第7話 関係が曇る
依乃が私の名前を呼ばなくなった。
話しかけてはくれる。
明るい笑顔も変わらない。
声の調子も、ずっと元気なままだ。
それなのに「澄香」という音だけが、抜け落ちている。
呼ばれないこと自体は、珍しいことじゃない。
誰だって、毎回名前を呼ぶわけじゃないし、たまたまかもしれない。
そうやって片付けられる程度の違和感だった。
けれど、私はこういう『たまたま』を何度も見逃してきた。
後から振り返ったときに、あれが始まりだったのだと気づく、そういう小さな歪みを。
だから、気づいてしまう。
──私を呼ばない声。
──私を見ない視線。
それらが、意図的に組み立てられていることに。
それらを、私自身が作り出してしまったことに。
放課後、教室には私と依乃しか残っていなかった。
私は帰る準備を終えているのに、立ち上がれずにいた。
ノートを閉じたり開いたり、ペンケースを整えたり、必要のない動作を繰り返す。
依乃は窓際でスマホを何か見ている。
画面に集中しているふりをしているけれど、肩の力が妙に入っているように見えた。
前なら、この時間は自然に決まっていた。
「澄香〜一緒に帰ろー!」
「うん」
その会話すら、今日はない。
私は自分から声をかけるのが、あまり好きじゃない。けれど、このまま終わらせるのは違う気がした。
「……まだ、帰らないの?」
思ったよりも、溢れた声が硬くなってしまった。
依乃が、少しだけ肩を跳ねさせる。
「え? あ……うん。今行く」
すぐにスマホをしまって、鞄を掴む。
その動きが、どこか慌ただしい。
廊下に出る。
並んで歩く。
会話は、ない。
足音だけが反響して、無意味に大きく聞こえる。
前までは、依乃の声がこの空気を埋めていたはずなのに。
「澄香」
突然、名前を呼ばれた。
それだけで、胸の奥が少し揺れる。
「……なに?」
振り返らずに返す。
「いや、やっぱりなんでもない」
言葉を続けないまま、依乃は前を向く。
その沈黙が、妙に重い。
駅前の信号で足を止める。
依乃は、私より半歩前に立った。
意識的に距離を取った位置。
その背中を見て、私は気づく。
ああ、この距離は私が決めたものだ。
「最近さ」
依乃が、信号を見つめたまま言う。
「澄香って、私のこと嫌いになった?」
息が止まる。
そんなこと、あるはずがない。
私は依乃を嫌ってなんかいない。
──誰よりも、大切だと思っている。
だからこんなに、今までだって依乃のことを考えて────
「……どうしてそう思うの」
問い返す声が、わずかに遅れた。
「だってさ……」
依乃は笑っている。
いつもの、軽い表情。
でも、ずっと目が合わない。
「前より全然、こっち見てくれないじゃん」
一つ、確認するように並べられる言葉。
「それは……」
私は、用意していた答えを思い出そうとする。
正しい理由。
間違っていない判断。
何度も自分を納得させてきた結論。
「嫌いとかじゃない」
「依乃のことは、大事」
それは、本心だ。
「じゃあさ」
依乃の声が、少しだけ低くなる。
「私が近くにいるのって、そんなにダメ?」
胸の奥で、何かがきしむ。
ダメじゃない。
でも、良くもない。
この曖昧な感覚を、どう言葉にすればいいのかわからない。
信号が青に変わる。
人の流れが生まれて、私たちは押し出されるように歩き出す。
「私は──」
言葉が、追いつかない。
「──人と、近くなりすぎると、うまくいかなくなる」
「誰でも?」
「……たぶん」
依乃が、急に足を止めた。
私は数歩先まで行ってから、振り返る。
「それって、私も含まれてる?」
即答できなかった。
否定すればきっと元に戻れる。
でも、否定した瞬間に嘘になる。
──流れる沈黙。
依乃は、少しだけ笑った。
「そっか」
軽い声。
でもその笑い方は、私の知っている依乃じゃない。
「じゃあ、私」
依乃は、一歩前に進む。
「これからもちゃんと、線の外にいるからね」
それは、私が選んだ結果だった。
守りたかった距離。
必要だと信じていた線。
「……依乃」
名前を呼ぶと、彼女はすぐに被せてくる。
「大丈夫大丈夫!」
明るく、いつも通りに。
「前も言ったじゃん! そういうの慣れてるから私」
その言葉が、胸に刺さる。
嘘だ。この子は、慣れてなんかいない。
誰かに距離を置かれる側の人間じゃない。
「また明日ね!」
そう言って、依乃は改札に向かった。
振り返らない。
私は、その場に立ち尽くした。
線を引いたのは、私だ。
選んだのも、守ったのも、全部私。
なのに。
胸に残るのは、安心じゃない。
──私は、何かを取り返しのつかない形で確定させてしまった。
そんな感覚だけが、じわじわと広がっていく。
この日から、依乃は本当に近づいてこなくなった。
それが正しいのだと、私は信じている。
信じていないと、生きていられなかった。
そして私は何も変わっていなかった。
自分しか考えず、その線の向こう側で、依乃がどうなっているのか、私は、もう見ようともしていなかった。




