宮廷魔術師の少年、幼馴染みの王女と二人きりで見知らぬ森に飛ばされる
突発的瞬間転移現象──通称“神々のイタズラ”。
その名の通り、何の前触れもなく突然に、誰かがどことも知れぬ場所に瞬間転移してしまう自然現象である。
全世界的に見れば、この現象の報告例は年間数件程度あり、そういった意味ではものすごく珍しい現象というわけでもない。
ただ──
それが自分の身に起こる確率となると、限りなく低い……はずだ。
「どこだ、ここは……」
僕は周囲を見回す。
木々の緑と、幹や大地の茶色が、視界一面を覆っている風景。
いずことも知れない森の中に、僕は立っていた。
一体どうしてこうなったのか──
***
時間はしばらく遡る。
フェザーストン王国の王城。
ある麗らかな初夏の日のことだ。
今春からフェザーストン王家に仕える宮廷魔術師となった僕ことクリフォードは、王城の居館の廊下を歩いていた。
向かう先は、王女シルヴィアの私室だ。
宮廷魔術師という仕事は、高等魔術学院を好成績で卒業した者だけに就職の見込みがある、栄誉あるエリート職というのが世間一般の見方である。
だがその実態は、王家に仕える「何でも屋」だ。
僕が持つあらゆる能力を使って、国や王家にとって役に立つことを何でもやるというのが、僕の日常の仕事である。
もっとも、賃金は市井の職業と比べると破格に良いのだから、文句を言う筋合いもないのだが。
そんなわけで、王女シルヴィアの家庭教師というのも、今の僕の仕事のひとつということになっている。
王女の私室の前まで来ると、扉をノックする。
中からは「どうぞー」という気さくな少女の声が聞こえてきた。
「失礼します」
僕は一声かけて扉を開く。
そして絶句した。
部屋の中では、王女のシルヴィアがベッドにうつぶせに寝転がり、足をバタバタさせながら何かの本を読んでいた。
しかも僕のいる部屋の入り口側から見ると、ベッドが縦向きに配置されており、シルヴィアの頭が向こう側、足が手前側にあるといった位置関係である。
王女といっても普段からプリンセスドレスを着ているわけではなく、今は動きやすい絹の衣服を身に着けているのだが、だから問題ないというわけではもちろんない。
一方の王女シルヴィアは、僕の入室と同時に「はわっ!?」と焦りの声を上げる。
それから慌てて本を置いて姿勢を正し、ベッドの尻にちょこんと腰掛けて僕と向かい合った。
「ご、ごめん。次ってクリフの授業だったっけ……? いやぁ、すっかり忘れていたよ。あはははは……」
顔を真っ赤にして、バツの悪そうな顔を見せるシルヴィア。
それはつまり、相手が僕じゃなかったらいつもあんな様子だということだ。
僕は心の中で、大きくため息をついた。
こんな一見子供みたいな王女であるが、その実年齢は僕と同じ、十七歳である。
あどけなさは残るものの、王妃様ゆずりの美貌を持っている。
輝くような金髪はポニーテイルにまとめられており、瞳の色は南国の海のようなエメラルドブルー。
今着ている衣服でも十分に綺麗だが、公式の場で見せるドレス姿の可憐さは、それはもう息をのむほどだ。
だが、その幻想的なまでの美しさも、中身を知らなければこそ映えるというもの。
彼女は公の場では当然ながら猫をかぶっており、美貌の姫君として国民から讃えられているが、その実態は子供っぽくてやんちゃでおてんばという、絵に描いたような詐欺的人物である。
僕は一言、王女に苦言を呈することにした。
「姫様。失礼ながら言わせてもらいますと、侍従たちが相手だったとしても、そのような態度はいかがなものかと思いますよ」
「ぶぅー……。クリフってときどき、婆やみたいな小言を言うよね。今からそんなしかめっ面ばかりしていると、すぐにしわしわのお爺ちゃんになっちゃうよ?」
「ご心配いただかなくても大丈夫です。人間そんなにすぐに老化はしません。気分で自然法則を捻じ曲げないでください」
「相変わらず難しいことばっかり言うなぁ。でもそうだね、クリフがお爺ちゃんになる頃には、私もお婆ちゃんだもんね。あはははっ」
けらけらと笑うシルヴィア。
そんな姿も美貌のせいで可愛らしく見え、少しドキッとしてしまうので、美人はずるいと思う。
さておき──
「さ、授業を始めますよ。机の前に座ってください。今日は世界地理の勉強ですからね」
僕は部屋に入り、持ってきた本を彼女の机の上にどさりと置く。
そこで僕はふと、王女のベッドへと視線を向けた。
王女が読んでいた本は何かと見れば、どうやら子供向けの冒険物語のようだった。
しかも男児が好む類の、竜退治を描いた英雄ものだ。
シルヴィアは子供の頃から、そうした冒険物語が大好きだ。
しかもそれを拗らせ、剣士の真似事のように毎朝のトレーニングまでしているという。
最初にその話を聞いたときにはまさかと思ったが──
ある日の早朝、朝露の下で輝く金髪を振り乱し、キラキラと汗を散らしながら剣を振っている彼女の姿を自分のこの目で見てしまえば、疑いようもなくなった。
ちなみに、誰が彼女に剣を与えたのかと聞けば、自分の小遣いを使って街で買ってきたという話だ。
さすがに本人ではなく、侍従に買いに行かせたのだというが、いずれにせよまともな王女の買い物ではない。
その熱意を少しでも勉強に向けてくれればと思うのだが──
「すぅー……すぅー……」
僕が今日の授業として、シルヴィアを机に向かわせてから、わずか五分。
かの王女は早くも机の上に突っ伏して、安らかに寝息を立てていた。
大事な書物の上によだれを垂らしそうになっていたので、彼女の枕になりかけている憐れな本を慌ててどけてやる。
これが皆に慕われる美貌の王女シルヴィアの真の姿だと知ったら、国民はどう思うだろう。
全国民の二割ぐらいが卒倒するのではなかろうか。
逆に言うと、彼女のこんな姿を知っているのは、王族や侍従を除けば僕ぐらいのものかもしれない。
僕は幸せそうにいびきをかいているシルヴィアの横髪を、手でそっとすくい上げようとして──
「……はえ? 私……寝ちゃってた……?」
シルヴィアが目を覚ましたので、僕は慌てて手を引っ込めた。
……ちょっと待て。
僕は今、何をしようとしていた……?
