勇者(♀)は魔王(♀)に催眠術をかけました
「魔王さま、勇者が侵入したようです」
センスの欠片もないただ豪奢なだけの巨大な玉座の上でうとうととしていた私の元に、特段慌てた様子もなく配下の一人がやってきた。
その言葉に、そういえば久しぶりだな、と考えながら目を擦る。
「前に来たの、いつだったっけ?」
「確か、月が半分青かった時期だったかと」
ああ、もうそんなに経つんだ。
そうか、まだ諦めてなかったんだ。
何度も突っ込んできては返り討ちに遭い、まともな戦いになったことなんて一度もなかったのに。
「通していいよ」
「よろしいのですか?」
「うん」
ああ、思い出してきた。
今まで戦ってきた中でも特に歯ごたえのなかった勇者だ。
魔法の能力はそこそこだったけど、それも過去の勇者とは比べるまでもなかった。
「かしこまりました」
さっきの確認は「危険な敵をみすみす通してもいいのか」という確認ではない。
「わざわざお手を煩わせる必要もないのに」という意味だ。
それほどまでに今の勇者は……彼女の力は、弱い。
ああそうだ、確か珍しく今代の勇者は女だった。
じゃあなんで相手をするのかと言われたら、それはもちろん暇だから、というのもあるけれど。
勇者の相手をするのは、魔王の仕事だからだ。
◆
「勇者である私をみすみす通すなんてね」
ああ、この台詞も何度か聞いた覚えがある。
今回の勇者が初めてここに来たときも、まったく同じ台詞を吐いていたっけ。
あの時から彼女は、あまり成長していない。
短命な人間の長所の一つ、圧倒的な成長速度を悲しいかな彼女は持ち合わせてはいないようだった。
しかし、勇者か。
光の加護に不幸にも選ばれ、死ぬことも許されず運命という呪いを背負わされた可哀想な人間。
「今までの私と同じだと思わないでよね」
その台詞も何度も聞いた。
見たところ身に纏う装具も大したものではなく、体内の魔力も驚く程廻りが悪い。
よくこの城まで辿りつけたなと感心してしまう程に、勇者はぼろぼろだった。
今までで一番、最悪な状態なのではないだろうか。
幼くは見えるけどそこそこ見栄えのするその顔には濃い隈が残っている。
手入れをする暇もなかったのだろうか、薄い金の髪は脂と汚れで黒ずんでいる。
剣を構えた勇者の姿を玉座から降りずに眺め続け、ようやく気がついた。
どうやら私はまだ寝ぼけていたらしい。
「お前、光の加護はどうした」
「……っ」
私の言葉に勇者は口をつぐんだ。
この歴代最弱の勇者の、唯一の長所とも呼ぶべき魔力ですらも酷い有様だった理由は、それか。
ああ、ということはつまり。
「新しい勇者が誕生するんだな」
私の言葉に勇者は口を開かない。
『魔王を倒せる可能性のある人間の子』に無差別に宿るというその呪いは、常にただ一人の人間の身体にだけ巣食う。
つまり彼女は、見限られたのだ。
光の加護を失った勇者は、生き返ることは二度とない。
だのに逃げずにここにわざわざ来たということは、そういうことなのだ。
「……舐めないでよね。秘策だって、あるんだから」
どう考えても死にに来たのだろうに。
そこらの雑魚に殺されるよりはせめて勇者として。ああそういうのも、何回目だっけ。
「……いいよ、来な」
しかしこれも、魔王の仕事だ。
私自らの手にかかって死にたいというのなら、それくらいはしてやろうではないか。
剣を引きずるように歩み寄るその姿は最早、魔王に挑む勇者のそれではない。
しかしその目には、輝くような金色の瞳には光が灯っている。
短命な人間、その悲壮な覚悟はいつ見ても美しい。
せめて、一撃くらいはくらってやろうか。
それまでは黙って動かないでおいてやろうか。
傷一つつけられないであろう勇者の姿を見て、私は人間のような感傷的なことを思った。
そんな私の前で、剣の間合いに立った勇者は何を思ったのか、剣を投げ捨てた。
「くらえ」
勇者の両手首が淡く青く光を放ち、ゆらりと交差した。
ほんの少し警戒した私の前で、その光はゆらゆらと揺れ……やがて、消えた。
「ふうぅ……っ」
……?
