は、やはり昨日帰っていった。
机の上に「待っています」の書き置きと、地元行きの新幹線チケットを置いて―――…。
(会いに行くから、今週末…ーーーー)
だから泉の居ない寂しい部屋に帰っても、電話したらいつも出てくれる泉の声と、あと何日と指折り数える幸せで、なんとかやっていた。
夜の9時を過ぎた頃には、広いフロアーに私一人になっていた。
(ちょっと…怖い…ーーーー)
カタカタとパソコンのキーボードに触れる音がフロアーに虚しく響く。
「あれ?ゆり…ーーー」
突然声がして、私は驚いて反射的に声のした方を向く。
そこには…――――元彼の新城努が立っていた。
「こんな時間まで残業か?珍しいな…」
このフロアーの二階上に、努の所属部署である営業部がある。なのになぜ彼はここにいるんだろう…ーーー。
「ゆり、大丈夫か?」
青ざめていた私に、彼が優しく声を掛ける。
(やめて…ーーー優しくしないでよーーーー…)
付き合っていたときの、優しい努のことを思い出すのが怖くて、私は黙ってうつ向く。
「なぁ…ーー噂ってマジなの?」
いつの間にか私の目の前に立っていた彼が、
私の好きなメーカーの微糖の缶コーヒーをコトリと置きながら言う。
「噂…」
(それは…泉のこと、だよね…ーーー)
私は、黙って頷いた。
(なんで罪悪感を感じるんだろう、私は何も悪いことしてないのに…ーーー。)
「そ、か…」
努はボソッと言うと、私のデスクから離れていこうと背を向けた。
「あ、努…」
私は、努が置いた缶コーヒーを手に取り、振り向いた努に言った。
「ありがとう、これ」
「おう」
努は少しだけ微笑んで、行ってしまった。
(なんだろう…ーーー嬉しい…ーーーー)
缶コーヒーは冷たかったのに、何だか胸が熱くなった。




