第1話 たぶん、友達としては理想的
私の人生には、いつも小さな引っかかりがある。
派手な不幸ではない。誰かに同情されるほどでもない。
ただ、ほんの少しだけ、なにか噛み合わない。
靴ひもが切れるタイミング、信号が変わる速さ、電車の扉が閉まる瞬間。
どれも偶然で説明できる程度のことばかりだ。
それでも、小さな引っかかりが重なると、人はそれを『運が悪い』と呼ぶらしい。
今朝もそうだった。
駅に着いたとき、電車はすでに走り出していた。
私はホームのベンチに座り、急ぎ足で乱れた呼吸を整えながら、これで今日の流れは決まった、と思う。
経験上、最初につまずいた日は、その後もだいたい同じ調子で進むからだ。
私は、ため息はつかないようにしている。
ため息をつくと、次の不運が来るから。
理由は分からないけれど、私の中ではもう何度も統計が取れている。
「はぁ……」
それでも、少しだけ息が漏れてしまった。
「うわ、その顔。絶対なんかやったでしょ〜」
声をかけられて、顔を上げる。
友達の『一ノ瀬依乃』が、こちらを見て笑っていた。
朝から元気すぎるくらい元気で、制服の着方はだらしなく、でもそれを気にしている様子は一切ない。近くにいるだけで、空気が一段明るくなるタイプの人間だ。
「もしかして、電車逃した?」
「……うん」
「はいはい、まぁですよねー」
納得したように頷かれる。
私の不運は、彼女にとってはもうお決まりのネタらしい。
依乃は迷いなく、私の隣に座った。
距離が近い。
最初からずっと、こうだ。人との距離感が壊れているというより、そもそも測っていない。
「じゃあさ、次のやつ一緒に行こうよ! 私も待つわ」
「それは、やめた方がいい…」
「え、なんで? 別に急いでないし〜一本くらい誤差じゃん」
誤差。
そう思えるのが、たぶん彼女の良さなんだろうと思う。
私は、誰かの『誤差』を少しずつ削ってしまう。
その結果が、後からまとめて返ってくることを、何度も見てきた。
友達が失敗した進路。
偶然重なったトラブル。
なぜかうまくいかないタイミング。
私が関わらなければ、きっと違った未来があった。
そう思う出来事が、あまりにも多かった。
だから私は……友達と、家族と、人と距離を取る。
誰かに好かれないように、深入りしないように、無意識のうちに線を引くようになった。
「なんか、最近さぁ」
依乃が、肘をついてこちらを覗き込む。
「澄香、ちょっと冷たくない?」
「っ……そうでもないと思うけど」
「絶対そうだって! 前はもっと一緒にいたじゃん」
言われて、記憶を辿る。
確かに、以前は帰りも、休み時間も、もっと一緒だった。でも、それは私がまだ、彼女を危険だと思っていなかった頃の話だ。
「依乃は、別に悪くない」
気づけば、そう口にしていた。
一番角が立たない言い方を選んだつもりだった。
相手を否定せず、自分の問題に消化するための言葉。
でも、依乃は少しだけ目を丸くする。
「……なにそれ。なんか、私が地雷踏んだみたいじゃん」
「そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ、どういう意味?」
声は軽い。
でも、問いだけは真っ直ぐだった。
私は言葉に詰まる。
体質の話をするつもりはない。
信じてもらえない、なんて思わない。
逆に、依乃はきっと私の体質を信じてしまう……だから、彼女がこれ以上、私に時間を使わない方がいい。それだけだ。
「一緒にいると、依乃、損することがあるから」
淡々と言ったつもりだった。
感情を乗せないように、嘘ではない事実だけを。
「損?」
「運とか、タイミングとか。そういうの」
「ふーん、なにそれ〜」
依乃は笑った。
いつも通り、明るく。
「澄香ってさ、ほんと変なとこ真面目だよね。運とか気にするタイプだったっけ?」
その笑顔を見て、少しだけ胸が緩む。
ああ、やっぱり。
依乃は、友達として私を大事にしてくれている。
「じゃあさ」
依乃は、何でもないことみたいに続ける。
「どこまでならいいの?」
「……どこ、まで?」
「一緒に待つのはダメで、帰るのもダメ。じゃあさ、どこまでならセーフなの? 澄香の隣」
その問いに、すぐ答えが出てこない。
私は線を引くのは得意だけど、その線を言葉にするのは苦手だ。
はっきり拒絶すれば、相手を傷つけてしまう。曖昧にすれば、変な期待を持たせちゃう。
どちらも、私のやり方じゃない。
すると、電車がホームに入ってくる。
風が吹いて、依乃の髪が揺れた。
その光景を見ながら、私は思う。
この子は、優しい。
だから、私を気にかけてくれる。
私はそう信じている。
信じたいというより、疑う理由がない。
だからこそ、今のうちに距離を調整しなければならない。
好かれすぎる前に。
誰かの運を、私のせいで削ってしまう前に。
それが友達でも、家族でも、同じことだ。
――少なくとも、私はそう思っている。




