第六十二話 揺れる灯
長いテーブルが鎮座する薄暗闇の部屋にランプの灯りだけが揺らめく。
一通りの書類仕事や、明日の警備計画を纏め終わり、アグレアイオスは休憩時間にリビングの一つで温い茶を啜っていた。
そうしていた所へノックと共に、ふらりと見知った老婆が現れた。
「少しお時間いいかね、総長さん」
「はい、何でも伺いましょう、ゾーラ殿」
ゾーラはアグレアイオスの真向かいの席に着くと、彼が給仕を呼ぶのを制し、穏やかな顔でテーブルの上の橙色のランプをそっと見つめた。
「マリア殿下のことだが、先日のお二人の逃避行以来、時折りぼうっとしておられる」
アグレアイオスはその言葉に、心配そうに眉を顰める。
「……逃避行などと ご体調が優れないのですか? なるほど、今日は殿下と廊下ですれ違っても、顔を伏せたまま、挨拶しか交わして頂けませんでした。活発な殿下らしくありません。それは大変です」
ゾーラは苦笑のような表情を浮かべ首を横に振った。
「いいや、そうではない。殿下はご健康そのものじゃ。明日以降の公務には差し支えないよ」
「では、殿下はどうされたのです?」
「あんたのせいじゃよ」
「……私ですか?」
意外な言葉にアグレアイオスは、ゾーラの目を見つめる。
冗談では無さそうだ。
一方、ここまで言ってまだピンとこないらしいアグレアイオスにゾーラは心の内でやれやれ、とため息をついた。
「あの子は正しくガラスの温室で育てられたお姫様じゃ。文字通りな。お転婆な面はあるが、全く異性に免疫がない。少しの時間だけだが、アンタと夜の冒険をしてアンタのことを気にしておるようじゃ」
「恐れ多いことです…… ゾーラ殿の考え過ぎでは? 私など殿下に気にかけてもらう価値はありません」
「おい、お前らはなんでそうも揃って自己評価そんな低いんじゃ」
ゾーラはため息を吐き、苦笑を浮かべる。
「あの子は奔放じゃが、結局は周りのために我慢できる子じゃ。これ以上、あの子からアンタに触れることはないだろう。だがな、少しでいい。あの子の気持ちのことも意識の隅でもいいから置いておいてくれ。忙しい警備計画の合間に申し訳ないがな」
「……はい、本当に恐れ多いことですが」
そう言って椅子から立ち上がり、短い会話を切り上げるゾーラの真意がよく分からず、アグレアイオスは怪訝な顔で見送ろうとする。
帰りがけにゾーラは扉の取っ手に手をかけたかと思うと振り返り、じっとアグレアイオスの目を見つめた。
「なあ、アグレアイオス閣下。もしアンタの今の仕事とマリア様の王配としての地位、選択することになったらどちらを選ぶ?」
不意打ちのようなその質問にアグレアイオスは、困惑し、答えられない。
ゾーラと言えば、先々代の王妃の頃からガル王家に仕えるズィーゲン王国の重鎮である。
冗談とはいえ、答え次第では外交問題になりかねない。
アグレアイオスは眉を寄せながら、間を置いて答える。
「……困ります 余りにも不遜過ぎます。その様なお戯れは」
しかし、ゾーラは満足そうに微笑むとアグレアイオスの困り顔を見遣る。
「逡巡なされたな。即、断る事は出来なかった。それが貴方の本当の気持ちじゃ。……私はいつでもマリア様の味方。彼女が望むなら、どのような手を使ってでも穏やかな暮らしを送らせてあげたいと考えておる。というわけで、この老人の戯言、意識の片隅にでも置いてくだされ」
(……担がれたのか?)
