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――暑い。
こめかみから耳の前を伝って流れる汗をぐいと拭いながら、俺は豪奢な校門を潜り抜けた。その足取りは鈍い。
父の仕事の都合で、幼等部から大学院まである榊学園の高等部に転入してから、一週間が経とうとしていた。
正門から一番手前の校舎である職員棟までは、少なく見積もっても徒歩五分はかかる。多く見積もったら八分だ。教室棟までとは言わないから、せめて職員棟の昇降口まで、動く歩道でもつけたらどうだろうか。
そんな風にやたらと馬鹿でかいこの学園は、近隣では有名な名門校且つ金持ち校らしい。県外から転入した俺はあまり詳しく知らなかったのだが、私立に入れるだけの金銭的余裕があるのなら、下手な公立に行かせるよりも榊に入れておけ、という話があるぐらいだそうだ。
それにしても暑い。
蝉の鳴き声は絶えず聞こえている。朝から騒々しい事この上無い。風鈴の音のように、もう少し涼やかな音色で鳴く事は出来ないのだろうか。
暦の上ではとうに秋を迎えている筈なのだが、九月上旬といえばまだまだ夏の気配は去る様子を見せない頃だ。校内は空調完備の為、昇降口へ辿り着けばそこから先はとても涼しくなっている。だから一秒でも早く校舎に入ってしまいたいのだが、その為にこの暑い中走っていって余計な汗をかくのも馬鹿馬鹿しい。
歩道を歩く俺の横を、大きな車が通過していく。この学園には車で送り迎えして貰う生徒もちらほら居るようだが、その車を見て俺は思わず目を瞠った。
今までにテレビでしか見た事の無い、金持ちの象徴という印象がある、あの物凄く長ーい車は。
「リムジンとか……」
おい何だあれは。
この学園には、あんなものを乗り回す奴まで通ってるのか。
しっかりとした質感を持ち艶のある黒は、丁寧に洗車され磨かれている事の証拠なのだろう。リムジンという時点でただでさえ金持ちっぽい印象なのに、更なる高級感を漂わせている。
職員棟の玄関手前には車寄せがある。リムジンはそこで停車した。
運転席から運転手が出てきて、後部座席へ周りドアを開ける。
おいこら、通学時の車のドアぐらい自分で開けろ。どんだけお嬢様もしくはお坊ちゃまなんだ。
一体どんな奴があんなものに乗っているのか、せめてその姿だけでもしっかり拝んでやろうと、俺は歩きながら目を凝らした。
開いたドアから出てきたのは、一人の少女だった。
最初に目についたのは長い髪だった。
遠目だが、太陽のように眩しく輝くその亜麻色の髪は特徴的だ。染髪しているという訳でないのなら、まず純粋な日本人ではないのだろう。
綺麗に背筋の伸びた彼女は、教室棟の昇降口へと向かってさっと歩き出した。
「やあ、おはよう砺波くん。そんな所で突っ立っていると通行人の邪魔だよ?」
「えっ? ああ、おはよう、橋本」
背後から声をかけられ、俺は歩みを止めてそちらを振り向いた。
明るい茶髪に眼鏡、ついでに一眼レフのデジカメを首から下げたこの男――橋本総太は、今月からの俺のクラスメートだった。俺の前の席という事に加え、恐らく元来世話焼き気質でもあるのだろう、俺が転入してから色々と面倒を看てくれている。
「お前、それ登校時も首からかけてんだな。首疲れないか?」
「スクープが何処に転がっているか分からないからね。首の疲れよりもスクープ優先! これが新聞部として当然の事さ」
何だか妙に格好つけた言い方をしながら、橋本はデジカメを構えた。
転入当初は何故彼が常にデジカメを手にしているのか疑問だったが、どうも話によると、いつ如何なる状況でも即座に撮影が出来るようにという心構えから来るものらしい。そんな橋本は、新聞部のカメラマンだった。
「それよりどうかしたのかい、少しぼーっとした様子だったけど。朝っぱらから熱中症にでもなったかな?」
「いや、この学園って金持ちが多いって話は聞いてたけど、リムジンで登校なんかする生徒まで居るのか、と思ってさ」
車で送迎と言うだけならまだしも、それがリムジンで、しかもきちんと運転手がついている(らしい)など。
橋本は俺の目線の先を追いかけるように、昇降口の方を見た。少女の降りたリムジンは再び発車し、校門――つまりこちらへと向かってくる。
俺たちの横を通過していくその車を見ながら、橋本は意外そうな顔で言った。
「何だ、久遠寺家の車じゃないか」
「くおんじ? 有名人なのか?」
「砺波くん、知らないのかい? 榊で彼女を知らない人間なんて居ないよ?」
「知らないよ。そもそも俺は、今月編入したばかりだぞ」
俺はこの学園に関する予備知識など、ほぼ耳に入れない状態で転入した。それからまだ一週間足らずだ。一生徒の事など知らなくて当然だろう。
「一年A組の久遠寺咲良だよ。この学園の生徒会長だ」
「生徒会長?」
そういえば、ついこの間――丁度二学期の始業式の時に、講堂の壇上で生徒会長が挨拶しているのを見たような気がする。
気がする、というのは、二学期初日の事は転入の緊張のせいで、あまりよく覚えていないからだ。誰も知らない所に突然ポンと放り出される、というのは普通の精神を持ち合わせる思春期の子供なら、まあ緊張して当然の状況だろう。
「って言うか、一年生が生徒会長なのか?」
