鹿威しの音がする
カ、コン――
「しばらく換気もしてなかったもんでねぇ――どうぞ」
引き戸を開けたとたん、パラパラと降り注ぐ土埃を避けながら、家の管理者である男は面倒くさそうに振り返り、中へと促した。
同行者はパンツスーツに身を包んだ女だ。まだ若い。「西岡安里」と名前の書かれた社員証を首から下げていた。素っ気なく一つに束ねた長い茶髪を頭の高い位置で結んでいるほかは、特別目立つところはない。やや丸いたれ目はどこかぼうっとした印象を与えるくらいで。
乾いた土間に足を踏み入れた彼女は、一瞬、震えるほどの冷気を感じて身をすくめた。まだ十月だというのに、だ。
日の当たらない場所だからだろうか。
「土間が北にあるって、珍しいですね」
「はぁ、そういうもんですか」
男はぴんとこない様子で首を捻る。
「炊事場がジメジメしたところにあると食料が腐ってしまうので、普通は北側には作らないんですよ」
「はーなるほどねぇ」
やる気のなかった男の表情がわずかに上向く。
女の営業というだけで舐められることはよくある。田舎にいけばいくほど、その風潮は顕著だ。
この辺りは家が全くないというほどの田舎ではないが、都会とも言いづらい場所であった。ただ、都市部とのほど良い距離間から、家を建てるのにはそこそこ狙い目な地域だったりもする。問題は、古くから住んでいる人が多く、つきあいのない人や業者に対して空き家や土地をなかなか売ってくれないことだろうか。
「すぐ裏が山だしねぇ。日も余計に当たらんでしょうな」
「このお家、築年数はわかりますか?」
「さあねぇ、百年くらいじゃないです?」
あまりに大ざっぱな数字だったので、安里はメモをとる気にもならなかった。
管理者と言いつつ、男はほとんど何も知らなかった。もともと親戚が誰かから買い取ったものだったようで、住んでいた元の持ち主のことは一切わからないという。
ただ、敷地面積からすると相当のお屋敷である。元の住人はこの辺の有力者だったことは間違いない。
「昔は使用人とかたくさん住んでたらしいとかそんな噂は聞いたけど、昔ってのがいつかはわかりませんよ」
男はこれ以上何も聞くなとばかりにお手上げポーズ。
「中も見ます? ただ、畳が相当古くて朽ちてるんで、歩くと危ないです。たぶん入らないほうがいい。本当にこんな家、買いたい人がいるんですか?」
部屋への上がり口のふすまを開けると、だだっぴろい大広間がずっと奥の方まで続いているのが見える。畳はところどころ穴が空いているものの、むき出しの梁など木材部分は大丈夫そうだ、と安里は判断した。
「ものすごく広い平屋の、武家屋敷みたいなところに住みたいとご希望のお客様がいらっしゃるんです。ここならぴったりですよ。もちろん、相当工事の必要はあるでしょうけど」
そういうリノベーションは、「アトリエ・エクラ」の最も得意とするところだ。地域の小さな工務店にしては随分と洒落たこの社名は、フランス好きな社長の趣味でつけられた。そのくせ、手がける物件は日本家屋が多いというこのチグハグ感はなんとかならないのかと安里はいつも思う。
安里という名前がフランス人っぽいというだけで社長に気に入られて入社できた身としては、大きな声で文句を言える立場ではなかったが。
「では、実際にお客様にも見ていただきたいので、日にちはまた相談してご連絡しますので――ところで、」
カ、コン――
まただ。耳朶をふるわせる、凛とした音。
屋敷に足を踏み入れたときから、安里は気になっていたのだ。
「この音、鹿威しですよね? お庭にあるんですか?」
「え? ――あ、ああ、確かあったように思いますが、音なんてしてますかねぇ? おかしいな、水は止まってるはずなんだけどなぁ」
男はしきりに首を傾げている。
安里は一瞬顔をひきつらせたが、聞き間違いだろうと自分に言い聞かせるように何度も頷いて、頭の奥に響く音をどこかへ追いやろうとした。
