第10話 どっちつかずの作戦
結局、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、昨日のことが繰り返される。
依乃が来なかった教室。空いた席。
誰も深く気にしないふりをして、でも完全には無視できていない空気。
あの一席が空いているだけで、教室の形が少し歪んで見えた。
だから私は、朝の時点でもう決めていた。
今日は、近づかない。
話しかけない。
目も合わせない。
それは罰じゃないし、意地でもない。
作戦だ。依乃のために考えた。
そう言い聞かせながら、制服の袖を整える。
鏡の中の私は、いつもより落ち着いて見えた。
少なくとも、そう見えなければいけなかった。
昨日、一日中考えた。
どうしたら、これ以上壊れずにいられるか。
どうしたら、依乃を不幸にしないで済むか。
答えは、簡単だった。
──もっと、距離を取る。
私が言った『近すぎる』という言葉が、どれだけ彼女に影を落としたかなんて、本当は分からない。
でも、依乃は私の言葉を守っている。
無理をして、守っている。
それを、私のほうから壊すなんて。
そんなの、身勝手すぎる。
だから私は、ちゃんと悪者になる。
嫌われてもいい。
誤解されてもいい。
依乃が、これ以上私に縛られないなら。
──そう言えば、少しだけ楽になる自分がいることには、気づかないふりをした。
学校までの道を、少し遠回りした。
昨日までなら選ばなかった曲がり角。
人通りが多くて、視線を避けやすい道。
ここを通れば、会わない。
そうやって、頭の中で地図を引き直す。
依乃の行動パターンを思い出しながら、重ならないルートを探す。
──何時ごろ校門を通る。
──昇降口は、だいたい右側。
──朝は誰かと話していることが多い。
考えてから、はっとする。
私、いつからこんなことを覚えていたんだろう。
でも、やめられない。
避けるためには、知っていないといけない。
教室に入ると、今日は依乃がいた。
何事もなかったみたいに、席に座っている。
一瞬、心臓が跳ねる。
それだけで、昨日の決意がぐらつきそうになるのが分かって、私はすぐに視線を逸らした。
黒板。机。窓の外。
どれも、必要以上にじっくり見る。
依乃のほうを見なければ、話しかけられることもない。
そう信じて。
でも、視線を感じる。
見られている、というより探されている感覚。
名前を呼ばれる前に、私は席に着いた。
鞄を置いて、教科書を出して、机の中を整理する。
やることを作って、心の隙間を埋める。
「……澄香」
小さな声。
聞こえなかったふりをした。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
でも、立ち止まらない。
これは依乃のため。
私は、間違ってない。
──そう言い切らないと、立っていられなかった。
授業中、ノートを取るふりをしながら、私は別のことを考えていた。
今、依乃は何を考えているんだろう。
どんな顔をしているんだろう。
考えないようにしているのに、勝手に浮かぶ。
ページの隅に、意味のない線を引きながら、時計を一度だけ見る。
まだ、同じ教室にいる。
──だから、私はダメなんだ。
休み時間。
私は席を立つタイミングをずらした。
人が多い方へ、わざと紛れる。
依乃が近づいてくる前に、距離を作る。
それなのに、背中が熱い。
一度だけ、振り返りそうになって、慌てて首を止めた。
見たら終わりだ。
見たら、今日一日をやり直せなくなる。
昼休み、私は屋上にも中庭にも行かなかった。
教室に残るのも危険で、図書室も避けた。
最終的に選んだのは、普段使わない空き教室。
誰もいない場所で、やっと息を吐く。
「……疲れた」
声に出した瞬間、少しだけ可笑しくなる。
誰とも話していないのに、どうしてこんなに疲れるんだろう。
正しいかどうかじゃない。
必要なんだ。
そう言い切る前に、
──必要だと思い込まないと、私が壊れる。
そんな言葉が、頭の端をかすめた。
午後の授業が終わる頃、依乃はほとんど私に話しかけてこなかった。
それが、胸に刺さる。
私が距離を取ったから。
ちゃんと、伝わっているから。
なのに、安心よりも先に来たのは、不安だった。
このまま、私がいなくても回るようになるんじゃないか、という。
放課後、依乃は誰かと話していた。
私が知らない子。
笑ってはいない。
でも、確かに私じゃない。
それを見た瞬間、頭の中が白くなる。
──良かったじゃない。
そう思おうとして、言葉が喉で止まる。
依乃は、私以外の場所を見つけ始めている。
それでいい。
それが正解だ。
なのに、胸の奥が、ゆっくり沈んでいく。
帰り道、気づいたら、涙が出ていた。
泣く理由が分からない。
悲しいわけじゃない。
失ったと、まだ認めていない。
それなのに、これは――
ちゃんとした涙じゃない、という感覚だけがある。
戻れないと分かった人間が、遅れて出す反応。
そんな名前のつかないもの。
依乃を守るため。
自分を壊さないため。
そのはずなのに。
振り返らないまま歩きながら、私は初めて思った。
──私、ちゃんと距離を取れてるのに。
──どうして、全部把握していないと落ち着かないんだろう。
答えは出さない。
出したら、今日の作戦が崩れるから。
だから私は、振り返らない。
ただ胸の奥で静かに、何かが次の段階に入った気がしていた。




