Log_004 約束の不在
問いかけは、結晶の森が放つ電子的ざわめきに吸い込まれた。目の前の「年上の玲」は、諦念と期待が混ざり合った眼差しを向けている。その背後では仮面の群衆が、儀式的な静止を保っていた。
「ここは『原初』。君たちがいた都市という箱庭を維持するための、情報の墓標だよ」
年上の玲が語る。同時に、玲の掌の紋様が灼熱の痛みを伴って脈動した。
《警告:個体識別信号の重複を検知。存在確率が減衰しています》
「玲、危ない!」
透が叫び、玲を抱き寄せた。玲の身体がノイズのようにブレ、背景が透ける。この世界において、同一の定義を持つ存在が二人並び立つことは致命的なエラーなのだ。
「拒絶するな。君が選んだ【C】は、君という個体を世界基幹プログラムへ『昇格』させる申請だった。だが、席は一つしかない」
年上の玲が手を差し出す。仮面の者たちが長杖を突き立てると、三つの月が重なる空から光の柱が降り注いだ。
「昇格……? そんなことのために、透を連れてきたんじゃない!」
玲は叫んだ。自分はただ、あの袋小路から彼女を連れ出したかっただけだ。だが、年上の玲は自嘲気味に微笑む。
「僕も、十九回前の僕も同じことを言った。そしてそのたびに、隣にいる彼女……『透』という名のインターフェースに、その願いを利用されてきた」
透の指先が、玲の腕を冷たく弾いた。彼女は俯き、その身体から立ち上るブルーのノイズが玲の肌を刺す。
「……玲。いいえ、個体番号:神崎玲。ごめんなさい。私の役割は、あなたがこの地点に到達するまでの『重力』になることだったの」
透の声から感情が消える。彼女の制服が情報の断片へと分解され、純白のドレスのような光の衣へと再構成されていく。
「あなたは【C】を選んだ。存在の定義そのものを疑う、最も非人間的な選択を。だから、崩れゆく現実を繋ぎ止める『礎』になってほしい」
透が宙に浮き、二人の間に絶対的な障壁が形成される。
「彼女を責めるな。彼女もまた、この循環から逃れられないシステムの一部だ」
年上の玲の手が玲の胸元に触れ、肉体を通り越して情報の核へと食い込んでいく。爆発的な情報の流入。かつての日常、透と交わした言葉。それらすべてが文字列へと還元され、巨大なアーカイブに吸い込まれていく。
意識の白濁。だが、薄れゆく視界の中で、玲は見た。森の奥から、もう一人の人影が現れるのを。その人物は、玲が捨て去ったはずの黒い端末を握っていた。
《エラー。プロトコル『起源』が発動します》
影が仮面を外した。そこにいたのは、歴史の闇に消えたはずの「観測所」創設者の顔だった。
「まだだ。まだ、この円環は閉じさせない」
彼が端末に触れた瞬間、結晶の森も、空の月も、玲の存在そのものも、ガラスのように粉砕された。
再び落下する意識。だが今度は、砕け散った透の破片が光の粒子となって玲に寄り添い、耳元で何かを囁き続けていた。
次に目を開けたとき、そこは真っ白なキャンバスのような無の世界だった。足元には一通の古い手紙と、動かなくなった腕時計。手紙には玲自身の筆跡で、こう記されていた。
『二十一番目の僕へ。もしこれを読んでいるなら、君はまだ――』
続きは掠れて読めない。だが裏側には、あの屋上で透が飾っていたのと同じ、血に汚れた小さな野の花が貼り付けられていた。
玲は顔を上げた。遠くから、誰かの足音が近づいてくる。
物語は、終わらない。再構成された世界の秒針が、再び不規則に刻まれ始めた。