一瞬そう思ったが、しかし、ゾーラの表情は柔らかく、嘘や揶揄いの気配はない。
この老婆は王女が本気で望めば、王位継承権を返上して隠遁生活を送ることさえ笑って受け入れるだろう。
ゾーラはマリアを一国の王女殿下である前に、1人の少女として見ているらしかった。
アグレアイオスは胸に手を当て、慇懃に礼を執る。
「……わかりました 先日の不躾、改めてお詫び申し上げます」
「構わんよ、あれほど高揚した彼女の顔は近頃ではついぞ見たことがなかった。……礼を言う。ではな」
答えに納得したらしいゾーラは、リビングを後にし、見送ったアグレアイオスは息をつき、更に眉間に皺を寄せながら椅子に再び腰掛けた。
「……難しい話をされる」
◇
デモンズゼッド邸の風呂は広く、この時間は、ズィーゲン王国の侍従であるエルフの女子たちの入浴の為に割り当てられていた。
湯煙が燻る広い風呂場に、エルフたちの特徴である白い肌と美しい髪がうっすらと映える。
マリアはシャワーで身体を流すと、隣のカリンの前のボディーソープを指さす。
「ねえ、カリン。そこのボディーソープをとってくれない?」
カリンは黙ったまま、無表情でマリアに手元のボディーソープを手渡した。
そして、機嫌悪そうに泡立てたスポンジで自分の身体をまた、洗い始める。
昨晩、警護計画から外れ、マリアがアグレアイオスと共に森の牧場に出かけた際には、警護の者たちは皆心臓がひっくり返るような思いをしたのである。
カリンを始め、幾人かの侍従たちはマリアに対し、少し不満を抱いていた。
昨晩からカリンは、マリアとほとんど口を聞いていないのだった。
マリアはカリンの態度にムッとしながらも、しかし気遣わしげにその顔を見つめる。
「……カリン いつまで怒ってるの? 謝ったでしょ? もう機嫌を直してよ」
カリンはふう、と頭を振りながらマリアの碧眼を見つめ返す。
「どれだけ言ってもフラフラと出歩く殿下の悪癖はなおらないでしょう? 私、国に帰ったら近侍をやめようと思いまして」
「えっ……?」
驚くマリアに更にカリンは続ける。
「もし、貴女に何かあれば私の責任です。もうね、疲れたんですよ。プレッシャーですよ、殿下の近侍は」
マリアは瞳を揺らせながら、カリンのうんざりだといった表情を見遣った。
「……カリン」
そして、振り返り、各々湯船に浸かったり、身体を洗ったりしている侍従たち十数名を見遣る。
「皆も昨晩の事は肝が冷えたと嘆いてます。本当に反省してるのですか?」
「だって……」
マリアはそれでも不満そうに、頬を赤らめ眉を顰める。
まだ子どものように駄々をこね、反省しない王女にカリンは仕込んでいた仕置きを試みた。
徐ろに近侍たちを見回し、カリンは大きな声で皆に尋ねる。
「ねえ、もしマリア殿下とソニア殿下の近侍を交代できるとしたら、希望する者ー?」
品行方正であり、大人しいと評判の妹姫のソニア第二王女と、マリア、どちらに仕えたいかという質問である。
全員が微笑み、あるいは渋い顔で一斉に挙手する。
マリアは目を見開き、全員が挙げた手を見遣った。
「……!」
カリンは見たか、とばかりにそんな様子のマリアを満足そうに見遣る。
「これが民意ですよ、マリア殿下。もし、民主制ならダブルスコアでソニア殿下が次期君主ですね。 ……あれ?」
「……うっ うう……! ウグ……! エグ……!」
マリアは美しい両の瞳から涙を流し、手のひらでこぼれ落ちる雫を濡らしながら幼子のように泣いていた。
慌てたカリンはマリアの肩を摩り、あやすように必死に宥める。
「殿下……! あの、ごめんなさい。冗談ですからね?」
しかし、マリアは泣き止まず、ますます号泣する。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!!! みんなが意地悪するよ!! カリン! やめちゃやだぁぁぁぁ!!!」
「分かった! わかった! 分かりましたから! 本当にごめんなさい! マリア様!」
カリンは困ったように浴槽や、洗い場の侍従たちを見遣るが、誰もがあーあ、といった様子で笑い、または困ったように遠巻きに見つめるばかりである。
カリンは思わず憤り、声を荒げる。
そもそもこのお仕置きに加担し、王女を泣かせたのは侍従たちの責任でもあるのだ。
「あなたたちも笑ってないで殿下を宥めて! 共犯ですからね!」
その時、無遠慮に浴場の扉が開かれ、黒い影が勢いよく飛び立つように着地すると、真ん中の岩場に踊りでる。
刀を持ったその老練の剣士は辺りを見回し、一喝する。
「どうした⁉︎ 何事じゃ! 殿下! 無事ですか⁉︎」
マサヒデがマリアの泣き声を悲鳴と勘違いし、慌てて飛び込んできたのだった。
……しかし、目の前に広がるのは若い男であれば天国かと見紛うほどの、エルフの美女たちの白い肌や美しい濡れた髪ばかりであり
マリアはカリンの背後に隠れ、全員が身体を隠し、闖入者であるマサヒデを氷のような目で睨んだ。
「「「キャァァァァァァァァァァァァ⁉︎」」」
「ちょ⁉︎ や、やめんかぁぁぁぁぁ‼︎ ぐぁぁぁぁぁ‼︎」
そして、怒号混じりの悲鳴と共に、マサヒデに向けて、風呂桶や攻撃魔法が一斉に発射されたのだった。




