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第8話 線を引いた先

 朝、教室のドアを開けた瞬間、私は無意識に依乃を探していた。


 それに気づいて、すぐに視線を逸らす。

 探す資格なんて、私にはもうない。



 依乃は、教室の真ん中で笑っている。

 数人に囲まれて、いつも通りの明るさで、いつも通りの声で。


 ──私が昨日線を引いた、その外側で。


 


 胸の奥が、ひくりと動く。


 ああ、ちゃんとそうなったんだ、と思う。


 昨日、駅で確定させた関係。

 私が選んで、依乃が受け入れて、もう戻らない形になった距離。

 


 私は、自分の席に向かう。

 途中で依乃と目が合った。

 一瞬だけ。


「おはよー」


 軽い声。

 手を振る。 


「……おはよう」


 返した声は、思ったより落ち着いていた。


 依乃はそれ以上、何も言わない。

 私のところに来ることもない。 


 それが正しい。

 私が望んだ形だ。



 なのに、席に座った瞬間、背中に冷たいものが張り付いたみたいな感覚が残る。


 前は、依乃が後ろから声をかけてきた。

 意味のない話を振って、私の反応を見て笑っていた。



 今は、ない。

 私が全部消した。

 


 授業が始まる。

 黒板の文字をノートに写す。


 内容は頭に入る。

 集中できている。


 ……それが、余計に怖かった。


 


 私は、ちゃんと日常に戻れてしまっている。

 依乃を日常外に置いて、逃げて。


 


 気づくと、休み時間になっていた。


 依乃は、友達に囲まれている。

 前より少し、声が大きい気がした。

 無理をしている、とまでは言えない。

 でも、必要以上に明るい。

 


 私は、その輪に近づかない。

 近づかない理由は、はっきりしている。


 私から行けば、また線が揺らぐ。

 揺らぐのは、私じゃなくて依乃だ。

 


 それを分かっているから、動かない。


 ……分かっているつもりで、動かない。

 


 昼休み、依乃は誰かと購買へ行った。

 私の方は、一度も見なかった。


 それが、正しい距離の取り方だ。


 一人で、作った弁当を開けながら私は思う。


 これでいい。

 これ以上、依乃を振り回さない。


 私は、ちゃんとしている。


 

 ちゃんとしているはずなのに。

 胸の奥に、昨日から消えない感覚がある。


 何かを守ったはずなのに、

 同時に、取り返しのつかないものを固定してしまった感覚。


 


 私は、依乃を守った。


 ──本当に? 


 答えを出す前に、思考を止める。


 考えても意味がない。

 もう、決まったことだ。


 だから私は、

 考えないまま、午後の時間をやり過ごした。



 放課後。


 依乃はすぐに鞄を持った。


「じゃ、先行くね!」


 誰か、友達と約束があるらしい。


 


「……うん」



 それしか言えなかった。

 引き止める理由なんかない。

 


 教室に一人残る。


 窓の外がやけに明るい。

 校庭の部活の声が、遠くから聞こえる。


 


 帰り道、歩きながら一人考える。


 私は間違っていない。

 人と近づきすぎると、うまくいかなくなる。

 だから距離を取った。



 何度も、考えきた同じ結論に戻る。



 家に帰って、制服のままベッドに座る。


 スマホを手に取る。

 無意識に開いたのは、依乃とのトーク画面。


 最後のやり取りは、昨日。


 それ以降、何もない。



 送る理由なんか何もない。

 遠いだけで、今日も話した。

 どうせ、明日も会う。


 

 なのに、画面を閉じられない。


 依乃の名前を見るだけで、胸の奥がざわつく。

 理由がわからない。

 私は、依乃を嫌っていない。

 むしろ、大切だと思っている。


 だから距離を取った。

 それだけの話だ。

 


 ──なのに。


 今日一日を思い返すと、

 浮かんでくるのは、空白ばかりだった。


 声をかけられなかった時間。

 視線が合わなかった瞬間。

 私がいなくても進んでいく会話。


 


 胸が、ゆっくり締め付けられる。


「はぁはぁ……」 


 上手く息を吸えず、過呼吸になる。

 気づいたときには、視界がにじんでいた。 


「……ぇ」


 

 頬を伝う感触に、遅れて気づく。


 目に涙が流れている。

 理由が、わからない。


 別に、悲しいわけじゃない。

 嫌なことがあったわけでもない。



 私は間違っていない。

 ちゃんと正しい選択をした。



 なのに、涙が止まらない。


 

 スマホを握ったまま、ベッドに顔を伏せる。


 声を出すわけでもなく。

 肩が震えるほどでもなく。


 ただ、静かに、勝手に流れてくる。 


 どうして泣いているのか、自分でも説明できない。



 ただ一つ、はっきりしているのは──

 私は今、自分が何を失ったのかを、理解し始めている。 


 それが何なのか、まだ言葉にできない。

 取り戻したいとも、認めたくない。

 

 それでも、涙が出るということだけが、私の中で何かが壊れ始めている証拠だった。


 

 私は、何もしていない。

 何も間違っていない。


 


 ──間違ってないのに。



 ベッドの上で、理由のわからない涙を拭いながら、

 私は初めて、

 この距離が『正しいだけのもの』ではないと、薄々気づいてしまった。




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