第八話 新興宗教グノルシア
夕陽の橙色に染められた庭園に少女達の凛とした声が響く。
「1、2! 1、2、3、4!」
「ファイオー! ファイオー!!」
声に遅れてジャージ姿に銀色の髪を靡かせた可憐な少女に続いて赤髪の凛とした少女が息を切らせながらも軽快な走りを見せていた。
彼女達は賢者とも呼ばれるゾーラによってランニングしなくては気が済まない強力な呪に囚われ、嫌々ながらも何故か体育会系の掛け声を発しながらハイペース気味にデモンズゼッド邸の庭園を飛ばしていた。
「1、2! 1、2、3、4!」
「ファイオー! ファイオー!!
……なんなの? この掛け声!」
「……マリア様、喋るとよりしんどいですよ
ゼェ……ゼェ……」
マリアは運動は苦手ではないし、カリンも普段から鍛えてはいるがそんな少女達でさえ音を上げるようなペースで2人はランニングを続ける。
屋敷の主人である黒鬼の男は窓の側に立ちそんな2人の様子を眺める。
万一何かあった時のために見張っているつもりであったが、文句を垂れながらも割と楽しそうに走る彼女らを見ていると入国以来気を張り詰めていた彼女たちの気分転換にもなりそうだ、とも思う。
「あの子らはガキの時分から一緒なもんでな。マリアにとってカリンはもう1人の姉妹みたいなもんさ」
背後からの老婆の声にアグレアイオスは半身になって振り返る。
橙色に照らされ、廊下をボチボチと歩きながらこちらにやってくる、彼女たちに魔法をかけた当の本人であるその老婆もまた、アグレアイオスの隣に来るとにこやかに2人の様子を窓から眺めた。
「……憚りながら、殿下には実の妹君も居られると聞きました」
エルフの王族としても隠しているわけではないのである程度の家庭事情はアグレアイオスも察している。
老婆は目を細めながら頷く。
「母親である王妃を早くに亡くしてからはそれはもう妹君を大変な可愛がりようでなあ……
総長さん、あんたの目にはあの子は我儘でいけすかない小娘に見えるでしょう?
あの子はあれで重責を感じておるのです。
その時が来ればちゃんとやれる子なのです」
深い愛情のこもった声音にアグレアイオスは窓の外を見つめながら首を縦に振る。
「僭越ながら、短い邂逅ではありますが存じております」
その答えに満足したようにゾーラは皺を深くしながら笑みを濃くする。
「エルフと魔族、なかよう出来るとええな」
ええ、と小さく、しかし力強く黒鬼の総長は肩まで伸ばしたその黒髪を橙色の光に照らされながら答えた。
ゾーラはふふ、と笑いながら満足そうに彼女達と黒鬼を見比べる。
「まずはあんたが姫様の友人になってやってくだされ。
……あの奔放さに辟易してなければ、の」
「殿下の奔放さは魅力であるとおもっています。
不遜ながら、私もそう在りたいと願っております」
「いい返事じゃ。安心したわ。では少し占いの話をしようかね」
そういうとその不思議な魔術師は廊下を奥の方へと歩き出し、唐突なその言葉に怪訝そうな表情を浮かべるアグレアイオスに向けてちょいちょい、と手招きを一つした。
◇
スラム街の片隅にひっそりと佇む寂れた小さな教会に闇の帳が降り、静寂の中に低く轟くような不気味な声がボソボソと聞こえてくる。
その言葉に意味はない。
「……テヘン、ガグスバルゥ」
テーブルの前につく数十人の教徒を前に延々と続くその説教とも言えぬくたびれた白衣の老人の意味のない言葉の羅列はこの教団における夕食の前の恒例行事である。
言葉の意味は信者達が各々勝手に解釈し、教義とするのだ。
やがて程よいところで両手を打ち鳴らす音と少女の朗らかな声が重々しい説教を遮る。
「さて、教祖にありがたいお言葉を頂いたところで」
聖女と呼ばれるその作られたような整った風貌の白い聖衣を纏った少女は薄い笑みを浮かべ立ち上がり講堂前のテーブルに居並ぶ信者達を見渡す。
右眼は血のように赤く瞬き、左目は怪しく紫色に爛々と……見る者を刺すように、そして包むように見つめるその瞳は信者達に不安と依存を与える。
そして笑みを浮かべた聖女が目頭で合図すると隣に座った紫髪の男が立ち上がり後を引き継ぐように面倒くさげに言葉を続ける。
「メシの前に明日のお掃除の割り当てだ。確認しろ。サボったらすぐわかるからな?」
ペッパーと呼ばれるその男はそう言ってとある地図と何かが書かれた紙を信者達の方へと放り出す。
その紙片を渡された信者達は表情を動かさずじっと見つめ、そして回覧板のように信者の間を回していく。
「全ては新しい全能の神グノルシアの御為に…… 街を美しくしましょうね?
明日は早いですよ」
笑みを浮かべる聖女の声に信者達の一角から深く頭を垂れ小さな返事が返る。
明日のお掃除当番たちからの返事だ。
「じゃあ役立たずだったあいつらのお掃除をよろしくね」
そして聖女は月明かりと蝋燭に照らされた美しい笑みで今日の夕飯前の挨拶を締め括った。
数年前にスラム街で自然発生した新興宗教グノルシア。
彼らはただスラム街の一角でただ黙々と掃除を続けていた認知能力のない1人の老人を勝手に教祖に祭り上げ、今では推定5000名は所属していると言われる一大勢力を築いていた。
その教団の影は今、ガストリスを呑み込もうとしている。