第3話 慣れてきただけだと思っていた
依乃が私に触れることは、もう特別な出来事ではなくなっていた。
最初のころは、肩が当たるたびに身構えていたし、腕を絡められればどう反応すればいいのかわからなかった。
けれど、日々が続けば感覚は鈍ってきた。
毎日同じように接していれば、それはいつの間にか日常に変わる。
今の私は、たぶん慣れただけだ。
依乃の距離感に、私の方が順応しただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう考えるようにしていた。
「ねえ澄香ー今日、放課後ひま?」
昼休みの終わり、依乃は机に腰をかけるようにして私の前に来た。
制服のスカートが少し乱れているのも、声が無駄に明るいのも、もういつもの光景だ。
「今日は、用事がある」
「えー、またぁ?」
依乃はわざとらしく声を伸ばす。
冗談半分なのはわかっている。怒っているわけでも、本気で不満なわけでもない。
こういう言い方にも慣れてきた。
「最近一緒に帰ってないじゃーん。依乃ちゃんは寂しいんですけど〜?」
依乃はそう言いながら、私の腕に軽く体重を預けて抱きつく。
この感触にも、もう慣れてしまった。
以前ほど戸惑いはない。驚きもしない。
でも、慣れていいことと、慣れない方がいいことは別物だ……
私は少しだけ体をずらして、依乃との距離を作り目を合わせる
「依乃」
「なにぃ?」
「最近、ちょっと近づきすぎ」
言葉は、選んだつもりだった。
強く言い過ぎないように、でも真剣に誤魔化さないように。
依乃はら私の言葉に一瞬、目を瞬かせるか……
それからすぐ、いつものように笑った。
「あ、そっか……そう、だよね。ごめんごめん!」
軽い。とても軽い返事。
「私さ、人との距離感おかしい! とか、よく言われるんだよねー」
そう言って、依乃は私の机から半歩下がった。
それは、私がさっきまで感じていた圧迫感を、確かに消してくれる距離だ。
胸の奥が、少しだけ落ち着く。
これでいい。
これが正解だ。
私は、人に好かれるほど不幸になる、なぜかはわからない、病気というほどでもなく体質に近い。
そして、それは私自身だけでなく、好意を寄せてくれる相手にも影響が出る。
だから、必要以上に近づかれるのは避けるべきだ。
依乃が私を友達として好いているのなら、なおさらこれ以上彼女に傷ついてほしくはない。
友達としていたいからこそ、この距離は必要だ。
そう思っての判断だった。
依乃はそのまま、何事もなかったように話題を変えた。
昨日見たテレビの話、購買のパンの話、次のテストの話。
声は明るいし、表情も変わらない。
ちゃんと、いつもの依乃だ。
──なのに。
廊下を歩きながら、私は妙な違和感を覚えていた。
さっきまで、感じていた体温がない。
腕に触れていた重さがない。
ただそれだけのことなのに、どうしても落ち着かない。
理由はわかっている。
単に、急に変わったからだ。
人は変化に敏感な生き物とよく言われる。
今まであったものがなくなると、意識してなかったことまで、ないと不自然に感じてしまう。
「澄香ってさ」
依乃が、前を向いたまま言った。
「結構、ちゃんとしてるよね」
「そうかな?」
「うん。ちゃんと言うとこ」
それは褒めているのかどうか、少し判断に困る言い方だった。
でも、依乃の性格からして悪い意味ではないだろうと思う。
「言わない方が、よかった?」
「んーん。全然!」
依乃はにこやかに笑った。
いつもと同じ笑顔だ。
私はそれ以上、何も言わなかった。
言う必要はないと思った。
私は間違ったことをしていない。
依乃のためにも、自分のためにも、正しい距離を取っただけなんだ。
それに、依乃はずっと明るい。
そんな、多少のことでは傷つかないだろう。
彼女は、そういう人だ。
放課後、依乃は本当に私に触れてこなかった。
横を歩く距離も、少しだけ間は空いていた。
私はそれを見て、内心で安堵した。
ちゃんと、伝わって良かった。
ちゃんと、調整することができた。
友達として、依乃と健全な関係に戻れたんだ。
そう、私は思った。
だから、気づかなかった。
依乃が、何度も私の方を見ては、何も言わずに前を向いていたことに。
依乃が、私に触れないように、無意識に自分の服を強く握りしめていたことに。
それを依乃の『配慮』だと勝手に受け取って『成長』だと結論付けて。
私は安心してしまった。
この距離が、依乃にとっては『耐えられない距離』だということも知らずに。