ほとんど無意識に、手が動いていた……。
「はっ……! しゅ、しゅみましぇんクリフ先生! 寝る気はなかったんれす! ただ難しい本を読んでいたら眠くなってきただけなんれす! 信じてくらさい!」
シルヴィアはまだ眠いのか、微妙にろれつが回っていない状態で、ぺこぺこ頭を下げてくる。
だがそれ以上に、僕の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。
これは、シルヴィアに知られてはいけない。
いや、シルヴィアだけじゃない。
ほかの誰にも──
僕は取り繕うように、こほんと咳払いをしてから、言葉を口にする。
「姫様が頑張ろうとしていることは信じます。でも五分でお休みになられるというのでは、勉強になりません。どうしましょうか」
「どうしましょうか……どうしましょう……うーん……」
シルヴィアは考え込む仕草を見せる。
どうやら僕の不自然な動きには、気付かれずに済んだようだが。
それからシルヴィアは、ポンと手を打った。
「そうだ、外に行こう! こんなジメジメとした部屋の中で、ネチネチと勉強なんてしているから眠くなるんだよ。ねぇクリフ、今日はお天気もいいし、お城の庭で勉強しようよ」
これは名案だというように、シルヴィアは僕に訴えかけてきた。
ちなみに、別に部屋はジメジメなんていうほど湿気が多いわけでも暗いわけでもないし、部屋の中での勉強をネチネチなどと表現したことに関しては全世界の学者や魔術師に謝ってほしいぐらいだが──まあ、それはさておき。
「庭でなら、寝ないで勉強ができるんですか?」
「そりゃあもちろん。間違いないよ。バッチリだよ。命賭けてもいいね」
ぐっと親指を立てて、決め顔を見せてくるシルヴィア。
言ったことが守られるかどうかは、はなはだ不安だが……まあここで勉強を続けるよりは、きっと建設的だろう。
そう思った僕は、持ってきた本を小脇に抱えると、シルヴィアとともに城の庭へと移動することにした。
***
シルヴィアと二人で庭へと続く廊下を歩いていると、その途中、一人の少年と出会った。
「やぁ、姉さん。どこに行くんだい?」
「やっほー、ルイス。クリフと一緒に、お庭まで勉強をしにいくんだ」
少年とシルヴィアが、そうやり取りをする。
少年の歳は、僕やシルヴィアよりも四つ下の十三歳。
どこかシルヴィアと似た顔立ちの美男子で、着ている衣服も当然のように上等のものだ。
彼はシルヴィアの弟──すなわちフェザーストン王家の王子のひとりで、名をルイスという。
僕はルイスに、小さくお辞儀をする。
年下であろうが王家の人間、礼は尽くす必要がある。
一方でルイスは、僕の顔を見ると不愉快そうに表情をゆがめ、吐き捨てるようにこう言ってきた。
「なんだ、まだいたのかお前。子供の頃に姉さんと仲が良かったのか知らないけど、所詮は爵位も持たない貴族家の末弟だろ。調子に乗って姉さんに近付くなって、この間言ったはずだよな?」
繰り返すが、まだ十三歳の少年である。
僕の口からはあまり大それたことは言えないが、まあなんというか、難しい年頃なのだろう。
「ちょっとルイス! どうしてそういうことを言うの!」
慌ててシルヴィアが間に入るのだが、それを聞いたルイスは泣きそうな顔になる。
「姉さんこそ、どうしてこんなやつの肩を持つんだよ! こんなやつはさっさと追い出せばいいんだ!」
「どうしてそうなるのよ。ほらルイス、クリフに謝りなさい」
「ふざけるな! どうしてオレがこんな、爵位も持たない下級貴族以下のやつに頭を下げなきゃいけないんだよ!」
「爵位とか、そんなの関係ないじゃない。クリフはちゃんと、自分の力で一所懸命に勉強して宮廷魔術師になったんだよ。それってすごいことだよ?」
「違う違う違う! 姉さんは、そんなやつと一緒にいたらいけないんだ! 姉さんは、オレの……!」
ルイスはそう叫ぶと、廊下を走り去っていってしまった。
シルヴィアはそれを、腰に手をあてて困ったなぁという様子で見送る。
「……ごめんね、クリフ。ルイスってば、なんかクリフのことが気に入らないみたいで」
シルヴィアが代わりに謝ってくるので、僕はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、お気になさらず。それにルイス様がおっしゃったことは事実ですから。幼少の頃のことはともかく、今の僕は貴族ですらない、ただの雇われ人です。あまり姫様と気安くしすぎるのは問題です」
「そんなのさぁ……。どうして男の子は、身分とか爵位とか、そういうことばっかり気にするかなぁ……」
シルヴィアは頬を膨らませ、少し不満そうな顔を見せた。
その上、再び廊下を歩き始めたシルヴィアは、さらにこんなことを言ってくる。
「それに何度も言ってるけど、その『姫様』って呼び方、なんか嫌だな。昔みたいに『シルヴィア』って呼んでくれればいいのに」
僕はシルヴィアのあとに続きながら答える。
「ですから、僕も何度も言いましたけど、そういうわけにもいかないでしょう。僕は平民、姫様は王族です。身分の違いと主従の関係は、はっきりさせておかないと」
「ぶぅー、納得いかない。クリフはこんなに凄くなって帰ってきたのに、私やルイスのほうが偉そうにしてなきゃいけないなんてさ。私はクリフに勉強を教わってる立場だよ?」
「そう思うんだったら、姫様ももっとしっかり勉強して、凄い人になってくださいね」
「うわ~ん! そこでそう切り返してくるのずるい~!」