何かをやりきった感を滲ませ額をぐいっと拭った勇者は、初めて見るちょっとだけ悪そうな笑みを浮かべた。
何かをされたか?
いや、私の身体には何一つ変化したところはない。
一歩ずつ驚くほど無防備に近づいてくる勇者も、さっきより魔力が減っているだけで他に何も変わったところはない。
秘策、と言っていたか。
私と今代の勇者との力の差は万が一すら起きない程にかけ離れている。
しかし短命種の覚悟というやつは厄介なことに、越えられない壁にヒビを入れることがある。
私は『魔眼』を発動させるべく両の目に魔力を灯らせた。
「成功した、よね……?」
小さく呟いた勇者は、さらに無防備な足取りで私の目の前までやってきた。
成功……? 訝しむ私の前で勇者は、こいつ頭大丈夫かと心配しそうになるほど無防備に、身体を屈めて私の顔を覗き込んだ。
思わず、両の目の魔力を解除した。
直視すれば、今の勇者では絶命する可能性がある。
「……。近くで見ると、本当に綺麗」
「……?」
何言ってんだこいつ。
私が歴代の魔王の中で最も可憐で美しいなどと褒めそやされているのは知っているけど。
そんな外見の評価には別に興味もないけれど。
目の下に隈を作り疲れ果てた表情で勇者は、魔王である私の目をじぃっと凝視している。
「はぁ~……。一年かけて習得した『催眠術』、効いて良かったぁ~……」
効いてない。
いや待って何その術聞いたことない。
私この世界に存在する魔術全部使えるから断言するけどそんな術ないよ。
騙されてるよこの勇者。
心底安心した、という緩んだ表情で勇者は言葉を続けた。
「……右手、上げて?」
何言ってんだこいつ。そう思うと同時に理解した。
先ほどの魔力が込められた動き。魔王である私に警戒心なく近づくという愚行。そして今の言葉。
「あれ……?」
目の前で不思議そうに首を傾げている勇者は、どうやら私の行動を言葉一つで操れる状態にいるらしい。
仮にそうだとしたら確かに『秘策』と呼ぶにふさわしい。
そんなものが本当にあるとしたら、だが。
私は目の前の勇者の滑稽な姿に哀れみを覚え、右手をゆっくりと上げた。
「わ」
間抜けな顔で驚いた勇者は口の中で小さく、やった、と呟いた。
『催眠術』とやらが本当にかかっていると思っているらしい。
浅ましい勘違いをしたその勇者の姿に、私は怒りに似たむなしさを覚えた。
私は何を考えていたのだろう。一撃くらいくらってあげようだなんて。
暇が過ぎたのだ。気の迷いにもほどがあった。
「……」
ああ、時間を無駄にした。
可哀想だけど。
何がしたかったのか分からないけど。
もう、いいか。
「私ね」
何を言うつもりか知らないけど、それが最期の言葉になるだろう。
この哀れな勇者を、せめて苦しまないように即死させてあげよう。
次の勇者はもっと歯ごたえがあるといいけれど。
「あなたのことが好きなの」
ぴたり、と。
私の振り下ろそうとした腕が止まった。
なに、いってるの、こいつ。
「……えへ。だ、抱き締めてくれるの?」
振り下ろそうとして固まった、ほんの少し前までその命を刈ろうとしていた私の腕に、勇者は疲れた笑みを浮かべて手を添えた。
いや、ちがうんだけど。
ちがうんだけど。
けれど、腕に込めた魔力も殺気も霧散して、振り下ろすべき場所が見つからなかった。
力なく重力に引かれた私の手が、勇者の肩に触れた。
短命種の肩は、驚く程小さかった。
◆
初めてその姿を見たとき、私は脚が震えて動けなくなってしまった。
そこに辿り着くまでに全ての力を使い果たしていたから、というのが理由の一つだけど。