その晩、残業後の飲み会に参加してから、一人暮らしの安アパートに帰ってきた安里は、スーツもそのままにベッドに倒れ込み、つい良い気分で目を閉じてしまう。
どれくらいの時間、眠っていたのか、次に目を開けた時、部屋の中は真っ暗だった。
電気をつけたはずだけどなぁ、とぼんやりした頭の隅で考える。
とりあえず起きてメイクくらいは落として寝ないと、と寝返りを打った、その先に、顔があった。
「っ」
喉の奥を締め付けられる感覚に、まともな悲鳴も出ない。
顔――生首かと思ったそれは、よく見ればベッドの脇にしゃがみ込む形で安里の顔をのぞき込んでいるのだった。
しかも、男だ。長い前髪がわずかにかかる切れ長の目に、鼻筋の通った、若く美しい男だった。
それはともかく、おかしいのは、暗闇の中でもはっきりと男の美形っぷりがわかることである。彼自身がわずかに光り輝いているがゆえに。
安里が何も言えないでいると、男は勝手に手を伸ばしてきて頬に触れようとする。怖くて思わず目を閉じた安里の頭のなかに、不意に、あの音が響いた。
カ、コン――
「あ、れ……?」
息苦しさが消え、唐突に声が出た。目を開けると、あの美しい男の姿はもうない。
部屋の電気はついていたし、カーテンの隙間からは、白み始めた空が見えていた。
安里は起きあがって、呆然としたまま洗面所へ向かう。頭が痛い。とりあえず顔を洗おうと思った。鏡に写った自分の顔がひどく青白いのは、きっと二日酔いのせいだけではない。
掌で、頬に触れてみる。
思い返してみても、夢にしては妙にリアルだった。そのくせ現実味に欠ける。安里に男を連れ込むようなスキルがあるのなら、金曜の夜に女子会と称して居酒屋に行ったりはしないだろう。
「困ったなぁ……」
なにに困っているのか、自分自身よくわからない。だけど、こういう時にどこに行けばいいのかは知っている。
時刻はまだ早朝と言える時間帯だったが、私服に着替えた安里は足早に家を出た。
幸いにも、歩いていける場所にそれはある。
寺である。
「あのねぇ、うちは駆け込み寺じゃないのよ」
安里の駆け込み先は、近所にあるそこそこ大きな寺だった。以前、手がけた工事関係者が次々と謎の死を遂げるという曰く付きの物件を扱う羽目になったとき、大学の先輩つながりで紹介してもらったのがこの寺の僧侶である。事件が解決した後に、実はこの僧侶が、安里の高校時代の先輩だったことが発覚したときの衝撃は今でも忘れられない。
そういう知らない間柄ではないというのに、境内の掃除をしているところをひっつかまえて泣きつき、客間へ通してもらえたものの、僧侶は話を聞き終わるなりこの言いぐさである。
「でも、寺じゃないですか……歩いてきたし……」
ぼそぼそと抗議する安里は、すでに逃げ腰だ。
「アンタのところ檀家じゃないし」
「そ、そんな冷たいこと言わないでください……だってもうほんと怖かったんですよ」
「あらぁ、いいじゃないの。イケメンだったんでしょお?」
「よくないですよお」
つい、口調が移ってしまう。
安里の目の前にいるのは、僧侶である。僧侶のはずだ。頭をきれいに剃髪し、袈裟を身につけた正真正銘の。
ただ、この僧侶、正真正銘のオカマでもある。
「彼氏ほしさの妄想じゃないの?」
「違いますって!」
安里はここに来たことを徐々に後悔しはじめていた。昔から意地悪な人という印象はあったが、オネエ口調ではさらに磨きがかかった気がする。情けない気分でお茶をすすっていると、
カ、コン――
また、あの音。びくり、と過剰に肩を震わせた安里に、僧侶が怪訝な目を向けてくる。
「なあに? どうしたの?」
「あ、いえ、鹿威しの音が、聞こえた気がして」
「ええ、庭にあるわよ。聞こえたらまずいことでもあるの?」
「えっと、」
説明しようとすると、昨日の昼間に仕事で屋敷を訪れた話からしなければいけなかった。それでも、話を聞くのが上手い僧侶は、辛抱強く安里のたどたどしい話に耳を傾けてくれる。
