第3話
あれから数ヶ月が経ち、俺の身体は無事に『首が据わる』という第一を終えた。
普段よりも行動範囲が広がり、自力での寝返りもできる様になった。
次は、ハイハイに向けて練習かな…
さて、この数ヶ月、俺はただ天井を見て寝て過ごしていたわけではない。
朝の4時に目が覚めてしまう忌まわしい呪いは、仕事をしない代わりに他の事に置き換わっていた。
ハイハイの秘密特訓だ!
流石の朝4時に起きている人間なんて衛兵くらいで、いつも面倒を見てくれているメイド達は夢の中にいるはずだ。
ガサゴソッ、ガサゴソッ…。
(寝返りができたんだ、ハイハイなんてコツを掴めばすぐできるに違いない…!)
薄暗い真夜中の4時に寝返ってはハイハイの練習をして日が登り始め気絶をし、また起きては特訓をし…
そして、気がつくと俺は正常な発育段階よりも1ヶ月も早くできる様になった。
そこからの情報調達は今までの比にならない程であった。
乳母とメイドが、ほんの一瞬目を離した瞬間に秘密で特訓したハイハイで部屋を脱走。
メイド達に捕まるまでの脱走時間中に、長い廊下を短い手足をフル回転をさせてハイハイで這いずり回り、捕まるまでの猶予をこの無駄にデカい公爵邸の部屋構造の情報収集に努めた。
少し空いた扉の先には、壁にぎっしりと詰め込まれた膨大な本が佇んでいた。
歴史書、魔導書、現代史、王国史…etc
(この部屋をずっと探していたんだ…やっと見つけた!)
そんな図書室を見て呆然としていると背後から乳母が「まぁやっと見つけました」と俺をひょいと抱っこされてしまった。
ハイハイができる事がバレてしまった為、今後の顛末は部屋に戻されて監禁生活のリスタートだろう…
俺は、恥を捨て大泣きをした。
嗚咽する様なほどに泣いた。
「ヒックヒック、うぇーん…」
(嫌だ! 戻りたくない! ここには、俺の夢と希望が詰まってるんだ! 魔法を学ばせてくれよぉぉ!)
その三十路の悲痛の叫びが通じたのだろうか…
また、ただ事ではないのを察してくれたのかどうか分からないが
乳母が困った顔で俺の顔を覗き込んできた。チャンスだ。俺は自分の意図を伝えるため、小さな手を必死に伸ばして、近くにあった本に触れようとアピールを繰り返した。
「……あら? もしかして、お本を読んでほしいのですか?」
俺の必死なプレゼンが届いたのだろうか
全く、恥を捨てた甲斐があった…
ここまでこだわっていたのにも理由がある。
元々、魔法に関してクリスティから知る情報は少ないが、その少ない情報の中に、幼少期が一番魔法を鍛える時期に適していることを聞いてしまったからだ。
魔法なんて男のロマン、皆が憧れるのもだろう、一度は夢を見たものだ箒で空を飛び、杖を振り回して某闇の軍団を退けるメガネの英雄を…
木の枝を持って呪文を唱えたものだ。今や懐かしい記憶だ…
そんな厨ニ病じみた夢のために俺は必死に寝返りも練習したし、ハイハイも練習をした。
この時のために待ち侘びたこの瞬間を無駄にしたくなかった。
だからこそ、今が魔法に関しての記述されている本が何よりも貴重な情報源であった。
俺の急いで魔法に関する本を読んで欲しいという気持ちが体から滲み出ていたのだろうか。気がつけば、近くにあった本を小さい手でバシバシと激しく叩いてアピールしていた。
「ふふふっ、分かりました…!お部屋に戻ってから読み聞かせをしましょうか」
ありがたいことにハイハイでの脱走へのお咎めはないようで、ほっとして自室へと運ばれた。
部屋に戻ると、さっそく読み聞かせが始まった。
乳母が持ってきてくれたのは、今の俺のニーズに完全にマッチした一冊。
その名も――『“サルでもわかる”まほうのほん』という絵本、直球すぎる赤ちゃん向けの魔法入門本だった。
部屋に戻ると早速読み聞かせが始まった。
「では、読みますね、ユークリッド様。……ええと、『まほうをつかうときは、こころのなかの まりょくをかんじましょう』……」
乳母の優しい声が、部屋に響く。
絵本を開いた彼女の指先を見つめながら、必死に絵本の文字を追っていた。
「ユークリッド様には、まだ早いかもしれないですね。えーと…次は…『まりょくをかんじることができたら、おててにあつめましょう』…。」
まだ赤ん坊の俺が、必死に文字を追いかけている姿がおかしいのだろう。乳母は微笑みながら読み進めてくれる。
「『おててにあつめることができたら、まほうのことばをとなえます』」
つまり『詠唱』ということか。
以前、自慢げにクリスティが火の魔法を見せてくれていた時に言っていた呪文が頭をよぎる。
あの時は本当に人生が終わったと思った。
何せ俺のベビーベッドの真横でいきなり火球を出したのだ。文字通りの火遊びに心臓が止まるかと思った。