最大の理由は、勇者である私の目に映った魔王その人の姿が……あまりにも、綺麗で可愛らしかったから。
一目惚れだった。
人間の最大の敵である魔王に見惚れてしまうなんて、正直どうかしてると思う。
だけど、そんなことはどうでもよくなってしまうくらい、私の心はまいってしまった。
何も出来ずに痛みを感じる暇もなくまばたきの間に殺されて、光の聖堂で目覚めた私はそこでようやく痛みを覚えた。
胸の奥の疼きは、初めて感じる痛みだった。
その痛みの正体に気がついて、私の頭は熱に浮かされて、もう一度倒れてしまった。
恋だった。
◆
「えへへ、何しようかな~……」
魔王たる私の目の前で勇者であるこの女は膝をつき、じいぃ、と飽きることなく私の顔を見つめている。
頬をほんのりと紅潮させ、時折その目を潤ませながら。
勇者が独りごちた内容を精査すると、私にかけた(かかってない)『催眠術』とやらの効果は以下である。
一つ。私は勇者に危害を加えられない。
一つ。私は勇者の要求に素直に応える。
一つ。その効果時間は、一日だけ。
そんな凶悪な魔術があったら私が使ってるわぼけ。
最早洗脳と呼ぶべきその恐ろしい魔術を、どうやらこの勇者は本気で習得する為に一年という人間換算では決して短くはない時間を費やしたらしい。
大丈夫かこいつ。いや、大丈夫じゃないからこんなことになっているのか。
「んふふ」
ただ、しかし。
何か気分が削がれてしまったのは事実だった。
一瞬で散る筈だった命を永らえさせたという意味では、もしかしたら有用な術だったと言えなくもないのかもしれない。
いや、それも。
怪しげな術のせいではなく、たった一言の言葉によるものだったのだけど。
「あ、そっか!」
幸せそうな顔で私をずっと眺めていた勇者は、突然声を上げ思いついたようにその場で飛び上がった。
なんだ、今度は何する気だこいつ。
「あなたの名前を、教えて」
「……」
仮に私なら。
自らの種の存亡をその肩に背負い、倒さなければならない敵の目の前に立ち、そいつを言いなりに出来る術が成功したのなら。
まず息の根を、止めるんだけど。
「アル・ディオーマ・リズ・リアデ・ヴィスティス」
「……んへ?」
「私の名だ」
私は何をやっているのだろう。
吹けば飛ぶ程に弱っている勇者に、名を名乗るなど。
「……アル、ちゃん」
恐る恐るといった様子で勇者は、やはり私の顔を覗き込むように呟いた。
恐らくは人間の世界の愛称なのだろう、やけに気安いその呼び方にしかし私は不思議と嫌悪感を抱かなかった。
勇者のその目がその口元が、だらしなく嬉しそうだったからかもしれない。
「アルちゃん」
もう一度舌の上で転がすように呟いた勇者は、何か大事なものを手に入れたときのように、両手で自らの胸を抱いた。
短命種の弱点の一つである心臓に何か負荷が掛かったのだろうか。
光の加護が消えた今、彼女の身体能力は絶望的なまでに普通の人間のそれだ。
「あ、私。私はメルっていうんだ。メル・キスティル」
「……」
「……」
その何かを期待するような目はなんだ。
というか私は別にお前の名前なんて聞いてないんだけど。
配下の名前すらろくに覚えてないのに、短命種の名前なんて覚えられるわけないだろ。
ああ、この目。
初めて見る、恐怖でも敵意でも羨望でもない、きらきらした目。
私はきっとこの目が苦手なのだ。光属性か何かが付与されているに違いない。
「め……。メル、ちゃん」
「はう……っ!!!」
私の溜め息混じりのその言葉に勇者は一度大きくよろめいてから、しかし両腕に力を込めて握り拳を作り、天高く突き上げた。
なんだこいつ、ちょっと魔力回復したか?