「ふうん。アンタってほんと、そういうのに好かれるタチねぇ」
聞き終わった僧侶は同情するわけでもなく、しみじみと呟いた。そんなことはない、と安里は言いたいのだが、実際はそんなことがあるから、困るのだ。
「嬉しくないです……」
「まぁいいわよ。どうせ外に出る用事があるから、部屋くらいなら見てあげるわよ」
「え、あ、ありがとうございます!」
なんだかんだと頼られると断れない性分は、彼がオカマでありながら僧侶もやる羽目になっている所以でもあるかもしれない。彼の名は、安藤至という。
頼もしい助っ人を連れて部屋に戻った安里は、それでも及び腰で扉を開ける。隣の僧侶はというと、顔をしかめて、
「ひどいわね……」
「や、やっぱり何かいるんですか……?」
「部屋が汚すぎ。こんなとこに夜這いかけようと思う男なんて幽霊くらいなもんだわ」
本当のことすぎて安里には反論の言葉も浮かばない。部屋の床には物が散乱し、台所にはカップラーメンがつみ上がり、あちこちに服が引っかかり、物がないのはベッドの上くらいである。
改めて自分の部屋の惨状を目の当たりにして、安里は今すぐ逃げ出したくなった。
「大体、人を入れるんだったら下着くらい仕舞いなさいよねー。同性だからいいって思ってんでしょうけど」
カーテンレールにかかった洗濯物をチラ見した僧侶の言葉に、安里は慌ててブラジャーを取り外して洋服ダンスの中に放り込む。引き出しの中も例に漏れずぐちゃぐちゃだったが、今さら気にしてはいられない。
「なあに、ちょっとは意識してんの?」
振り返って、ちょっと顎をあげて見下すように視線を流す至の仕草は、坊主だというのに、そこらの女よりよっぽど色気がある。男だった頃を知っている安里にしてみれば複雑な心境だ。
「して、ないですけど……」
「そういえばアタシ、言ったっけ? 女もイケるって」
「へ?」
至はまっすぐに近づいてきたかと思うと、安里の手をとり、床に投げてある書類を踏みつぶしながら引っ張ってベッドまで連れていく。
押し倒される段になっても、安里には冗談だとしか思えない。
そういえば、この僧侶、高校時代はバスケ部のキャプテンだった、ということをぼんやりと思い出して、のしかかる大きな体に、妙に納得をしたりして、
「ま、こんなところかしらね」
それ以上の思考を安里が放棄している間に、僧侶はあっさりと身を引いた。
「へ?」
「なんかいるような気はするんだけど、残り香みたいに気配があるだけでよくわかんないわ。アンタにほかに男でもいればあきらめるんじゃないかと思って」
「へ、へぇ……」
演技だったのだ、と納得しても、今さらのようにドキドキしはじめた心臓は急には収まってくれない。
「本気にした?」
イタズラっぽく唇をゆがめて聞いてくる僧侶に、
「……びっくり、しました」
一拍遅れて、安里は返す。
「アンタ見るからにそういうの鈍そうよねぇ。アタシはいいけどね、簡単に男を家に入れるんじゃないわよ!」
ドスの利いた低い声で一喝されると、安里は首をすくめて「はい」と小さく答えた。
寺に駆け込んでしばらくは、部屋に幽霊が現れることもなく、安里は平穏な日々をすごしていた。
いつものように外回りの途中、会社から営業用に持たされている携帯電話が鳴った。あの古くて広い武家屋敷のような家を希望している客からである。
「えっダメ、ですか……?」
外だというのに思わず声を大きくしてしまった安里は慌ててトーンを落とす。
「とてもいいお家ですよ。確かに古いですけど、きちんとうちで工事させていただきますし、あれほど広くて、交通の便もよくて、あの値段はなかなか……」
でも、と電話の向こうの声は沈んだままだ。
「一度見に行かれてからでも遅くはないと思います」
安里は少しでも望みがつながるよう、食い下がってみる。電話の向こう側の声は、「実は」と話始めた。