そう言って泣き真似をするシルヴィアを、僕はやっぱり可愛いなぁなんて思いながら見ていたりして。
──僕とシルヴィアとは、実は今よりも十年以上も前からの付き合いになる。
僕は王家と懇意にしている貴族家の四男で、幼少の頃は同い年のシルヴィアと二人でよく遊んでいた。
つまり、いわゆる「幼馴染み」というような関係ではある。
だから今や国民から美貌の王女として称えられるシルヴィアも、僕にとっては仲のいい友達のシルヴィアちゃんだったわけだ。
しかし幼年期はそれでよくても、少年期に差し掛かればさすがに、身分の違いというものが分かってくる。
加えていろいろなしがらみもあって、ある時期を境に、シルヴィアと会うことはぱったりとなくなった。
それに僕も僕で、爵位も領地も継げない貴族家の末弟なのだから、自分の力で生きていけるようになる必要があって、十代の前半から中頃までは、ずっとそのことに没頭していた。
十三歳には、高等魔術学院に好成績で入学。
その後も努力を尽くし、そこそこ才能にも恵まれたようで、僕は十七歳の学院卒業時には成績最優秀者の位置にいた。
だから宮廷魔術師になったのも、たまたまだ。
たまたま自分の能力に見合った、最も待遇がいい職場がここだったというだけの話。
もちろん、十七歳の今になってシルヴィアと再会したのも、たまたまだ。
わざわざ彼女との再会のためにここまでの努力をしてきたなどというほど、幼少期の想い出なんて強くはない。
おそらくシルヴィアの側は、僕と子供の頃のように分け隔てなく仲良くしたいと思っているのだろう。
しかし僕ももう、十五歳を過ぎたいっぱしの成人だ。
けじめをつけるべきところは、つけなければいけない。
まるで童心のままでいる、シルヴィアのほうが普通じゃないんだ。
……そう、シルヴィアは普通じゃない。
どのぐらい普通じゃないかっていうと──
「すやぁ……」
庭に出て勉強を始めたシルヴィア王女は、昼下がりのぽかぽか陽気の下、五分と待たずにぐっすりとお休みになられた。
このポンコツ王女、さっき命賭けてもいいとか言っていたような……。
いや、僕もまったく信じてなかったけどさ。
「はぁー……」
僕は庭の草の上に寝転がってすやすやと寝息を立てているシルヴィアの横に座り、空を見上げてため息をついた。
シルヴィアの幸せそうな寝顔は、相変わらず可愛い。
いや、だからどうしたという話だが。
「いっそこのまま、どこか二人だけの場所にでも飛んでいけたら、割り切れもするんだろうけどな」
僕はふと、そんなことを口にする。
ほとんど無意識のつぶやき。
でもそんなことは、シルヴィアだって望んではいないだろう。
シルヴィアも王女だ。
そのうち政略結婚で、どこか他国の王子か、有力貴族家の長男とでも結ばれることになるのだろう。
そうなったときのシルヴィアの姿は、どんなだろう。
せめてそれなりに良い相手と結ばれて、それなりにうまいことやれればいいと思うが。
──と、そんなことを考えていたときだった。
僕とシルヴィアのいた王城の庭を、突然、まばゆい光が覆い始めた。
「えっ……?」
何が起こったのかと考える暇もなく──
僕とシルヴィアは、真っ白な光に呑み込まれていた。
***
そして、今である。
まばゆい光がやんだあと、僕の視界にあったのは、まるで見覚えもない森の中の光景だった。
頭上を覆う深緑の葉は鬱蒼と生い茂っており、細くわずかな木漏れ日がいくつか地面に降り注いでいるほかは、日中とは思えないほどの薄暗さだ。
「んっ……ふにゃ? あれ……クリフ、ここは……?」
そんなとき、僕の同行者が眠たげに目をこすりながら起き上がる。
彼女──王女シルヴィアは、ぺたんと地面に座った姿で周囲を見回すと、不思議そうに小首を傾げた。
その頬っぺたには細い雑草の葉が一本張り付いていて、言ったら悪いが微妙に間抜けである。
僕はお昼寝から目を覚ましたばかりのお姫様に、僕が知るすべての情報を伝えてやる。
「ここがどこかは、僕も分かりません。命を賭けても寝ないと言っていた姫様が、庭でも見事にうたた寝をされ途方に暮れていたところ、突然僕らの周囲が光り輝いて、気が付いたらここにいました」
「おおっ、そうだった! いやぁ、お庭があまりにもいい陽気だったから、つい眠くなってきちゃったんだ。しょうがないね」
反省の色がまったく見えない我らが姫である。
頭をぐりぐりしてやりたい。
「……で、ここはどこ? お城の庭でお昼寝したはずだよね、私?」
話が一周した。
僕は痛む頭を指先でトントンと突きながら、もう一度同じことを説明する。
「繰り返しになりますが、僕にもわかりません。おそらくは突発的瞬間転移現象──いわゆる“神々のイタズラ”に直撃したのではないかと僕は睨んでいますが」
「“神々のイタズラ”! 私も聞いたことあるよ。子供向けのおとぎ話とかによく出てくるやつだよね。……ていうか、あれって現実に起こることだったの?」
「はい。僕も自分で経験したのは初めてですが、この事象の報告例は毎年それなりの件数がありますので」
「それって……ヤバくない? いきなり見知らぬ場所に飛ばされちゃうんでしょ? ひょっとしたら、死んでしまうことだってあるような」
「はい、ヤバいですよ。ですから僕らは今、すごくヤバい状況です」
「えぇえええーっ!? だったらクリフ、どうしてそんなに冷静なの!? ヤバいのに!」
「冷静に見えますか。内心はすごく焦っているんですが」
