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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第七十一話 四百メートルの嘘



 船は、四百メートル離れた場所を航行していた。


 AIS画面上の貨物船エリダは、アンバー海沿岸を北北東へ十二ノット。


 合成開口レーダー衛星が捉えた船体は、その西四百メートル。


 針路も速力も同じ。


 航跡だけが、嘘をつかなかった。


 夕方のアンバー海は鉛色で、低い雲の裂け目だけが古い銅のように赤かった。衛星画像では滑らかな灰色に見える海も、艦橋の窓の外では短い波頭を無数に立てている。戦術指揮所には冷却ファンの乾いた風と、濡れた防寒着が持ち込んだ潮の臭いがこもっていた。


「送信機を別の場所へ曳いている」


 ソフィアは《スヴィターナ》の戦術指揮所で画像を重ねた。


「あるいは、海上の中継器から偽の位置を送信しています」


 《エリダ》の右舷船尾から、横曳き具を介した細い索が海へ伸びている。


 波間を曳かれる黄色い浮標。


 その浮標がAISの位置だった。


 船は西へ四百メートルずれ、沿岸監視レーダーのクラッターへ半身を隠している。


 小型艇は貨物船から離れ、北へ四十二ノット。


 式典会場から逃走した一名を回収できる時刻と距離だった。


「《ネポコルヌイ》まで」


「二十六海里。最大速力でも追いつけません」


「リンクスは」


「発艦準備中」


 ペトレンコは医務室にいる。


 左腕を再固定され、鎮静下で検査を受けていた。


 ソフィアが戦術指揮を代行する。


 不安を口にする代わりに、彼女は交戦規則を三行へした。


 貨物船へ発砲しない。


 小型艇も、先に撃たれない限り破壊しない。


 位置、乗員、通信、回収物を残す。


「逃げたら」


 作戦士官が聞く。


「どこへ逃げるかを記録します」


「追いつけなければ」


「追いつく手順を作ってから質問してください」


     *


 クリヴァク級警備艦ネポコルヌイは、午後四時二十八分に面舵を取った。


 AK-726連装砲は前方固定。


 MR-310対空捜索レーダーが低空目標を拾う。


 艦尾ではウェストランド・リンクスHMA.8がローターを回した。潮を含んだ風が甲板を洗い、折り畳み式ローターが一枚ずつ円へ溶ける。


 回転数が上がるたび、胴体外板の継ぎ目が細かく震え、主脚の緩衝支柱が甲板の上下動を短く飲み込んだ。タービンの高い唸りにギアボックスの唸りが重なり、乗員の奥歯まで薄く痺れさせる。


「発艦許可」


 艦長が言う。


「武装は」


 「左舷ドアの七・六二ミリ機関銃、乗員二、臨検員四」


「ミサイルなし?」


「沈めるなと言われました」


 艦長は双眼鏡を置いた。


「難しい仕事ほど、弾を減らされる」


 リンクスが甲板を離れた。


 機首を下げ、海面五十メートルへ降りる。


 小型艇まで十一分。


     *


 小型艇は、民生用の高速迎撃艇を灰色に塗ったものだった。


 全長十三メートル。


 船外機三基。


 後部に五名。


 一人は清掃作業員の服を脱ぎ、黒い戦闘服へ着替えている途中だった。


 ロマネンコが式典会場で取り逃がした男と、体格が一致する。


 リンクスが左舷後方へ並ぶ。


『不明小型艇へ。こちらキミロフ公国合同警備隊。機関を停止し、両手を見える位置へ置け』


 返答なし。


 艇は針路を東へ変えた。


 帝国領海へ入れば、公国側の追跡権限は複雑になる。


「境界まで七分」


 リンクスの操縦士が言う。


「前へ出る」


 機体が加速し、艇の右前方へ回り込む。


 ローターウォッシュが海面を白く削る。小型艇は波へ乗り、船首が一度空へ上がった。


 後部の男が長い筒を持ち上げる。


 9K338《イグラ-S》。携帯地対空ミサイル。


「発射準備!」


 リンクスが機首を振る。


 艇上の射手は赤外線シーカーを向けた。


 警報は鳴らない。受動式のシーカーは、照準しても電波を出さない。


 乗員の目だけが、脅威を見つけた。


「フレア、フレア!」


 射手が発射する。


 ミサイルが白煙を引き、リンクスへ上がった。


 操縦士は左へ機体を倒し、海面へ降りる。フレアが尾部から連続して落ち、オレンジ色の火が黒い海へ映った。


 イグラ-Sは一つ目のフレアを外れ、エンジン排気へ戻ろうとする。


 リンクスがさらに旋回する。


 ローター先端と海面の距離、十五メートル。


 ミサイルは後方で近接起爆した。


 破片が尾部左側へ入り、方向安定板とアンテナを裂く。操縦桿に細かな振動。


 破裂した弾頭は赤い火球ではなく、灰白色の閃光と黒い粒の雲になった。破片が薄い外板を叩く音が、雨粒ではあり得ない硬さで機内へ走る。一片が床を突き上げ、臨検員の左腿を切った。最初は圧力しかなく、次の拍動で熱い血が飛行服の中へ広がった。