『昨日、近くに用があったんで行ってみたんですよ。外から見ただけですけど、雰囲気はすごくいいなぁって思いました。でも、庭がなんとなく嫌な感じがしたんですよね。で、まぁ、噂ですけど、あそこって昔住んでたお嬢さんが庭師と駆け落ちして、でも結局見つかって連れ戻されて、庭師はそこの主人が殺しちゃったらしいじゃないですか……』
噂ですけどね、と客は念押ししつつも、不気味がっている様子は伝わってきた。
意気消沈して電話を切った安里は、携帯電話を握りしめたまま、大きくため息をつく。
そんな噂話、いったいどこで聞いてきたのだろう。家の管理をしている男でさえ、こんな情報は持っていなかった。あるいは、知っていて黙っていたか、だ。悪い評判は家の価値を下げることになる。
しかし、安里は庭に特に嫌な感じは受けなかった。足を踏み入れてみたわけではないので定かではないが。一つだけ気にかかることがあるとすれば、鹿威しの音。
会社に電話を入れ、帰社予定時間の変更を伝えると、安里は大きくハンドルを切る。Uターンして、あの屋敷のある方角へと車を走らせた。
「いいお家なのに、なぁ」
数十分で到着した屋敷の前に車を停め、改めて立派な門構えを見上げれば、しみじみと本音が漏れた。これほどあの客にぴったりの物件はなかなかないだろう。また一から物件探しかと思うと、安里の気分は重い。
「あ、電話、しないと」
管理者の男にも、ダメになった旨を伝えなければいけない。車を停めたついでなので、その場で電話することにした。
客から聞いた話をそのまま伝えると、急にしどろもどろになった男の様子からすると、やはり噂話のことは承知していたようだ。観念して男が語ったところによるとこうだった。
『あそこはねえ、庭師との駆け落ちに失敗した後、お嬢さんが政略結婚で嫁にいってからが悲惨でね。奥さんも主人もあまりいい死に方しなかったんですよ。結局それもお嬢さんと添い遂げられなかった庭師の怨念なんじゃないか、とか嫌な噂もありましたよ。でもしょせんは噂ですからねぇ]
だからわざわざ言わなかったのだと男は言い訳する。そして、思い出したように話を変えた。
『あ、そうだ。ついさっっき、西岡さんの知り合いだっていう変なお坊さんが来ましたよ。家の庭のししお――』
変なお坊さんと聞いて安里の頭に思い浮かぶのはあのオカマの僧侶しかいない。
何事だろうかと安里が身構えた瞬間、突然、男の言葉が聞き取れなくなった。
カ、コン――
代わりに、鹿威しの音がする。
ほとんど同時に、携帯電話を押し当てたのとは反対側の耳元で、ささやくような声がした。ひやりとした吐息とともに。
『見つけた』
反射的に振り向くと、すぐそばにあの、美しい男の顔があって、
「あ、……う、わぁあああ……!!」
声が出る。身体も動いた。安里は走って逃げ出した。駆け込んだ先は目の前の日本屋敷の敷地の中。ただ、家には鍵がかかっているので入ることができない。
足は自然と、屋敷の西側に広がる庭へと向かう。
カ、コン――
鹿威しの音がする庭へ、導かれるように。
カ、コン――
一度だけ振り返ってみたが、男の姿はどこにも見えない。想像以上に広い庭園の奥へと安里の足は進む。いつまたあの男の声が聞こえるかと思うと、気が気ではなかった。
好き放題に伸びた木々に行く手を阻まれ、ようやく足を止める、と、すぐ脇であの音がする。
カ、コン――
ゆっくりと音のするほうへと首を向けると――鹿威しだ。
手入れなどされていないはずなのに、石を打つ竹の周辺だけは雑草も生えず、綺麗なままであった。
奇妙なのはそれだけではない。
「水は止まってるはずだ」と言った男の言葉どおり、石の水盆は枯れていた。当然、竹に注がれるはずの水もない。
それなのに、目の前の竹はまるで水が溜まったかのように、重たげにゆっくりと先端を傾け、カッと一気に落ちたかと思うと、すぐに跳ね上がり、コンっと小気味良い音をさせた。
「どう、して………?」
安里の頭のなかを疑問符ばかりが駆け巡る。水もないのに、どうして動いているのか。