「そうは見えない」
「まあ、焦りを表に出しても、何もいいことはないですからね」
そう言いつつ、僕はこれからどうするかに頭を悩ませる。
何の因果か、僕とシルヴィアの二人は“神々のイタズラ”に遭い、この地に飛ばされてきた──まずは、そう前提して動くとして。
では次に考えるのは、ここがどこなのか。
人里近くなのか、そうでないのか。
あるいは国内なのか、他国の領土なのか。
ヒントとなる情報は──
僕は周囲の木々をあらためて見回す。
生い茂っているのは一般的な落葉樹だ。
「……植生からして、ここが極端な寒冷地でないことは間違いなさそうですね。僕らが普段よく見る植物ばかりなので、おそらくはフェザーストン王国の国内か、もしくはその周辺国のどこかだと思いますが」
僕がそうつぶやくと、シルヴィアが「おおーっ」と感嘆の声を上げて拍手をした。
「さすが物知り王子クリフ。頼りになるぅ」
「僕は王子じゃないです」
「じゃあ物知り大臣」
「大臣でもないです」
「相変わらず細かいことを気にするなぁクリフは」
「よくこの状況でそのノリでやれますね」
「暗くどんよりしたり、メソメソしたって気が滅入るだけじゃない?」
「……まぁ、それはそうですね」
シルヴィアのこういうところは、ちょっとすごいなとは思う。
僕はどちらかというと常に最悪の事態を想定してネガティブに考えがちなほうなので、彼女のようなムードメーカーにはなれない。
僕一人だったら、あるいは同行者が僕と同じようにネガティブなタイプであれば、今頃はもっと暗い気持ちになっていただろう。
「それにね、クリフ」
シルヴィアはさらに、尻尾を振った犬のような愛らしい眼差しで、僕を見つめてくる。
僕が「なんですか」と聞くと、彼女はこう続けた。
「私ね、今ちょっとわくわくしているの。クリフと二人でお城の外に出て、こうやって冒険したいなって、ずっと思ってた」
「……それはちょっと、ポジティブすぎやしませんか?」
僕は照れ隠しに頭を掻きながら、そう答える。
シルヴィアはどういうつもりで、今の言葉を言ったのだろう。
僕と二人でって、それではまるで──
いや、シルヴィアのことだ。
どうせ子供の頃のままの気持ちで、無邪気に言っているのだろう。
お互い年頃の男女になったことなんて、きっと意識もしていない。
そもそも身分違いだし、それは僕が彼女に口を酸っぱくして言っていることじゃないか。
「いずれにせよ、お城に帰る道を探さないとですね」
「うん。お城に返るまでは冒険だね、クリフ♪」
満面の笑顔で言ってくるシルヴィア。
この娘は自分の笑顔の破壊力がまるで分かっていないので困る。
顔が熱くなることを自覚した僕は、なにげなく彼女から視線を外す。
彼女に恋をしたら、ダメだというのに──
僕は胸の高鳴りを、抑えられずにいた。
***
そんな僕の個人的事情はさておき。
楽観的なことばかり考えられるほど、状況は甘くはない。
なにしろどことも知れぬ見ず知らずの地に、護衛もなし、どころか水も食料もなしで一国の王女とともに放り出されたのだ。
普通だったら、どうやって無事に城まで帰ろうか、途方にくれるところである。
しかし、運が良かったことが一点。
僕は高等魔術学院で魔法を修めた宮廷魔術師であり、魔法を使えばどうにかなるだろうということだ。
いくつかの有用な魔法を頭に思い浮かべたあと、僕は今の状況下で最も適切と思う魔法を行使する。
「──【空中浮遊】!」
魔法の発動体である指輪をした右手を握りしめ、呪文を唱えて魔法を発動する。
すると僕の体が、僕の意志に従って、地面から浮き上がった。
「おおーっ! すごぉい、クリフって空も飛べるんだ」
僕が体半分ほど宙に浮かび上がったところで、眼下のシルヴィアが僕の魔法を称賛してくる。
シルヴィアはだいたい何をやってみせても感動してくれる。
褒め上手なのが彼女のずるいところだ。
「いえ、厳密には高位の【飛行】とは異なる中級の魔法なので、ゆっくりとしか移動できないですし、高度にも限界があるんですけど」
「いやいや、だとしても凄すぎるよ。空飛べるんだよ? びっくりだよ。いいなー、魔法いいなー。私も魔法覚えようかなぁ」
「そうですね。生まれついての資質にもよりますけど、【空中浮遊】クラスの魔法だったら、高等魔術学院に通って毎日朝から晩まで勉強を続けていれば、おそらくは二年から三年、長くかかっても十年以内程度で──」
「あ、ごめん、やっぱり無理。私に魔法は無理」
シルヴィアはぷるぷると震えた。
まあ確かに、勉強を始めて五分でお休みになられるようでは、彼女には一生をかけても無理かもしれない。
人には向き不向きというものがある。
「とりあえず森の上に出て、周囲を見渡してきます。ちょっと待っていてください」
「はーい、行ってらっしゃーい」
シルヴィアは眼下から、笑顔でぶんぶんと手を振ってくる。
相変わらず、可愛いなぁもう。
さておき僕は、高度を上げて森の木々の上へと出る。
木々が分厚い屋根のように鬱蒼と茂っていたため、身に着けている魔術師のローブを枝に引っかけて多少破れてしまったり、地肌を枝に引っ掛かれたりはしたが、それでも大きな問題はなく森の上空へと出ることができた。
そうして上空からあたりを見渡して、僕はホッと胸をなでおろした。
フェザーストンの王城と城下の街が、かなり遠くだが、視認できる範囲で確認できたからだ。
この距離だと、徒歩で二日かからないぐらいか。