そして再び屈み込み、ずい、と気安く私の目の前どころか眼前まで顔を突きつけてきた。
近い、近いよお前。殺すぞ。
「もう一回呼んで、アルちゃん」
「……っ」
ああ、そのきらきらした目で私を見るな。
脆弱な人間が、魔族の頂点である私をどうしてそんな真っ直ぐな目で見れるんだ。
あなたのことが好きなの。
ついさっきの、私の腕を止めたその言葉が脳裏に反響している。
こいつは、この珍しい女の勇者は、そんなことを言う為だけに長い時間をかけて怪しげな術を会得したのだろうか。
この今現状を、魔王であるこの私を殺す、千載一遇の機会だと思わないのだろうか。
そういったそぶりが少しでも、ほんの僅かでも見えれば、気がつかないうちに楽に殺してあげるのに。
目の前のこいつからは、純粋な『好き』しか伝わってこない。
そんなことが、有り得るのだろうか。
「……め、メル」
諦めとともに呟いた言葉と、べぎ、という音はほぼ同時で、片方は目の前の勇者から聞こえた。
横殴りの魔力の塊の一撃は、光の加護を失った人間にとっては文字通り致命的なものだった。
肉が千切れ骨が折れるさまが私の目に仔細に映り、びちゃ、と呆気ない音が離れた壁に叩きつけられた。
いつの間にか、配下の一人が扉の前に立っていた。
「魔王さま、申し訳ございません。無粋かと思いましたがあまりにも近かったもので。排除させていただきました」
「……。……ああ、うん」
手に跳ねた赤い血がどうしてか、やけに鮮やかに見える。
ああそうだ。
これまでの勇者も、こんな風に呆気なく散っていった。
私に傷を負わせたものは誰一人いなかった。
「おや、まだ息があるようだ」
ひゅ、ひゅ、とか細い呼吸の音がどうしてかよく聞こえていた。
半身が千切れ真っ赤に染まった勇者は、もう数秒ももたないだろうその身体でこちらを、私を見て何かを呟いている。
「申し訳ございません魔王さま。すぐに片付けますので」
「……うん」
ならばこの胸を刺すような痛みはなんだと言うのだろう。
最も弱かった、既に勇者ですらなかった彼女は、私の胸に何を穿ったというのだろう。
忠実に私に従い続けてきた配下の一人が手を振り上げ、純然な魔力の塊を現出させた。
さっきの一撃と同様、ただの人間では到底耐えることなどできない、それは確実なとどめになるだろう。
か細い呼吸が少しずつ小さくなっていく。
ああ、本当になんて脆弱なんだろう。とどめすら必要なさそうだ。
「……ぁ、ぅ」
魔力の塊が放たれる。
放っておいてももう直に死ぬだろう彼女に、それに抗う力などある筈もない。
「……、ぁ……る、ちゃん」
どうしてこんなにはっきりと聞こえたのだろう。
その死の間際の言葉に、私の胸は鋭い痛みを覚えた。
「すき」
◆
私は弱かった。
剣の腕は王国の一兵士といい勝負だった。
魔力が人よりちょっと多かったけれど、魔法の腕はあまり上達しなかった。
何故お前が光の加護を。
何回その言葉を言われただろう。
私だって好きでなったわけじゃない。
けれど勇者と呼ばれてきたものたちは皆、自分の意思で勇者になったわけではなかった。
そのことを知っていたから、泣き言は言えなかった。
今や世界の六割を支配している魔族という生物は、全てにおいて人間を上回っていた。
長命で、力が強く、魔力に秀でている魔族に、唯一人間が勝っているのは繁殖力だけだった。
数だけは上回っている人間一人一人の力をほんの少しずつ束ねて、ただ一人に集約するという極端に効率の悪いその大魔術は、大昔の賢者と呼ばれる人間が編み出したものらしい。
賢者亡き後も光の一族と呼ばれるものたちの手によって維持され続けてきたその大魔術によって、人間は魔族になんとか対抗してきた。
効率それ自体は恐ろしく悪かったけれど、その効果は絶大だった。
人間では一生をかけても到達し得ない高みに強制的に引き上げる、その光の加護に適応できる生贄のことを、彼らは勇者と呼ぶ。
◆
「ああ、自らとどめを刺されるのですね」