得体の知れないものは、怖い。だから触って確かめたくなる。安里はおそるおそる手を延ばし、傾きかけた竹を掴んで止めた。
音もしなくなる。なにも入っていない竹は当然軽く、手を離してももう勝手に傾くことはなかった。止まったのだ。
安里がホッとしたのも束の間、
『ああ、やっと中に入れる。
あの子はどこだろう』
あの声だ。
少しずつ大きく、近づいてくる。
「なんで? 鹿威しの音は止まったのに!」
「バカ! なに止めてんのよ!」
低くハリのある声が飛んできて、安里はまたびっくりする。見覚えのある、というよりも見間違えようのない見知った僧侶がこちらへ走ってくる。
「先輩!?」
「早くこれ、竹に注いで。それ動かして」
手渡されたのはたっぷり水の入った二リットルのペットボトルである。それ、と示されたのは鹿威しだった。
「ったく、重いったらありゃしない。ここまで来るのに時間かかっちゃったじゃない」
言われるまま安里はペットボトルの口を開けて水を注いでいく。一杯になった竹は重さで再び下へと落ちて、音を響かせる。
カ、コン――
『ああああ、またあの音がする!!』
「ひっ」
声にびっくりして手を止めそうになった安里にすかさず、
「止めないで! その鹿威しが結界みたいなもんだから」
ピシャリと声が飛んでくる。
「え、え?」
「アンタ聞かなかったの? この家の話」
「お嬢さんと庭師の駆け落ちの話ですか?」
その話ならばついさっき、客と管理者の男から聞いたばかりだ。
「違うわよ。もっと昔の話。この家、裏の山を削って建てられてるの。その時に主人が約束したらしいのよ。山を使う代わりに、お供え物をしますって。だから供物を運びやすいように、土間が山に近い北の場所にあるんでしょうね」
安里には初耳の話だ。
「そんな話、誰が?」
カ、コン――
「ここ管理してる男」
あの男は、安里にはそんな話教えてくれなかった。
「え、もしかして先輩、その話を聞くためにわざわざ……?」
じろり、と高い位置から切れ長の目が一瞬安里をにらみ付けたが、問いについてはスルーされた。
「あ、あの、約束っていうのは誰と?」
安里は質問を変える。まだ、今の話と今の状況はつながらない。
「決まってんでしょ。山の神様よ」
僧侶が当然とばかりに言ってのけるので安里も一瞬納得しかけるも、普通で考えると決まってはいない話だ。ただ、昔話だと思えばあり得なくもなかった。
「ただ、そのうち家の財政が苦しくなるとお供え物をできなくなって、山から神様がおりて来てね、代わりに娘を連れて行こうとしたらしいのよ。当然主人は大反対。なんとか神様を追い返す方法はないかって庭師に作らせたのが、この鹿威しってわけ。今度はその庭師に娘を掻っ攫われたってのが笑える話だけど、んなことはどーでもいいのよ」
安里はまだ混乱していた。徐々に軽くなっていくペットボトルの水の行方を見守りながら、考える。
カ、コン――
山の神様を追い返すのが、この鹿威しの役目。この鹿威しを止めてはいけない。あの幽霊の男は、この鹿威しを嫌がって、この庭に入ってきていない。
これだけの材料がそろえば、安里にもわかった。
「あの幽霊が、山の神様なんですか!?」
「正解。アンタが幽霊っていうからアタシもそうだと思ってたけど、それにしちゃ妙な気配だったから変だと思ったのよねー。アンタの部屋にもアンタ自身にも憑いてる感じしなかったし」
「でもでも! そしたらどうして神様が私を追いかけるんですか?」
「さあ。大方アンタをお嬢さんだと勘違いして連れていこうとしてんじゃないの」
「ええーっ!? ってか先輩、もう水がないです!」
いつの間にかペットボトルは空っぽになっていた。あとはもう、袈裟にすがるしかない。
「アタシは仏僧。神様は管轄外だわ」
「ここまで来てそんなこと言わないでくださいよぉ」