またその手前側にも、麦畑に覆われたいくつかの村落が確認できる。
今いる森さえ抜けてしまえば、人里にたどり着くことは難しくないと感じた。
ただその森がかなり広く、これを抜けるには半日以上は歩き詰めないといけないだろう。
夜中にはどうにか、一番近くの村までたどり着けるかどうかといったところだ。
食料、水、寝床、安全──
僕はいろんなことを考えながら高度を下げ、また木の葉と枝の層を突っ切って、シルヴィアのいる地上へと戻った。
「おかえりーっ……って、クリフがビリビリのボロボロになってる!?」
「あー、まあ、木の枝に引っ掛かって少しローブが破けたりは。でも大したことじゃないですよ」
「あちこち服が破けて、ちょっとセクシーになった……?」
「待ってください。その表現に関しては小一時間問い詰めたいんですけど」
「少し血も出てるよ。私がぺろって舐めてあげようか?」
「……結構です」
…………。
本当に、この王女は何を考えて発言をしているのか。
その姿を見ても、いつもどおりのあどけなさで小首を傾げていて、表情からはまったく何も読みとれない。
というか、あなたに危機感というものはないのかと、それこそ小一時間問い詰めたい。
こんな他に誰もいない場所で、年頃の男子と女子が二人きりでいるということの怖さを、ちょっとは考えてほしい。
……いや、僕が意識しすぎなのか?
そんな気もしてきた。
ああもう。
僕がそんな風にやきもきしていると、王女シルヴィアは改まって、こんなことを言ってきた。
「ねぇクリフ」
「なんですか、姫様」
「ありがとう。私、クリフに頼ってばっかりだ。クリフがいてくれなかったら私、とっくに一人で泣きじゃくってる。私が今、楽しい気持ちでいられるのは、クリフが隣にいてくれるおかげだよ」
「……そうですか。それは良かったです」
さすがに目が覚めた。
余計なことを考えていないで、全力で彼女を守らなきゃいけない。
だって僕は──そう、王家に仕える宮廷魔術師だ。
王族のために何でもする何でも屋なんだから、給料分の仕事はしないとな。
***
僕はシルヴィアを連れて、森の中を王城の方角へと向かって歩き始めた。
木の根があちこちに張り、地面もデコボコの険しい森の道を、僕らはどうにかこうにか進んでいく。
王女であるシルヴィアをエスコートしてやりたいのは山々だが、屈辱的なことに、シルヴィアのほうが僕よりも運動神経が良かった。
苦労してどうにか進んでいる僕と違って、ひょいひょいと軽やかに木の根を飛び越え、鼻歌交じりでついてくる。
「ねぇクリフ、歩くの大変だったら、私が前に出てエスコートしようか?」
「……結構です。運動神経がクズですみませんね」
「うわぁ、めっちゃくちゃ拗ねてる。そんなんじゃ私以外の女の子にモテないぞ」
「…………」
ああもう、ああもう……!
この王女は本当に、どういうつもりなのか。
こうなったら──
「別に、姫様にだけモテればいいですよ。僕は姫様一筋ですから」
僕はできる限りさらっと、なにげなく言った。
ちゃんと普段通りに喋れただろうか。
軽口に聞こえてくれただろうか。
「……ふぅん、そっか」
シルヴィアのそんな声が聞こえてきた。
その後、僕らは無言で森の中を歩いた。
僕が前を歩き、その後ろをシルヴィアがついてくる足音が聞こえる。
今シルヴィアが、どんな顔をしているのか分からない。
バレなかっただろうか、僕の本心。
そう思っていると、突然──
ふわりと、後ろから。
シルヴィアが僕に抱きついてきた。
そして王女は僕の耳元で、こんな一言をつぶやく。
「奇遇だね。私もクリフ一筋だよ」
息が止まりそうになった。
僕の背中に体重を預けるように抱きついたシルヴィア。
彼女の体温と柔らかさが伝わってくる。
が、少し経つと彼女は僕から離れ、こう言った。
「なーんちゃって。あははっ、驚いた?」
「……驚きますよ。驚くに決まってるでしょうが」
「えへへー。じゃあ私の勝ちだね♪」
そう言う幼馴染みの顔は、真っ赤に染まっていた。
……が、それはきっと僕の方もそうだろう。
顔が熱くてしょうがなかった。
「ほら、冗談やってないで、行きますよ」
「はーい」
そうして僕たちは、また歩き始める。
僕らはあくまでも、従者と主人だ。
そうでなければいけない。
***
それからしばらくして、雨が降り始めた。
大雨だ。
さっきまであんなに天気が良かったというのに、夕立というのはこうも唐突だ。
最初は雨粒のほとんどを森の木々が受け止めていて、僕らのいる場所にはぽたぽたとまばらに水滴が落ちてくるぐらいだった。
だがそれもしばらく続けば、木の葉が吸収できる量を越えて、だばだばと大粒の水が多量に落ちてくるようになった。
「ひゃあああっ! 冷たい冷たいっ! どこか雨宿りできる場所は……!」
「ないですね! 大樹のそばが一番マシです! おそらくは通り雨ですから、あそこの木のもとで少し休みましょう!」
「さ、賛成!」
そんなわけで僕とシルヴィアは、近くに見えた一番大きな木の幹のもとへと逃げ込んだ。
予想通り、大樹の幹のそばにはほとんど雨粒は降ってこない。
僕らはそこで、一息をついた。
二人で大樹の幹に背を預け、大雨が通り過ぎるのを待つ。
「はーっくちゅんっ! ううっ……ひどいなぁ、神様。遠くに飛ばされるわ、雨には降られるわ」
「大丈夫ですか? 寒くないです?」
「うう、どうだろ。ちょっと寒くなってきたかも」
「と言っても、何ができるわけでもないんですけど。困ったな」