『リンクス一、被弾。飛行可能』


 射撃許可は、相手が発射した瞬間に成立していた。


 それでも操縦士は艇を撃たない。


 左舷ドアの七・六二ミリ機関銃を、艇の前方五十メートルへ向ける。


 七・六二ミリ弾が海を横切り、進路へ白い柱を並べた。


 小型艇は急転舵する。


 速度が三十ノットまで落ちた。


     *


 《ネポコルヌイ》が北東から現れた。


 小型艇は、リンクスを避けるために自分から警備艦の進路へ入っていた。


 艦首波が大きくなる。


 警備艦は小型艇へ正面を向けない。衝突すれば証拠ごと海へ沈む。


 左舷を見せ、航跡で進路を塞ぐ。


 二千トンを超える船体が作る横波へ、小型艇が斜めから入った。


 船首が跳ねる。


 後部の男二人が甲板へ投げ出された。


 船外機一基が空転し、過回転で白煙を吐く。


『機関を止めろ。次は艦首へ一発撃つ』


 《ネポコルヌイ》艦長の声。


 小型艇からAK-74Mの射撃が返る。


 弾丸が警備艦の舷側へ当たり、塗装と錆を散らした。


 甲板上では金属を大型ハンマーで叩くような着弾音が連続し、薄い塗膜の下から橙色の錆が粉になって吹いた。跳弾の一発が手摺をえぐり、甲板員は焼けた鉄と発射薬の臭いを吸い込みながら鋼壁へ腹をつけた。


 AK-726連装砲がゆっくり旋回する。


 二本の砲身は艇の後方、海面を向いた。


「一発」


 七六ミリ榴弾が小型艇の後ろへ落ちた。


 爆発で水柱が上がり、艇を横から持ち上げる。右舷が海面へ叩きつけられ、船外機二基が停止した。


 水柱の根元には一瞬だけ黄色い火が見え、次の瞬間、冷たい海水と爆圧が艇内を横断した。肋骨へ横から板を当てられたような衝撃で、乗員の肺から声が押し出される。船外機のカウルが割れ、プロペラ軸は回ろうとして甲高い金属音を立てた後、焼けた潤滑油の煙を吐いた。