管理者の男にわざわざ話を聞きに行き、様子を見に屋敷にまで足を運んだのは、ほかならぬ僧侶自身が安里を助けようとしたからだ。
そのくせ、意地悪なことを言う。
「しょうがないわねえ」と心底面倒くさそうに息を吐いて、口端を持ち上げる。
空になったペットボトルを抱いた安里のすぐ横を、黒い影が通り抜けた。冷たい風とともに。
「ひぇっ」
「あーあ、簡単に家に男をいれちゃダメって言ってるのに」
びくりと肩を震わせる安里に対し、至には軽口をたたく余裕がある。
「せ、んぱい……でも、あれって……」
安里の指さす先、前方に音もなく現れたのは、一頭の鹿だ。立派な角を持つ雄鹿である。
『見つけたぞ。
さあ、我とともに来い』
太陽は高く昇っているのに、妙に寒い。怖い。これは、畏怖だ。幽霊と対峙する時とは違う。絶対的なものに対する恐怖。
「か、みさま……」
「この子は違うわよ。ここに住んでいたお嬢さんはもういないわ」
安里の隣で、僧侶は冷静だった。静かに神へと語りかける。
『構わぬ。
代わりにお前を連れて行く』
「話が通じないわねえ」
暴言を吐く僧侶に、ひやっとしたのは安里のほうだ。神が機嫌を損ねたように見えたのだ。何かを代わりに差し出さないまま帰ってくれ、というのが虫が良すぎる話なのかもしれない。
鹿の表情を読みとろうと必死の安里の横で僧侶はさらりと言い放つ。
「だったら、こんな小娘よりアタシにしておきなさいよ」
「ええ!?」
僧侶が己の身を捧げると言ったのも安里はびっくりしたが、神様の返事にはもっと驚いた。
『よかろう。
お前を連れて行く』
唖然とする安里の目の前で、牡鹿はあの美しい青年の姿へと変わる。
青年がその白い手をのばすと、鈴のような音がした。頬にやさしく触れられた至は、どこかうっとりと瞼を閉じる。
安里は何かいけないものでも見ている気分で、だけど目をそらすことができなかった。
少しずつ近づく神と僧侶の距離。青年が音もなく至に身を寄せ、そっと口づける。ほんの短い間だったが、僧侶は身じろぎ一つせず受け入れた。
青年は離れると再び鹿の姿に代わり、一足飛びに空をかけていく。白い光の筋を残して、すうっと山の奥へと呆気なく消えていった。
まだ、ドキドキと高鳴る心臓を押さえ、安里は至の顔をのぞき込む。
「なんとかうまくいったわねぇ」
「せ、先輩! 生きてる!?」
いつもどおりのオカマの僧侶がそこにいた。
「当たり前じゃない」
「ええっでもどうして? やっぱりオカマはダメだったんですか?」
あけすけな物言いに、僧侶は無言で安里の頭をはたく。
「痛いです……」
「身代わりを持ってってもらったの。昔のアタシの写真を貼った人形を」
安里は二人のキスの瞬間に目が釘付けで気づかなかったが、至は青年の着物の胸元にそっと写真を滑り込ませていたのである。神にとっては男も女も関係なかったのだ。
「ええー。じゃあ、神様は昔の先輩を連れて行っちゃったんですか」
「そういうことね」
安里は少しだけがっかりしている自分に気づいて嫌な気分になる。安里の知っている先輩はもうここにはいないのだ。
片思いだった。
目が合えばドキドキして、かまってもらえたら一週間は元気でいられた。告白もした。結果は玉砕だった。
あの頃の安藤至はもういないけれど、そういう思い出ごと消えてなくなるわけではない。
「先輩」
「なあに?」
「助けてくれて、ありがとうございます」
「いいわよ」
面と向かって礼を言われるのは照れるのか、僧侶は素っ気なくきびすを返す。
後をついて行こうとした安里だが、「あ、そうだわ」と不意に足を止めて振り返った僧侶の袈裟にぶつかりそうになる。
「なんですか?」
手のひらを上に向けて差し出された右手に、安里は首を傾げた。
「有り難いお水の代金。五千円」
「ええっ!? って、そこのコンビニで買った水ですよねコレ!」
「有り難い水だって言ってんでしょ」
「神も仏もない……」
この世の無情を嘆く安里の耳に、鹿威しの音はもう、聞こえない。