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―9―

 3年C組の学園祭実行委員が生徒会室を訪れた時、室内には俺と吉国しか居なかった。音楽室まで打ち合わせに出た久遠寺は、なかなか戻ってこなかった。六条も朝霞もそれぞれの用事で生徒会室を留守にしている。

 吉国が淡々と席を勧め、ソファに座った実行委員である二人の男女は、決して急かす様子は無くゆったりと待っている。そして彼らが来訪してから時計の針が五分進んだ頃、何となく気が急いてしまい立ち上がったのは俺だった。


「吉国。俺、久遠寺の様子見てこようか」

「いいの?」


 会長か副会長が居なければ話にならない。俺の発言に吉国が微かに瞳を揺らす。その返答の具合から、どうやら吉国も少々戸惑っていたようだ。


「ああ。音楽室ってこの棟の四階だろ?」

「……そう。ごめん砺波くん、お願い」

「んじゃ、ちょっと行ってくる」


 吉国に頷き返し、俺は生徒会室を後にした。




 生徒会室手前の階段を上る。音楽室は反対方向のようだ。四階の廊下を真っ直ぐに歩いていく。

 久遠寺が音楽室に何をしに行ったかというと、吹奏楽と学園祭のオープニングでの演奏についての打ち合わせだそうだ。

 榊学園の高等部に音楽室は二つある。普通教室とほぼ同じサイズの第二音楽室、それよりも大きい第一音楽室。どちらの部屋も防音処理はしっかり施してある。そして吹奏楽は第一音楽室を使用しているらしい。突き当たりの第一音楽室まで着くと、


「――はい。では、宜しくお願いします」


 と、余所行きモードの久遠寺の声がした。

 ドアについている小窓から室内の様子を窺うと、吹奏楽部の部員――恐らく部長か何かと顧問と思われる教師に向かい、軽くお辞儀をしている所だった。どうやら、丁度打ち合わせが終了した所らしい。

 そのまま、彼女はこちらへやってくる。ドアを開ける時に邪魔にならぬよう、俺は少し後ろに身を引いた。


「話し合い終わったのか。来るまでもなかったかな」


 ドアを開けて出てきた久遠寺は、俺の姿を見ると僅かに目を見開いた。


「砺波。どうした、何かあったのか」

「お前が遅いから頼まれて様子見に来た。お客さんが待ってるぞ」

「客?」

「3―Cの実行委員。体育館の利用について話があるらしい」


 俺の言葉に久遠寺は「体育館か」と考える様子で小さく呟いた。脳内でスケジュールの調整に入っているのかも知れない。

 音楽室の中から金管の音が聞こえ始める。打ち合わせが終わったので、吹奏楽部員も練習に入ったのだろう。


「でも、案外時間かかったんだな。生徒会室出てったの結構前だったろ」

「大体こんなものだ。向こうのやりたい流れとこちらのやりたい流れが少し噛み合わなくて、予定より時間がかかってしまった。互いに譲れない部分があると困るな。晶子が居ればもっと早く纏まるんだが……」

「六条が?」

「ああ。いつもは交渉には晶子を連れてくるんだ。今日は手が空いていないと言うから仕方ないが」

「六条だと何かあるのか?」

「晶子はああ見えて強かな女でな。相手をさっと丸め込むのが得意なんだ。重宝している」


 とてもそんな風には見えないが、あの穏やかな物言いで上手い事丸め込んでしまう、というのは何となく分かる気がする。


「お前も気をつけた方がいいかも知れないな」

「何にだよ」

「さて、何にだろうな? 気付いたらそのつもりも無かった事をいつの間にか了承させられているかも知れないぞ」


 くすくすと少し悪戯な雰囲気で笑みを零す久遠寺は、何だか上機嫌な様子だ。交渉に勝ったのだろう。




 歩き出す久遠寺の隣に並ぶと、柑橘系の香りが優しく漂った。彼女は最初にぶつかったあの時と、いつも変わらぬ香りがしている。かなり近付かなければ分からない程度に仄かな匂い。


 どうやらグランドピアノがあるのは第一音楽室だけのようだ。第二音楽室にはアップライトピアノだけが置いてある。通常教室と変わらぬ広さの第二音楽室には、グランドピアノを置くだけのスペースは無いのだろう。

