第5話 もう戻れない
朝、目が覚めたときから、少しだけ調子が悪かった。
体が重いわけでも、頭が痛いわけでもない。
ただ、何かを忘れているような感覚がある。
支度を終えて家を出る。
鍵を閉めたあと、もう一度ドアノブに触れた。
意味はない。
確認したところで、何も変わらない。
それでも、そのまま駅へ向かう気になれなかった。
いつもより少し遅れて学校に着くと、依乃はもう教室にいた。
友達に囲まれて、いつも通り笑っている。
私はそれを見て、なぜか安心する。
依乃は何も変わっていない。
ちゃんと、依乃は依乃のままで、違和感を覚えているのは私だけなことに……
──席に着くと、少し遅れて依乃がこちらを向いた。
「あ、おはよ〜」
「おはよう」
昨日までなら、もう一言何か続いていた会話も、どこかぎこちない。
今日は、それだけで挨拶も終わる。
私はノートを出しながら、視線を落とした。
問題はない。
むしろ、余計な会話がなくて助かるじゃないか。
授業中、背後から視線を感じることがあった。
振り返ると、依乃と目が合う。
彼女はすぐに視線を逸らし、何事もなかったように前を向く。
偶然だ。偶然なんだ。
そう判断して、私は板書に戻る。
昼休み。
依乃は別のグループと食事をしていた。
笑い声が聞こえる。
内容は分からないが、楽しそうだ。
私は一人で席を離れ、廊下の端でパンを食べる。
静かで、落ち着く。
自分のペースを保てる。
それなのに、食べ終わる頃には、好きな味をほとんど覚えていなかった。
午後の体育。
着替えの時間、また依乃と視線が合う。
一瞬、依乃が私に、何か言いかけたように見えた。でも、結局は何も言わず、別の子に話しかけていた。
胸の奥にある小さな引っかかりが、少し
ひび割れた気がした。
私が避けられている可能性を考える。
でも、すぐに否定する。
依乃が、そんなことをする理由がない。
私は、依乃のために距離を取っただけなんだから。
放課後。
今日も一緒に帰らない。
もう、特別なことじゃなくなりつつある。
校門を出る直前、後ろから名前を呼ばれた。
「澄香!」
振り返ると、依乃が立っている。
距離は、縮まらずまだ空いている。
「今日さ──」
そこで、言葉が止まる。
「──やっぱいいや」
「何?」
「ううん。なんでもなかった!」
依乃は笑った。
でも、その笑顔は、いつもよりどこか固い。
「また、明日ね」
「うん」
帰りの電車の中、私はそのやり取りを何度も思い返す。
何を言おうとしていたのか。
なぜ、やめたのか。
考えても考えても、答えは出ない。
夜、スマホを見ても、依乃からの連絡はこなかった。
既読も未読も、気にする必要がないはずなのに、画面を何度も動かして確認してしまう。
私は、自分に少し苛立つ。
距離を取ると決めたのは、私だ。
それを快適だと思っていたのも、私だ。
なのに、なぜ落ち着かない。
布団に入って、目を閉じる。
今日の依乃の表情が、何度も浮かぶ。
笑っているのに、ずっと目が合わない。
話しかけるのに、踏み込まない。
それは、私が望んだ状態のはずだった。
──なのに。
☆
一方で、同じ時間。
依乃は、自分の部屋でスマホを握りしめていた。
部屋の電気はつけず画面も暗い。
メッセージを送る文面は、何度も消した。
近づかない。
触れない。
頼らない。
それが『正解』だって、澄香が言っていたから。
でも、正解なのに胸が苦しい。
誰にも言えない感情が、喉の奥に溜まっていく。
嫌われたわけじゃない。
拒絶されたわけでもない。
ただ、線を引かれただけ。
それなのに、その線が、こんなにも痛いなんて思わなかった。
「……私って、重い女なのかな」
小さく呟いて、依乃は笑おうとする。
それでも、うまく笑えなかった。
澄香の隣にいるときだけ、無意識に深呼吸していたこと。
触れているときだけ、安心していたこと。
それを、今さら理解してしまう。
スマホを胸に抱え、依乃も目を閉じる。
この距離に、慣れなきゃいけないんだ。
慣れれば、きっと楽になるんだし……
そう思おうとするたびに、心の奥で別の声が囁く。
──慣れたら、終わる。
何が終わるのかは、まだ分からない。
でも、依乃はその予感から、目を逸らせなくなっていた。




