第2話 距離が近いことは悪いことじゃない
教室に入った瞬間、視界の端で大きく振られる手が見えた。
「澄香ー! おはよ!」
声と同時に距離が詰まる。肩に腕が回され、勢いのまま体が半歩引っ張られた。
「……おはよう」
反射的に返事はするけれど、私はそのまま一歩だけ体の位置をずらす。拒絶ではなく、位置の調整。依乃はそれを特に気にした様子もなく、腕を外すこともない。
この距離感に、意味を見出そうとしないこと。
それが、私の中でいつの間にか出来上がった対処法だった。
依乃は昔からこうだ。人との距離が近く、感情表現が大きくて、思ったことをそのまま形にする。その振る舞いに深い意図があるかどうかを考え始めると、きりがないし、たいていは考え損になる。
だから私は、考えない。
「今日さ、数学の小テストあるんだって。聞いてた?」
「聞いてない」
「だよね。先生ほんと不意打ちすぎ」
笑いながら席に着く依乃を横目に、私は鞄を下ろす。
朝から特別な違和感があるわけではない。ただ、いつも通り少し近いだけだ。
昼休みになり、購買へ向かう流れも自然に決まる。依乃は当然のように隣に来て、人混みの中で私の腕を掴んだ。
「ちょっとごめんねー」
引っ張られる感覚に、足元へ意識が向く。転ばないように、周囲に迷惑をかけないように。私はそういうところばかりが先に気になる。
「依乃、先行っていい」
「えー、はぐれたら嫌じゃん」
「すぐ後ろにいる」
「それが嫌なんだって」
理由は分からない。
分からないけれど、無理に聞くほどのことでもない。
腕を外して人混みの端へ寄ると、依乃は一瞬だけこちらを見て、すぐに笑った。
「澄香って、ほんと慎重派だよね」
からかうような口調。責める色はない。
それなら問題はない、と私は判断する。
購買でパンを選び終えた頃、依乃がカバンを覗き込んで首を傾げた。
「あれ、財布なくない?」
「……」
「まじでどこだろ」
探してはいるけれど、切迫感はない。その様子を見て、私は一瞬迷ってから、余分に買ったパンを差し出した。
「半分」
「え、いいの?」
「余ってるから」
「助かる〜。澄香、ほんと優しい」
距離がまた縮まる。肩に体重を預けられ、私は歩きやすい位置へと少しだけ体をずらす。拒絶ではない。ただ、これ以上近いと不安定になる。
教室へ戻る途中、乾いた音がして、依乃のスマホが床に落ちた。拾い上げると、画面の端に細いひびが入っている。
「……まあ、使えるし」
依乃はそう言って気にしない。
私は、その反応に何も言えなくなる。
偶然だと分かっている。原因を結びつける理由はない。それでも、私と一緒にいると、こういう細かい不運が重なることがある、という事実だけは、何度も確認してきた。
だから私は、距離を取る。
それが、私なりの誠実さだ。
放課後、駅までの道を並んで歩く。依乃はまた私の腕に絡んでくる。
「ねえ澄香、冷たくない?」
「暑いだけ」
私は腕を外し、歩幅を少し変える。
「依乃。友達なんだから、もう少し距離があってもいいと思う」
「なんで?」
「近すぎると、周りに変に見られる」
「別にいーじゃん」
「私は、あまり良くない」
依乃は少し黙って、それから笑った。
「相変わらず真面目だね」
駅が見えてくる。
「ここまで」
「そっか。じゃあ、また明日」
「うん」
それ以上、言葉を足さない。
距離は取った。
必要な判断はした。
私は、依乃を大切に思っている。だからこそ、これ以上近づいて、理由の分からない何かを壊したくない。その気持ちは確かにあるのに、それがどういう感情なのかを、私はうまく説明できない。
名前をつけられないものは、扱えない。
だから私は、今日も距離という形で整理する。
それが正しいと、信じている。