「『これできみもまほうつかいだね。――おしまい』……と、ユークリッド様、どうでしたか?」
メアリーが優しく絵本を閉じ、俺の顔を覗き込んできた。
俺は、絵本を最初のページを捲って、もう一度絵本を読み聞かせてというリクエストを訴えた。
「あらあら、もう一回ですか?」
クスクスと笑うメアリーに、俺は5回目のアンコールを迫る。
その時、部屋の重厚な扉が開く音が聞こえた。
ガチャリ……
入ってきたのは、凛とした美しい佇まいの女性。俺の実の母親であり、この公爵家の第一夫人、ヴェルディアだった。
「メアリー、いつもユークリッドの面倒を見てくれてありがとうね」
「とんでもございません、ヴェルディア様」
メアリーがサッと居住まいを正して一礼する。
ヴェルディアはベッドの上の俺に愛おしそうな視線を向けながらも、どこか引き締まった表情で言葉を続けた。
「先ほど、メイドたちが廊下で少し騒いでいたのだけれど……ユークリッドに何かありましたか?」
その言葉に、メアリーの身体がびくっと強張った。
「申し訳ございません……! それが、私がほんの少し目を離した隙に、ユークリッド様がハイハイで部屋を脱走してしまわれまして……。図書室にいらっしゃったところを、先ほどここへ連れ戻してきたばかりでした。今後、このようなことが二度とないよう、厳重に注意して参ります。真に、申し訳ございません」
メアリーは深く頭を下げ、声を震わせた。
その報告を聞いたヴェルディアの瞳に、すっと冷徹な貴族の光が宿る。
「怪我がなかったから良いものの……私は貴女を信頼して、この子を預けているのです。くれぐれも、怪我だけはないように努めてくださいね」
静かな、しかし拒絶を許さないトーンだった。
あからさまに怒鳴るわけではない。だが、確実にメアリーに釘を刺していた。
それも当然だ。ここは普通の家じゃない。国を揺るがす名門『アレクサンド公爵家』なのだ。もし跡取りの一人である俺が怪我でもすれば、それだけで大問題になる。最悪の場合、その場にいたメイドや、乳母であるメアリーも即座に解雇、あるいはもっと重い処罰を下されてもおかしくない世界なのだ。
それを考えれば、母上のこの対応は、貴族のトップ層としてはむしろかなり優しい方なのかもしれない。
「――はい。この度は、本当に申し訳ございませんでした」
メアリーは俯いたまま、深く頭を下げ続けた。部屋の空気が、ピリッと張り詰める。
赤ん坊の俺としても、大脱走のせいでメアリーがクビになったら寝覚めが悪い。内心ハラハラしながら見守っていると、
パチン、と小気味いい音が部屋に響いた。
ヴェルディアが両手を叩き、パッと明るい、いつもの優しい母親の顔に戻って話し始めた。
「さあ、説教じみたお話はここまでにしましょう。お茶の時間が苦くなってしまいますもの。……とはいえ、他の子供たちと比べると、随分と早い成長ですね。元気なことは、とても良いことです」
フゥ、と部屋の空気が一気に弛緩した。どうやらこれ以上のお咎めはないらしい。俺もメアリーも、心の中で同時に胸を撫で下ろした。
メアリーもホッとしたように顔を上げ、俺を見つめながら微笑んだ。
「はい、本当に。もうハイハイを完全にマスターしたと言っても良いくらいに、素晴らしい身のこなしでしたわ。それに、こうして絵本までおとなしく聞いてくださって……この子は、お話の内容も不思議と分かっていそうなんですのよ?」
メアリーが何気なく放ったその言葉に、俺は一瞬、背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
(……おいおいメアリーさん、勘が鋭すぎやしませんかね!?)
いくらなんでも、生後数ヶ月の赤ん坊が「内容を理解して絵本を聞いている」なんてバレたら、天才を通り越して不気味の谷だ。
俺は慌てて三十路の理性を心のゴミ箱に投げ捨て、赤ん坊特有の「あうー? ぶーぶー」という気の抜けた声を出しながら、ヨダレを垂らしてメアリーの手元にある絵本を無邪気にパチパチと叩いて見せた。
ただの「本のおもちゃが気に入っている赤ちゃん」のフリだ。前世での社内政治や、上司の機嫌を伺う日々に比べれば、このくらいの演技はお手の物である。
そんな俺の必死の芝居を見て、ヴェルディアは「あらあら」と嬉しそうに目を細めた。
「ふふ、本当に。この子はクリスティやルクスとは、また少し違った賢さを持っているのかもしれないわね。将来が楽しみだわ」
母上のその言葉が聞こえないくらい、俺は心の中で、メアリーがくれた『魔力』と『詠唱』のキーワードを反芻していた。
とりあえず、監禁生活(お部屋待機)に戻ったのは確定だ。
なら、明日の朝4時のゴールデンタイムは、このベッドの上で、さっそく「魔力を感じる」というタスクを始めてみるとしよう――