僕は自分が修得している魔法を思い浮かべながら、そうつぶやく。
薪に火をつける魔法とか、周囲の森を大火事にする魔法は使えるが、ちょうどいい塩梅のものがない。
それでも上着のひとつもかけてあげられればいいのだが、僕の上着だってだいぶ濡れているので、そんなものをかけたって嫌がらせにしかならない。
と、思っていると──
「ふ、二人でもっと寄り添ったら、少しあったかくなったりしないかな。ほら、人の体温って、結構あったかいっていうじゃない?」
シルヴィアが恥ずかしげにうつむいた顔で、そんなことを言ってきた。
そして、ちらっと上目遣いで僕のことを見てきてから、また恥ずかしそうにうつむいてしまう。
……まいった。
完敗である。
僕は隣にいるシルヴィアを、両手で自分の胸元に抱き寄せる。
シルヴィアは最初、目を丸くしたが、それから僕に体重を預けてきた。
「こんな感じですかね」
「そ、そうそう、こんな感じ。ちょっとあったかくない?」
「そうですね。ちょっとあったかい気がします」
「ほーらね。私の言ったとおりにしてよかったでしょ」
「ええ。たまには姫様の言うことも役に立ちますね」
「……ちょっと。いい雰囲気が台無し」
そう言いながら、シルヴィアは僕にもたれかかり続け、僕はシルヴィアを抱き続け、何ならその背中をぽんぽんと叩いたり、彼女の濡れた金髪をなでたりした。
もうなんか、どうにも言い訳のできない状況だ。
他に誰も見ていないけど、ほかでもない僕とシルヴィアは知っていること。
僕らはこれから城に帰らなければならない。
そのとき僕らは、今まで通りの僕らでいられるのだろうか。
「ねぇ、クリフ」
「なんですか、姫様」
「そろそろその、『姫様』って呼ぶのやめない?」
「呼び方を変えると、お城に帰ってからもそれがふと出てしまわないか心配なんですよね」
「先のことを考えすぎだよ。いいじゃん。呼んでよ、昔みたいに」
「シルヴィアって?」
「そう。ほら、パーッと言っちゃいなよ、パーッと」
「シルヴィア」
「えへへー。言っちゃった。言っちゃったね」
「言っちゃいましたね」
「だいたい恋人面して私の髪とかなでておいて、いまさらじゃない?」
「いまさらですね」
「私もクリフを誘惑して抱きついておいて、いまさらだ」
「本当ですよ。姫様──シルヴィアはそもそも可愛すぎるんだから」
「うっわ、どうして突然そういうことを言うかな。死ぬからやめて」
「そろそろ小悪魔をやめてくれないと、僕が大変なことになります」
「お互い様なんだよなぁ」
僕らの雨宿りは、かつてないほどに甘々だった。
やがて雨が止むと、僕とシルヴィアはどちらからともなく離れて、そそくさと出発の準備を始めた。
「くちゅんっ! ううっ……抱き合ってても、寒いものは寒かったね……」
「真面目に大丈夫です? 体調悪くなっていたりしませんか」
「それは大丈夫、だと思う。今のところ」
「だったら行きましょう。本格的に風邪をひいたりしたら、さすがにまずいです。僕の魔法でどうにかできればいいんですが。治癒系の魔法は、聖職者の領分なんですよね……」
「さすがにそう、一人で何でもかんでもはできないよね」
そうして僕たちはまた、森の中を歩き始めた。
***
困ったことが起こったのは、それからしばらく歩いた頃だった。
「──シルヴィア、僕の後ろに下がって」
僕は自分の背中に、シルヴィアを庇う。
右手では魔法の発動体の指輪を握りしめ、周囲を警戒する。
僕らの周囲、森の奥からは、ぐるるるっ……と猛獣の唸り声がいくつも聞こえてくる。
木々の間の暗闇には多数の目が光り、それが影の中から一歩一歩、僕たちの方へと歩み出てきた。
狼の群れだ。
数は十を少し下回るぐらいか。
森の狼たちは、僕たちを獲物と見て、今にも襲い掛かってこようとしていた。
僕の魔法で倒せない相手ではない……と思う。
しかし不安はある。
相手が一ヶ所に固まっていてくれれば、範囲攻撃魔法で一網打尽にできるのだが、狼たちは僕らを取り囲むように前方と左右から迫ってきており、一手で全部は片付けられそうにない。
となると、生き残りがどう動くか次第になる。
こちらの戦力に怯えて逃げ去ってくれればいいが、それでも襲い掛かってこられたら、僕には接近戦の心得はない。
そうなったときに、果たして凌げるかどうか……。
と、僕がそんなことを考えていると、予想もしていなかったことが起こった。
シルヴィアが周囲をきょろきょろと見回し、一振りの手ごろな棒状の木の枝を見つけると、それを拾って僕の前に出て、狼たちに向かって木の棒を構えてこう言ったのだ。
「よーし、バッチ来ーい!」
剣士のように様になった姿で木の棒を構える、僕の幼馴染みの王女様。
えぇーっ……。
「ほら、クリフ。近付いてきたやつは私が倒すから、その間に魔法でバーンとやっちゃって!」
「あ、はい……」
そういえばこの王女様、剣の訓練とかしていたね……。
かと言って女子を前に出して戦わせるというのもいかがなものかとは思うのだが、今はそう贅沢も言っていられない。
僕はすかさず魔法の集中に入った。
「──【火球】!」
僕は自分が使える最大級の攻撃魔法を、狼たちが最も密集している地帯めがけて放つ。
僕の体内の魔力を右手へと集中させ、その手のひらの前方に燃え盛る灼熱の大型球体を生み出すと、それを射出。
弓から放たれた矢のような速度で撃ち出された火球は、すぐさま目標地点の地面へと着弾した。
──ドゴォオオオオオオオオンッ!
