第9話 友達
朝、教室のドアを開けた瞬間、私は無意識に依乃を探していた。
ほとんど癖みたいなものになっている。
探しちゃダメだと分かってても、何かを考える前に、体が先に反応する。
視線が教室の奥へ流れて、窓際、真ん中、廊下側と、順番に辿っていく。
──いない。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥がわずかに沈む。
私はすぐに視線を逸らした。
自分で線を引いたのだから。
依乃は、教室にいなかった。
いつもなら、もう来ている時間だ。
席に座って、スマホを見ながら誰かと笑っていたり、後ろから話しかけてきたり……
私は自分の席に向かう。
歩きながら、周囲の音がやけに鮮明に聞こえた。
椅子を引く音。
鞄を床に置く音。
誰かが欠伸をする声。
座って、ノートを開く。
いつも通りの動きだ。
依乃がいない影響なんてない、間違っていない。
それなのに、視界の端に入る空席が、何度も意識を引き戻す。
依乃は、そこにいるはずだった。
私のすぐ近くで、距離を気にせずに。
胸の奥で、何かが小さく動く。
──まだ来てないだけ。
そう言い聞かせる。
理由なんていくらでもある。
ただの寝坊かもしれないし、体調不良かもしれない。
担任が入ってくる。
出欠を取る声が、教室に響く。
「……一ノ瀬は、欠席な」
その一言で終わった。
理由も説明もない。
誰も深く気にしない。
私は、少しだけ息を吐いた。
ほら、何も心配なんてしなくていい。
ただの欠席だ。
授業が始まる。
黒板の文字をノートに写す。
内容は理解できる。
ペンも止まらない。
集中できている。
それが、昨日と同じで、少し怖かった。
私は、依乃がいなくても、日常を回せてしまっている。
それで正しいはずなのに。
休み時間。
私は立ち上がらなかった。
誰の輪にも入らない。
前なら、依乃が勝手に話題を振って私を引きずり出していた。
今は、それがない。
教室の隅で、誰かの声が聞こえた。
「最近さぁ〜依乃ってなんか無理してなかった?」
その言葉に、思わず顔を上げる。
「無理?」
自分の声が、思ったより低かった。
「あー、分かる〜」
「元気なんだけど、ちょっとやりすぎっていうか」
「なんか、謎にテンション高すぎたし」
曖昧な言葉が、軽く重ねられる。
胸の奥で、嫌な感覚が広がる。
無理をしていた。
その可能性を、私は考えないようにしていた。
距離を取ってからの依乃を、私はほとんど見ていない。
見ない方が、楽だったから。
線の外に置かないといけなかったから。
「まあ、すぐ戻ってくるでしょ」
「どうせ、明日になったら元気になってるよ」
話題はそこで終わる。
誰も深掘りしない。
私は、一人廊下からその会話を盗み聞いていた。
昼休み。
依乃の席は、ずっと空いたままだった。
前なら購買に行っているとか、友達のところにいるとか、理由があった。
今日はただ『そこにもいない』
一人で弁当を開ける。
これでいい。
これ以上、振り回さなくていい。
そう思いながら、ふと気づく。
──私は今、依乃のことを何も知らない。
体調が悪いのか。
何かあったのか。
誰と連絡を取っているのか。
何一つ、わからない。
それは、もう友達の位置じゃない。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
放課後。
依乃は、最後まで来なかった。
私は鞄を持って立ち上がり、教室を出る。
いつもより、少し早めに帰る。
駅までの道を歩きながら、何度もスマホを見る。
通知はない。
私が連絡する必要なんかない。
それでも、なにか連絡する理由を探す。
「大丈夫?」
「今日どうしたの?」
どれも、今の私が送るには不自然だった。
私はもう、近い人じゃない。
昨日、自分でそう決めた。
近い人じゃない。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
家に帰って、制服のままベッドに座る。
スマホを開く。
依乃とのトーク画面。
前まで話していた、どうでもいい会話やスタンプで埋まっている。
──これ……友達だったときのやつだ。
はっきりと、そう思ってしまった。
今の私は、その続きに何も送れない。
送ったら、線を越える。
──つまり。
私は、依乃の友達をやめた。
正確には、友達でいられる場所から自分で飛び降りた。
胸の奥が、じわじわと締め付けられる。
好意を向ける人と近づきすぎると、不幸に見舞われる。
何度も繰り返し、結論付けた私の体質。
もう、慣れたはずだったのに。
近い人を失うということが、こんなにも静かで、こんなにも実感のないものだとは知らなかった。
依乃は、今日学校に来なかった。
それだけの小さなことで。
私は、ようやく理解してしまった。
私にとって彼女はもう『何があったのかを自然に聞ける人』ではない。
そのことが……
時間差で、確実に、心を削ってくる。
私は、何もしていない。
何も間違っていない。
──それでも私は友達だった人を、確実に遠くへ送った。
この距離が、このまま固定されていくのか。
それとも、どこかで壊れるのか。
考える資格すらないまま、
私は眠りにつく。
何も起きていない一日だった。
それがただ一番、重かった。