珍しい。と言うか、聞いた事が無い。
通常、生徒会長と言えば二年生か三年生がなるものだ。それを押しのけて一年生の女子が会長をやっているなど、滅多に無い事ではないだろうか。
そんな俺の疑問に、橋本は眼鏡を軽く押し上げて笑った。
「久遠寺さんは色々と特別枠でね」
「特別枠?」
「まあ、追々話すよ。とりあえず行こう。ここで立ち話をしてたら遅刻するよ」
特別枠とはどういう意味だろうか。
何だか勿体ぶった話し方をする橋本と肩を並べ、校舎に向かって歩き出す。
久遠寺咲良の初期情報。
一年生なのに生徒会長。
リムジンで登校する金持ちのお嬢様。
姿勢の綺麗な、亜麻色の髪の乙女。
この時点で俺は、違うクラスの生徒会長などきっとこの先関わりが無いのだろう、と疑う事なく思っていた。
* * *
「げっ、しまった」
二時間目の休み時間、次の授業の為に第一理科室に移動してきた所で、俺は上擦った声をあげた。
隣に居た橋本が、怪訝そうな顔をする。
「どうしたんだい砺波くん」
「ノート、教室に忘れてきた」
理科室の黒い机の上に置かれたのは、教科書と筆箱だけだ。教室を出る前にノートもちゃんと手に取った筈なのだが、気付かぬ内に置いてきてしまったらしい。
「僕のルーズリーフ、一枚あげようか?」
「や、いいよ。まだ授業始まるまで時間あるし、ちょっと取ってくる」
「そうかい」
早めに移動していて良かった。普通に歩いても余裕で間に合いそうだ。
第一理科室は特別教室棟の三階に、一年B組の教室は普通教室棟の三階にある。この学園の校舎はやたら広いが、幸いな事に理科室とうちの教室は然程離れてはいない。
三階の渡り廊下を通り教室棟へ向かう。その途中でふと、渡り廊下の窓から中庭を見下ろした。
広い中庭は青々と茂る木々や花壇があり、その中央には噴水が設置されている。チョロチョロとしょぼい噴水じゃなく、大きな公園にあるような立派な物だ。
学校に噴水があるという時点でよく分からないが、更にあの豪華な噴水というのがもう理解不能だ。目の保養にはなるけれども、あれは普通いわゆる「学校」にある物ではないのではなかろうか。それとも、私立の学校には大抵ある物なのだろうか?
そんな事を思いながら、ぼんやりと中庭を見ながら歩いていると。
「うおっ!」
「わ……ッ!」
突然、身体に激しい衝撃を感じた。同時に女子生徒の慌てたような声と、バサバサとノートが落ちた音が聞こえる。
俺は弾かれてバランスを崩しかけ、慌てて両足で持ち堪えた。
その瞬間、ふわ、と。
グレープフルーツのような、柑橘系の香りが優しく漂った。
「っと……あ……」
どうやらぶつかってしまったらしい相手を確認しようと、或いはこの香りの主を確認しようと、俺は顔をそちらへ向ける。
長くサラサラと指通りの良さそうな亜麻色の髪。
その明るい色を補うように左右に結われた黒いリボン。
ひらりと揺れる制服のスカートから除く白い肌。
意志の強そうな透き通った蒼い瞳。
生徒会長――久遠寺咲良だった。
一瞬。
一瞬だけ、見惚れてしまう。
直後に、今の状況に気付いた俺は慌てて、少しよろめいた状態で立っている彼女に声をかけた。
「わ、悪い。大丈夫か?」
そう口にした後で、廊下に散らばった彼女の教科書やノートに気付き、急いで拾い上げる。転びこそしなかったものの、結構激しくぶつかってしまったようだ。これは完全に、余所見をしていた俺の落ち度だ。
「はい、これ」
「……ああ、すまない。ありがとう」
さらりと髪を掻きあげながら、俺の手からノート類を受け取る彼女は、またふわりと甘く爽やかに香った。これは香水の香りだろうか。決してきつくない、上品なつけ方をしているのだろう。本当に仄かに優しく漂うのだ。
「ごめんな、前見てなくて……」
「いや、私の方こそ避けきれなくてすまなかった」
「何処か、ぶった所とか無いか?」
「ああ、大丈夫だ」
受け取ったノート類を軽く整え胸に抱きながら、久遠寺は真っ直ぐにこちらを見据えた。その強い眼差しに俺は僅かに委縮してしまう。
「だが、廊下は公道だ。お互い、周囲に気をつけて歩くとしよう」
そう言った久遠寺はふっと薄く微笑んだ。
勝気そうなその瞳と、やや固く威厳を保つ口調によく似合った、何処となく強気な笑顔だった。
彼女はお互いと言うが、今のは明らかに俺が悪い。だがこういう言い方をしてきたのは、俺が気に病まぬようにという気遣いなのかも知れない。
そのまま彼女はすっと俺の横を通り抜け、渡り廊下を特別教室棟の方へと歩いていく。仄かな柑橘系の残り香をそっと置いて。
俺は暫く呆けたようにその後ろ姿を見ていた。
朝は分からなかったがこうして近くで見ると、彼女は実に整った顔立ちだった。抜けるような白い肌、長い睫毛、上品に色づいた唇。まるで精巧に出来た西洋人形を思わせる。その少々日本人離れした所のある顔や、あの髪の色を考えるに、やはり何処か他の国の血が混ざっているのかも知れない。
「……あっ、いけね」
彼女の姿が廊下の角に消えるまでぼうっとその背中を眺めていたが、そんな事をしている場合ではないと思い出す。俺は教室にノートを取りに行くのではなかったか。
結果、俺はつい今しがた公道だと言われた廊下を早足で駆け抜け、更に教室と理科室の間をダッシュする事になってしまうのだった。