軽く六体ほどの狼を巻き込んで、爆炎が巻き起こった。
爆炎に巻き込まれた狼は、これで倒せたはずだ。
だが残った二体の狼が、左右から一体ずつ、僕たちの方へ向かって駆け寄ってくる。
野生の四足獣だ、当然ながら恐ろしく速い。
僕は次の魔法の準備をするが、間に合わないことは明白だ。
狼たちは僕たちから数歩のところまで来ると、そこで大きく跳び上がり──
「──はあっ!」
僕の前に滑り込んだシルヴィアが、木の棒を振るった。
バキッ!
ドカッ!
シルヴィアは左側からの狼を木の棒の一撃で叩き落すと、それよりわずかに遅れて飛び掛かってきた右側からの狼も、返す木の棒で素早く叩き捨てる。
そうして地面に横たわった狼たちを、シルヴィアは──
「ごめんね!」
そう言って、強く蹴り飛ばした。
蹴り飛ばされて、数メートル先までごろごろと転がっていく狼たち。
やがてその二匹の狼は、怯えるようにキャンキャンと鳴きながら、遠くへと逃げ去っていった。
「ふぅっ……」
シルヴィアは一息をつく。
僕はその姿を、ぽかーんとしながら見つめていた。
「何とかなったね……って、どうしたのクリフ?」
「あ、いや……シルヴィアの強さが、ちょっと予想以上に実戦的だったから驚いた……。一体どこでそんな腕を……」
「最近は騎士たちの訓練にも混ぜてもらってたんだよ。……えっと、やっぱり腕っぷしが強い女の子って、男子は引いちゃうかな」
たははっと、困ったように笑うシルヴィア。
そんな彼女に僕は、ぶんぶんと首を横に振ってみせる。
「いや、僕は格好いいと思う」
「格好いい。それは喜んでいいものか悪いものか」
「格好良くて綺麗」
「わぁ嬉しい」
「あと可愛い」
「わーい」
僕がシルヴィアの頭をなんとなくなでてやると、彼女はいつものあどけない笑顔で嬉しそうに笑った。
強くて可愛い。
うちの王女様は、いろんな意味で最強なんじゃないだろうかと思った僕だった。
***
夜遅くなった頃に僕らはようやく森を抜け、人里へとたどり着いた。
そして最初にたどり着いた村で宿を取る。
たまたま僕が宿賃に十分な金額を持っていたからよかったが、さもなければ野宿をする羽目になっていたところだ。
このあたりも運が良かったと言える。
ただ、不運と言うべきなのかどうなのか分からないが、困ったことが一つあった。
それは、その村に一軒しかない宿が、すでに残り一室しか空いていなかったということだ。
「しかもダブルベッドが一台あるだけって……」
「わぁー……」
食事をとった上で部屋にあがってきた僕とシルヴィアは、部屋の入り口で固まっていた。
一応は二人部屋という話だったはずなんだけど……これ、二人部屋って呼ぶ?
ちなみに、シルヴィアが王女であることは、宿の人には話していない。
面倒事になりそうだからと、その事実は伏せておいたのだ。
「えっと……僕、宿の人に言って、毛布を借りてきますね」
僕がそう言って部屋を出ようとすると──
シルヴィアが僕の服の裾を、はしっと捕んできた。
「待って、クリフ。一緒に寝ればいいよ。ダブルベッドだよ。二人寝れるよ」
「あの、ちょっと何言ってるか分からないです」
「だって毛布を借りてくるって、それでクリフが毛布に包まって床で寝るってことでしょ?」
「そうですけど」
「そんなの王女と従者って感じで嫌だ。せっかくクリフと二人で、身分なんて忘れて冒険してるのに」
「あの、冒険も度が過ぎると良くないと思うんですよ」
「えっ……。じゃ、じゃあ何。クリフは私と一緒のベッドで寝たら、私とエッチな冒険とかするつもりなの?」
「なんですかその表現。そりゃあ、だって……」
「するつもりなんだ?」
「いやだから、そもそも男女が同じベッドで寝るってそういうことじゃないですか」
「常識に囚われるのは良くないと思うの」
「あーっと……。つまりシルヴィアは、曲がりなりにも健全な男子である僕に、自分と同じベッドで寝た上で何もするなと、そうおっしゃっている?」
「イエス。愛があればできるよ」
「え、そこで僕の愛、試されるんですか? 普通、逆じゃないです?」
「愛とエッチなことをイコールにするのは、男子の良くないところだと思うの」
その後もシルヴィアがどうしても引かなかったので、仕方なく僕の方が折れた。
なんかだんだん、彼女の言うとおり、僕が変な気を起こさなければいいだけの気がしてきたのだ。
そんなわけで、就寝タイムになる。
ランプの灯を消して、二人で一緒のベッドに入る。
ほとんど何も見えなくなった真っ暗闇の中で、隣にいるシルヴィアの気配と吐息と温度だけが伝わってくるという、地獄なのか天国なのかよく分からない状況だ。
「えへへっ。なんだか楽しいね、クリフ。私、ドキドキして眠れないかも」
「僕は悶々として眠れない気がします」
「えぇーっ。……クリフって、意外とエッチ? むっつりさん?」
「いや、意外ととかじゃなくて、男子は普通そうなんですってば」