 それを横目で見遣りながら、俺たちは手前の階段を降りていく。俺がここへ来たのとは違うルートで戻るようだ。


「なあ、久遠寺もピアノとか弾けんの?」


 俺の突然の問い掛けに、久遠寺は怪訝な顔をした。


「何だ唐突に」

「いや、お嬢様ってピアノかヴァイオリンが弾けるイメージがあるからさ」

「ふむ。まあ人並み程度にはな。未結と比べたら私のピアノなど全然だ」


 吉国の名前が挙がる。吉国は一日二時間はピアノの練習をしているんだったか。やはりその練習量通りの腕を持っているようだ。


「そういや、前に吉国が言ってたな」

「未結が? 何て?」

「ピアノのおかげでお前と仲良くなれたってさ」

「……ああ。その話か」


 久遠寺は何処か懐かしむように、ふっと表情を緩ませた。


「私が未結に声をかけたキッカケがピアノだったんだ。未結が、音楽室でピアノを弾いていたのを聞いてな。あまりにも綺麗な音色で、気がついたら声をかけていた」


 そういえば吉国は生徒会に入るまで、久遠寺と会話したのは数えるほどしか無かったと言っていた。ピアノがキッカケで話すようになり、その内に生徒会へ勧誘されたのだろうか。


「お前も今度、機会があったら聞いてみるといい。凄いぞ。未結のピアノは」

「ふぅん。そうだな、機会があったら聞いてみたいな。……っと!」


 ドン、と肩に軽い衝撃が走る。正面から歩いてきた二人組の男子生徒の内、片方とぶつかってしまったらしい。


「あ、すみません」


 短く謝罪をするが、向こうはさっさと行ってしまった。青いネクタイだから一年生ではないようだ。彼らとすれ違ってから、久遠寺が呆れたように溜息をついた。


「全く。お前は本当に不注意だな」

「……すまん。気をつける」


 本当に心底呆れているといった口調で言われ、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。過去の経験上、これは非常にバツが悪い。もしや久遠寺の中での俺はドジキャラに認定されているのではなかろうか。俺は普通だぞ。ちょっと不注意なだけで。

 軽く後ろを振り返ってみると、ぶつかった二人の姿が渡り廊下へ向かって折れるのが見えた。


「青のネクタイって先輩だったよな?」

「ああ。青は二年生だな。ついでに今のは2―Gの倉橋と笹屋だ」

「知ってるのか?」

「会話を交わした事は無いがな」


 という事は、知り合いではないらしい。


「じゃあ有名人なのか?」

「いいや、別に。極普通の生徒だろうな。お前の言う有名の定義が良く分からないが」

「なら、何で知ってるんだよ」


 俺の問い掛けに対して、久遠寺は俺を小馬鹿にするように目を細めた。何だそのリアクションは。


「砺波。お前、私を誰だと思っている?」

「え……?」


 ――まさか。

 その言葉の意味を考えて、脳内に浮かんだ解を即座に掻き消そうと試みる。だって、そんな事ある訳が無いじゃないか。そんな――。




「高等部全生徒の顔と名前は記憶済みだ。久遠寺咲良をなめるなよ?」




 だが、その解通りの言葉を久遠寺は発した。そんな馬鹿な。


「全生徒って……ま、マジで言ってんのか?」

「嘘をついてどうする」


 さらりと言うその態度は、とても嘘や冗談を言っているようには見えない。そもそも、こいつがそういう冗談を言うようなタイプでない事は、生徒会の雑用をしてきたこの数日の間で、もう充分に分かっているけども。


「だってお前、あの時俺から生徒手帳取り上げて名前の確認……」


 生徒会の雑用係に任命されたあの日。

 久遠寺は俺の生徒手帳を取り上げて名前を呼んだ。あれは俺の名前とクラスを確認する為のもので、つまり俺の名前を知らなかったからこそのパフォーマンスな筈だ。


「フルネームは覚えていなかったからな。凌、だったか。下の名前。大体お前、私が転入してきたばかりの生徒の名前を知らないと思うか?」

「……思いません」


 言われてみればそれもそうだ。久遠寺のようなタイプが、転入生の名前を知らないとは考え難い。

 しかし、榊学園の高等部に一体何人の生徒が居ると思ってるんだ。少なくとも一年生はAからH組までの八クラスがあるんだぞ。一クラス35人として一学年で280人。それが三学年分として、単純計算で840人という事になる。それだけの数の生徒の顔と名前を把握しているというのか。何だこいつは。化け物か。


 そんな事を話していた俺たちは、生徒会室までまだ少し距離のある所で、その『異変』に気がついた。茶色い扉の真ん中に作られた、不自然な白の四角形。


「ん? 何だあれ」


 近付くと、扉に紙が貼りつけられているのだと分かる。セロテープで一ヶ所軽く留めただけの物だ。

 何故こんな所にこんな紙が貼ってあるのだろう、という疑問が一瞬浮かびかけたが、そこに書いてある文字を読んだ時にそんな思考は吹っ飛んでしまった。


「……何だこれは」


 久遠寺が不快感を露わにした声で、低く発する。




 ――生徒会長を辞職しろ。




 そこには、黒のマジックでそう書かれていた。


 一体いつの間にこんな物が貼られていたのだろう。少なくとも、俺が出てきた時にはこんな物は無かった。否、出てくる扉などいちいち確認しないからはっきりとは言えないが、しかし無かった筈だ。