 乗員一人が海へ落ちる。


 清掃服の男は、防水ケースを抱えて船首へ這った。


 ケースを海へ投げようとする。


 リンクスの臨検員が、開いた側面扉から狙う。


 一発。


 男の肩へ入った。


 ケースは甲板へ落ちる。


 小型艇は機関を止めた。


 リンクスは、その場へ留まれなかった。


 尾部の振動が、速度を落とすたびに大きくなる。方向安定板の裂け目へ気流が入り、足元から金属板を細かく叩く音が伝わった。


『リンクス一、艦へ戻る。救難監視はヘリックスへ引き継ぐ』


『了解。着艦甲板、消火班配置済み』


 《ネポコルヌイ》の後部甲板は、横風を右舷から受けていた。


 操縦士は機体を船尾から入れず、艦の前進速度に合わせて左舷側へ並ぶ。尾部が勝手に振れようとするたび、ペダルで半分だけ戻す。強く押せば、傷んだ安定板をさらに折る。


 甲板員が両腕を広げた。


 五メートル。


 三メートル。


 ローターウォッシュが濡れた甲板を白く走り、固定索と救命胴衣を震わせる。


 左側の車輪が先に触れた。


 機体が右へ傾き、右側の脚が甲板を二度跳ねる。甲板員が身を伏せた頭上を、損傷した尾部が一メートルもない高さで通った。


『接地。機関停止まで近づくな』


 エンジン音が落ちてから、整備員が走った。


 尾部外板には、親指ほどの穴が十九。内部の操縦索一本へ破片が食い込み、外皮だけでつながっている。


「あと一回、右へ強く踏んでいたら切れてたな」


 整備員が言う。


 操縦士はヘルメットを脱ぎ、汗で濡れた髪をかき上げた。


「次から先に言え」


「次がある前提ですか」


「請求書を出す前に墜とす気か」


 笑いは一往復で終わった。


 機内床へ落ちた破片の一つに、臨検員の血が付いていた。左腿を浅く切っている。本人は歩けると言ったが、衛生兵は担架へ座らせた。


 飛行可能という無線報告は、機体が無傷という意味ではない。


 帰れる間だけ、壊れていないことにする言葉だった。


     *


 公国海兵がRHIBで接近した。


 艇上の四名中、重傷二、軽傷一、無傷一。


 海へ落ちた一名は救命胴衣を着けておらず、救助時に心停止。Ka-27PS《ヘリックスD》の救難員が蘇生を続けたが、艦内搬送後に死亡した。


 清掃服の男は生きている。


 左肩貫通、失血あり。


 式典会場から逃走した第六の襲撃者と、顔認証が一致した。


 防水ケースの中には、衛星電話、暗号化タブレット、偽造旅券三冊。


 タブレットは遠隔消去を始めていた。


 海兵が電源を切ろうとする。


「触るな」


 電子証拠担当が導電袋へ入れた。


「電源断で暗号鍵が消える可能性がある。電波だけ切る」


 残量表示が一パーセントずつ減る。


 消去完了まで推定四十秒。


 担当者は袋の外からUSB遮断器を差し、ストレージの電源線だけを切った。


 画面が固まる。


 消去進捗、六十三パーセント。


 残った三十七パーセントが、次の戦場になった。


     *


 貨物船エリダは停船命令へ従った。


 船籍はメリディア共和国。


 積荷は冷凍食肉。保険、船員名簿、寄港記録に表面上の矛盾はない。


 ただし、船尾のAIS浮標だけは商船設備ではなかった。


 メリディア政府へ照会して二十三分。


 回答は、《審査中》のままだった。


 その時、《エリダ》船尾から煙が出た。


「火災!」


 燃えているのは機関室ではない。


 船員区画の下、図面にない空間。


「臨検同意は未着です」


 法務官が確認する。


「救難と延焼防止を目的に乗り込みます」


 ソフィアは答えた。


「積荷捜索はしない。全員、映像を切らないでください。異論も記録へ」


 《ネポコルヌイ》の海兵と第八十八群が乗り込む。


 狭い階段を降りると、鋼製扉の向こうで消火装置が作動していた。二酸化炭素が区画を満たし、電子機器を焼いた煙を押し出している。


 扉を開ければ、酸素が入り火が戻る。


「冷却してから」


 消防員が外板へ海水をかける。


 七分後、空気呼吸器を着けて入った。


 内部には通信ラック三基。


 非常灯の赤だけが、煤けた隔壁と水滴を照らしていた。呼吸器越しにも樹脂基板の焼けた刺激臭が入り、足元では消火剤と海水が灰色の泥になって靴底を吸う。冷えたラックへ触れると、外板の裏ではまだ小さな部品が熱で弾けていた。


 一基は焼損。


 一基は基板を酸で溶かされている。


 残る一基だけ、冷却ファンが回っていた。


 船長は知らないと言った。


「冷凍機の制御室だと聞いていた」


 ロマネンコが映像回線で質問する。


「食肉を冷やすのに、軍用暗号機が要るのか」


『私は船を動かす。荷主の箱は開けない』


「正しい。密輸で長生きする船長の答えだ」


『密輸ではない』


「なら運が悪い。密輸なら、もっとまともな嘘を用意する」


     *


 午後七時五十二分。


 《エリダ》と小型艇は、合同警備隊の管理下へ入った。


 死亡一、重傷二、軽傷二。


 リンクス一機軽損。


 貨物船の乗員十八名は、船内待機。逮捕ではなく、事情聴取と安全確保の対象とされた。


 メリディア政府の正式同意が届いたのは、乗船から十一分後だった。


 同国海運相は、火災下の救難措置として公国側の行動を追認した。通信ラックを確保した事実も変わらない。


「結果が正しければ、手続の遅れは消えますか」


 法務官が聞いた。


「消えません」


 ソフィアは答えた。


「成功したことと、許可より先に入ったことを、両方残してください」


 事後報告書の余白へ、《緊急例外一》と記された。


 十一分。


 許可が遅れた時間は、報告書では二桁の数字に収まる。海上では、その十一分に火が隔壁を一枚越え、負傷者の血が作業服を一枚濡らし、酸が基板の配線を数十本消した。法務官の万年筆は湿った紙へわずかに引っ掛かり、《例外》の二文字だけを濃く残した。


 ソフィアは、その濃さを見た。次も同じ状況なら、自分は許可を待たない。そう判断できてしまうことが、成功より危険だった。


 押収した通信ラックの時刻同期記録は、式典会場の短時間送信と一致。


 送信先は海上だけではない。


 さらに南東、千八百キロ離れた地上局へ、暗号化された確認応答が返っている。


 登録上、その地上局はアーラシア連邦の気象観測所だった。


 気象観測所は、三年前に閉鎖されている。


「アーラシアが攻撃した、と発表しますか」


 分析官が聞いた。


「しません」


 ソフィアは答えた。


「機械が一台、閉鎖施設の座標へ通信した。それ以上は確認できていません」


「国名は一致しています」


「座標は国籍ではありません」


 四百メートルの嘘を見つけたばかりだった。


 次の千八百キロを、正しい距離だと信じる理由はなかった。

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