「女子もときどきエッチな気分になるよ?」
「……あの、本当にやめてください。そろそろ限界です」
「きゃーっ、狼さんだ、怖ーい。逃げろー♪」
そう言って、少しだけ離れていく気配を見せるシルヴィア。
とはいってもベッドの上だし、ダブルベッドを二人で使っていたら狭いし、離れたといっても高が知れている。
それで僕もちょっと、イタズラ心が出てしまって。
「ふふふ、逃がさないぞ、可愛らしい王女め」
少しだけシルヴィアのほうに寄っていく。
悪い狼が、いたいけな娘を食べてしまおうとするかのような仕草で。
しかしそのイタズラ心に、歯止めがきかなかった。
気が付いたら、僕はシルヴィアの上にのしかかって、彼女と両手を合わせていた。
手と手の指が絡み合う。
シルヴィアの手はもぞもぞと動こうとするが、僕の手がそれを離すまいと握りしめる。
ほとんど真っ暗闇の中でも目が慣れてきていて、シルヴィアの顔がどうにか見てとれるぐらいの薄暗さ。
「……狼さんは、私を食べてしまいたいの?」
つぶらな瞳で、僕をまっすぐ見つめてくるシルヴィア。
僕はごくりと唾を飲み、それから芝居がかった口調で台詞を返す。
「ああそうだ、美しい王女よ。僕はお前を、ぺろりと食べてしまいたい」
「私はそれでも構わないわ。……ううん、私はあなたにこの身を捧げたい。でも狼さん、私は猛毒よ。ぺろりと食べてしまったら、あなたはとても苦しむかもしれない」
「そうかな。そうかもしれない。でも僕は、王女のことが──シルヴィアのことが、好きだから。そのことに気付いてしまったから」
「私もです、狼さん。……ううん、クリフ。私もあなたのことが、大好き」
そうして狼さんと美しい王女は、暗闇の中で熱く口づけを交わしたのだった。
***
翌日。
少し遅めの朝に宿を出立し、さらに半日ほど歩いて、僕とシルヴィアはようやくお城へと帰ってくることができた。
城の門番に事情を説明すると、門番の一人が大慌てでそのことを報告しに行った。
まあ王女が丸一日姿を眩ましたとなれば、城じゅう大騒ぎにもなったのだろう。
だがシルヴィアはそんなことはお構いなしに、開かれた城門の敷居をぴょこんと飛び越えてみせる。
「ただーいまっと♪ 冒険楽しかったね、クリフ」
「あ、えっと……はい」
楽しかった……?
楽しかったで済ませていいものなのだろうか。
いや、確かに僕のこれまでの人生で、最高に心躍る冒険であったとは思うのだが。
だがその僕の煮え切らない感じを勘違いしたのか、シルヴィアはむーっと頬を膨らませて僕に詰め寄ってくる。
「何よ。クリフは楽しくなかったっていうの?」
「い、いや、そういうわけじゃ」
「狼さんは私に、あんなことまでしたのに」
「ちょっ、ちょちょちょっ……!」
「ふがっ。むぐー、むぐぐー」
僕はシルヴィアの口を、慌てて手で塞ぐ。
近くにいたもう一人の門番が、不審げな目で僕たちを見て、首を傾げていた。
それから僕たちは、謁見の間まで引っ立てられ、国王と王妃の前で根掘り葉掘り、何があったのかを詰問された。
僕は正直に答えた。
正直に答えたら僕の首が飛びそうな部分を除いて、だが。
嘘をつくのは得意じゃないので、気が気じゃなかった。
だが何とか乗り切れたようで、僕の言葉は信じられ無罪放免となった。
これまでの僕が、嘘をつくような人物でないと評価されていたことが幸いした形であった。
なんだかすごい罪悪感。
そんなわけで僕は、その後もフェザーストン王家の宮廷魔術師を続け、シルヴィアの家庭教師も継続となったのだが──
その翌日。
分厚い本を小脇に抱えてシルヴィアの部屋に行くと、かの王女はまたベッドにごろ寝して足をバタバタさせながら、冒険物語を読んでいた。
僕は大きくため息をつき、シルヴィアに向かって言う。
「ほら、姫様。席についてください。今日は世界史の授業ですよ」
「はぁーい」
冒険物語をベッドに投げ出し、シルヴィアはベッドから立ち上がろうとする。
だがそのとき、彼女はふと何かを思いついたような仕草をすると、次に僕に向かってこう言ってきた。
「ねぇクリフ。勉強の前に、キスしてほしいな」
いつものあどけない、無邪気な笑顔。
だがもう僕は騙されない。
これは、こいつは、小悪魔の誘惑だ。
しかしそうと分かっていたとて、その誘惑に抗えるものでもなく。
「キスをしたら、勉強を始めて五分で寝たりしませんか?」
「しないしない。絶対にしないね。命賭けてもいいよ」
僕はそう言って立ち上がったシルヴィアと抱き合い、うっとりするような口づけを交わした。
なおこの五分後、彼女が机に突っ伏して幸せそうに寝息を立てていたことは、言うまでもなかった。
ちなみに、それから一年ほど後のこと。
シルヴィアに政略的な意味での婚約者が決まり、僕は宮廷魔術師の地位を投げ捨ててシルヴィアとの愛の逃避行に走って、国じゅうのお尋ね者になったりした。
これはそんな、神々のイタズラがもたらした、ひとつの物語である。