 という事は、俺が生徒会室を出て音楽室に行き、そこからこうして戻ってくるまでの数分間で貼られたという事になる。一体誰が。何故。


 久遠寺はつかつかと扉に歩み寄ると、勢いよく紙を引き剥がした。彼女の白い指の中でそれはくしゃりと小さく丸められる。


「おい久遠寺、それ……」

「砺波。この事は言うなよ」

「え?」

「誰にも言うな。絶対に他言無用だ。誰かに話したらその時点でお前の命は無いと思え」


 久遠寺はキッと強い眼差しで俺を見上げた。手の中のそれを更にぎゅっと小さく握り潰しながら。


「どうしてだよ? 皆に相談するべきだろ?」

「こんな物、タチの悪いただの悪戯だろう。言う必要が無い」

「そうかも知れないけど……」


 ただの悪戯でない可能性もあるだろう。と言うか、明らかに嫌がらせじゃないか。皆に、或いは顧問に見せて然るべき物だろう。

 だが久遠寺は険しい顔で言った。


「今は学園祭前で皆忙しいし、精神的な余裕もあまり無い筈だ。余計な話を持ちこんで混乱させたくない。……頼む、砺波」


 生徒会の皆の為、か。


 六条じゃなくても充分過ぎるほど交渉術に長けているじゃないか。だって、あの久遠寺にこんな風に懇願するように言われて、普通嫌だとは言えないだろう。少なくとも俺は言えない。

 はぁ~、と尾を引く長い溜息がつい漏れてしまう。くしゃりと自らの後ろ頭を撫で、俺は渋々了承した。


「……分かったよ」




 生徒会室に入ると、そこは俺が出ていった時と何ら変わりない状態だった。一人仕事をする吉国と、ソファに座ってのほほんと久遠寺の帰りを待つ三年。


「……おかえり」


 ノートパソコンと睨めっこをしていた吉国が顔を上げる。「ただいま」と軽く告げ、久遠寺は真っ直ぐにソファへ向かった。


「お待たせしてすみません」

「いえいえ。久遠寺さんも今は忙しい時期だものね」

「すみません。ご理解ありがとうございます。それでご用件は?」


 三年の内、女子の方が穏やかに対応してくれているようだ。男子の方も相変わらず緩い空気を纏わせながら、うんうんと頷いている。気の長そうな人たちで良かった。

 来客との話し合いに入った久遠寺を確認すると、俺は吉国の近くで軽く屈んで、椅子に座る彼女に目線を合わせた。


「……何?」

「待ってる間、誰か来なかったか?」


 怪訝な目を向けてくる吉国に、出来るだけ声のトーンを落として問い掛ける。何も言わないという事は誰も来ていない事の証明だと思うが、一応訊くだけ訊いておいてもいいだろう。


「来てないけど」

「そうか。じゃあ、ドアの方から音がしたとかは?」

「別に……」


 そこまで言ってから、思い出したように「そういえば」と付け足す。


「そこの手前まで来て立ち去った様子はあったかも」

「本当か?」

「ん……。ノックも何も無かったから特に気に留めなかったけど。それに、足音も殆ど無くて随分静かだったから」


 やはり誰か来ていたのだ。

 この生徒会室があるのは特別教室棟だ。放課後の今は、この棟に部室のある部活動の生徒ぐらいしか立ち寄らない。それがこんな廊下の端の部屋まで来て、ノックもせず中に声もかけずそのまま帰るなんて怪しすぎるだろう。

 更に足音を殺して来ていたとなれば、もう明らかにやましい事があると言っているようなものじゃないか。


「それが、何?」


 吉国が小さく首を傾げる。何処か不審そうな目線だ。俺が突然変な事を言い出したので妙に思っているのだろう。




『誰にも言うな』




 そんな声が脳内にリフレインして、ちらりと久遠寺の方に目を遣る。こちらに背を向けた状態でソファに腰掛けている久遠寺は、対面に座る三年生と何やら話を進めている。


「いや、何でもない」

「……?」


 言うなと言われて了承した約束を、ほんの数分も経っていない内からあっさり破ってしまうほど俺も馬鹿じゃない。


 先程久遠寺が言ったように、あれはタチの悪いだけのただの悪戯の可能性もある。今回限りの悪戯だとしたなら、不愉快ではあるが特に気に留めるほどでも無いのだろう。

 出来る事ならそうであってほしい。今のはあくまでも下らない悪戯で、これ以上は何も起こらないのだと。




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