雪は静かに窓の外
名前の読み
詩乃:しの
柚子:ゆず
その日――クリスマス・イヴ。
午後から降り始めた雪のせいで電車が遅延し、本当だったら六時には家に帰れていたはずが、六時半になってしまった。
『雪で電車遅れちゃった。ちょっとだけ帰り遅くなるね』
柚子は電車に乗る前、家で一人待つ夫の詩乃にチャットメッセージを送った。
メッセージはすぐに既読になり、『わかった。気を付けて』という短い文が返って来た。それから『足元滑るからね』の一言がメッセージ欄の下にぽん、と追加される。
柚子は、ホームの列に並びながら、詩乃の気遣いへの返事を考えた。
マンションの二階。そこでは今日も詩乃が、料理を作って待っている。今日は一体何を作ってくれているのだろうと、柚子はわくわくしながら我が家に帰宅した。家に入り、着替える前に一旦「ただいま」と、リビングに顔を出す。
詩乃がどうしているのか、やはり気になる柚子だった。
詩乃は、一人掛けのソファーに座っていた。いつも食事をしたり、寛ぐのはゆったりした二人掛けソファーである。詩乃がその一人掛けに座るのは、考え事をする時だ。
詩乃の職業は作家である。
そして詩乃は、作家のステレオタイプに漏れないような人物だ。
いつも大抵、何事か考えている。
ところが、今日は違った。
一人掛けのソファーに座っている詩乃は、あろうことか、目を真っ赤にして、泣いていた。
テッシュで涙を拭き取っている。
「え、どうしたの!」
柚子は一瞬驚いて固まった後、急いで詩乃のもとに歩み寄った。
詩乃は鼻を鳴らし、涙を拭き取って俯いている。
何も応えない。
「えぇー、何かあったの?」
どうしたのだろうと、柚子は困惑しながら、詩乃の腕に触れた。
どこか痛い、具合悪い、熱がある……何だろうと思った。これまでも詩乃の泣いている所は幾度か見ている柚子だったが、詩乃が涙を流すのはいつも、精神的に相当追い詰められている時である。
「ちょっと、着替えてくるからね」
柚子はそう言うと手洗いうがいを済ませ、自室で部屋着に着替えてから再び詩乃の元に戻った。
詩乃は相変わらず、俯いている。
もう涙は流していないが、すっかり塞ぎ込んでしまっている。
ケーキを崩してしまった、だとか、料理を失敗してしまった、という可能性も考えて、柚子はリビングに戻るときにキッチンを確かめたが、冷蔵庫の中にはケーキの箱が乱れた風もなくきちんと入っていて、その上の段には可愛らしいカナッペが、ラップの皿に整列していた。
オーブンにはローストチキンが、すでに焼き上がった状態で保温されていて、鍋にはオレンジ色の鮮やかなキャロットスープが用意されている。
ソファーの前のテーブルも、皿やグラス、フォークやナイフの準備はばっちりだ。丸っこいクリスマスキャンドルにも火が灯っている。テーブルクロスもいつもと違う赤白チェックの特別仕様。夕食の準備は、万端に整えられている。
それなのに、一体どうしたというのだろうかと、柚子は余計に心配になった。
「具合悪い?」
柚子はそう訊ねた後、ひとまず詩乃を二人掛けのソファーに移動させて、その隣に座った。
詩乃は、小さく首を振った。
「小説のこと……?」
柚子は、恐る恐る訊ねた。
今詩乃は、来年五月の出版に向けた小説の改稿作業をしている。
その出版の話が、無くなった、とか……?
しかしこれは違った。詩乃はこれにも、首を振ったのだ。
じゃあ何だろうと、柚子は考えたが、見当もつかなかった。わからないので、柚子はとりあえず詩乃に体重を預けながら横から抱きしめて、その顔を覗き込むことにした。
こういう時、柚子はじっくり待ったほうが良いという事を心得ていた。
こっちから喋ってしまうと、かえって混乱させてしまう。
やがて詩乃は、煙草でも吸うかのように口元に手を当てて、目を伏せたままぽつりと言った。
「いつか、こうできなくなる日が来るのかと思うと、何か……」
詩乃はそう言うと、口に当てていた手を下ろし、両手を腿の上で握った。
柚子はそんな、凍える様な様子の詩乃の手を、堪らず握った。そして柚子は驚いた。本当に詩乃は、震えていた。
「先の事考えすぎだよ」
柚子は、詩乃の頬に自分の頬をくっつけた。
いつもならそういう風にすると、詩乃が、自分を抱きしめてくれることを柚子は知っていた。しかし今日の詩乃は、体を窄めて震えているばかりだ。
柚子は、詩乃の首に手を回して、詩乃の頭の後ろを撫でた。
そうすると詩乃も、少し顔を上げた。
詩乃は、まつ毛が触れ合うような距離で柚子と目が合ったのに驚き、柚子はそんな詩乃の反応が可笑しくて笑った。
詩乃は、柚子の伸ばしている腕の部屋着の袖に顔をうずめ、
「柚子がこのまま、帰ってこなかったらって、思ったんだよ」
顔を隠しながら言った。
「大丈夫だよ、絶対帰ってくるよ」
柚子は、詩乃の子供のような心配に笑ってしまった。
しかし柚子は、その、詩乃の子供の部分が好きだった。人付き合いを鬱陶しがり、人間とは何か、人生とは何か、というようなことを年中考えているような難しい人だけれど、その心の純粋なのは、自分が一番よく知っていると柚子は自負していた。
「わかってるんだけど、でもね、やっぱり……」
詩乃はそう言ってまた黙ってしまった。
そうなるともう、後は柚子が想像するしかなかった。しかし柚子には、詩乃が何を不安に思っているのか、解るような気がした。
いつだったか、あるいは何度か、柚子は詩乃が「自分には幸せになるような資格があるのだろうか」という疑問を口にしたのを記憶していた。
詩乃は、母を中学生の頃に亡くし、父を高校三年生の時に亡くしている。詩乃の父の葬儀には同級生だった柚子も出席したが、詩乃は最後まで涙を見せなかった。詩乃は、母をないがしろにしていた父親を、最後まで憎んでいた。
しかしそれだけではない。詩乃は父を憎みながらも、家族の思い出を、ずっと大事に持っている。結局詩乃は、父の闘病生活を支え、父への憎しみの言葉は最後まで胸の中だけにしまっていた。
――小学生の頃は、うちもちゃんと家族だったんだ。
高校の時、付き合っていた頃、詩乃のその言葉と、その時に見せた懐かしむような、そして寂しそうな表情を、柚子は十年経った今でも鮮明に覚えていた。
柚子は、詩乃の身体を強く抱きしめた。
こんなに優しい人なのに、詩乃君は自分が幸せになるのを怖がっている。全然自分のせいじゃないのに、母の死も父の死も、そして家族が壊れてしまったのも、全部自分のせいだと抱え込んでいる。自分だけが幸せになるのを、申し訳ないなんて、詩乃君はたぶん思っている。
クリスマス・イヴという今日。
二人で迎える四度目のクリスマス・イヴ。
一度目は付き合いたての高校二年生の時。そして二度目は、別れる前の高校三年生の冬。家に誰もいないというのに、私も、もう詩乃君になら何をされてもいいと心に決めていたのに、詩乃君は雪が降る中、帰って行ってしまった。
そして三度目は去年、十年ぶりに再会した一年前の今日。
それから一年が経った今は、今までで一番温かいクリスマス・イヴ。
「明日になるのが、怖い……」
詩乃が呟いた。
「なんで?」
「今のままがいい。ずっと、こうしていたい」
柚子は、こんなに切羽詰まった、そして弱弱しい詩乃を見るのは初めてだった。普段はむしろ、超然として自分を支えてくれる。嫌なことがあった時、落ち込んで帰ってきた時、詩乃君はいつも話を聞いてくれて、動物の話や植物の話や、虫や地球や、ものすごく大きなスケールの話をして私を楽しませてくれる。
そんな詩乃君が、今日はこんなに頼りない。
「じゃあ、ずっとこうしていようよ」
柚子はそう言って、詩乃の頬に、ちゅっと唇を付けた。
すると詩乃は、一旦体を柚子から離して、そうして、柚子の手を改めて握りながら、
「どこにも行かないで」
そう言った。
柚子は、詩乃の手を握ったまま、きゅうっと、心臓が締め付けられるような感情を覚えた。
――どこにも行かないで。
一年前、再会した後、柚子は自分が詩乃にそう言ったのを覚えていた。その後も何度か、特に去年の冬から春にかけて、精神的に参って休職していた頃には、日常的にそんな確認を詩乃君にしていた気がする。
しかし詩乃が自分に、その言葉を言ったことは、柚子の記憶では今まで一度も無かった。
柚子の顔は、詩乃の縋るような目に見つめられて、みるみる赤くなった。
柚子は自分でも、顔も首も熱をもっていくのがわかった。
「どこにも行かないよ」
柚子はそう応えると、詩乃の唇を塞いだ。
――私の魂の欠片。貴方を置いてどこかへ行くなんて、もうあり得ないよ。
柚子はそんなことを想いながら、ぷはっと長い口づけから詩乃を解放した後、見つめ合ってにこりと笑った。