魔力の塊を指一本で吸収された配下の一人は、私の行動に特に何も思わなかったのか、そう言って頭を下げた。
……私は、何をしているのだろう。
「私が呼ぶまで、もう来なくていい」
「かしこまりました」
もう一度頭を下げ、配下の一人は広々とした玉座の間から出て行った。
死にかけの人間一人と私を残したところで、何の問題もないと判断したのだろう。
そう、何の問題もない。
「……生きてるか?」
返事はない。
呼吸は止まっている。
心臓は動いていない。
光の加護が消えていることは明白だった。
血の臭いが鼻にへばりつく。
胸の奥がずきずきしている。
こんなに痛みを覚えるのは初めてだ。
ああこの勇者はもしかしたら、歴代最強の勇者だったのではないのだろうか。
この私に、こんな傷を負わせるなんて。
もう動かなくなったそれに、手を添えた。
「……。私は、勇者の要求に、素直に応える」
私はまだ、応えていない。
絶命してからまだ大して時間は経っていない。
古の竜や大悪魔ならともかく、ただの人間一人程度の小さな器の蘇生など。
添えた腕に魔力を込めた。
ああ、そういえば。
蘇生の魔術を使ったのなんて、初めてだ。
「……っ、げほっ! ごぼっげほっ……っ!?」
血と吐瀉物を撒き散らしながら、彼女は人間の形を取り戻した。
ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返し、何が起きているのか分からないといった様子で自身の腕を身体を確かめている。
初めて使った魔術だけど、私の目には何も問題ないように見える。
こんなものが人間の国では超高位魔術だなんて呼ばれ持てはやされているらしい。程度が知れるというものだ。
「ぁえ……、私……?」
立ち上がった私と目が合った勇者の目がこれでもかと見開き、口がわなないた。
後ずさろうとしたその手がぶちまけられた血液で滑り、ひぃひぃと喘ぐような声が漏れている。
「ま、な、魔王……っ!? なん……っ」
ずるん、と綺麗に滑り後頭部を床に打ち付けた勇者は無様で滑稽で、可哀想だった。
しかしそれよりも、私はその『私から逃げようとした反応』そのものに、どうしてか酷く胸の奥が痛んだ。
今まで何度も、畏怖の眼差しとともに逃げまどう人間の背中を刺し貫いてきたというのに。
せっかく綺麗に蘇生したのに血まみれになった勇者は、小鹿のように震えながら私を見上げた。
その揺れる金の瞳から私は、目を逸らした。
「……あ、アル、ちゃん」
どくん、と。
私の身体の中に三つある心臓が、全て鷲掴みにされたような気がした。
確か呪術の類でそんなものがあった。
あの術の発動には結局、対象の身体の三分の一が必要だということで使い物にならないと判断したっけ。
勇者のその一言は、私の胸の奥の痛みを和らげてしまった。
きっと、そういう魔術なのだ。
「そ、そうだ。私、あの術を使って……」
死亡と蘇生による一時的な記憶の混乱だろう。
私の蘇生の魔術は完璧な筈だから、恐らく死亡時によるものか。
私はほっと胸を撫で下ろした。
……?
どうして私は今、何に私は今、安心したのだろう。
「も、もしかして、アルちゃんが助けてくれたの……?」
血溜まりから私を見上げる勇者の瞳は潤んでいる。
捨てられた子犬という生き物がこうした哀願の眼差しを向けてくるとどこかで読んだ記憶がある。
その目から私はやはり、目を逸らした。
「そっか……。『催眠術』の効果かな……?」
そう。
私の不条理で理解できない行動は、きっとあの怪しげな術によるものだ。
魔王である私が勇者を蘇生するなど、有り得ない。
和らいだ筈の胸の痛みが治まらない。
突き上げるようなこの感情はなんて呼べばいいのだろう。
私は知らない。
こんな気持ちを私は知らない。
知りたくもない。
なかなか立ち上がれない勇者にじれったくなり、私は目を逸らしたまま手を伸ばした。
息を呑んだ気配の後、すぐにその血まみれの手で、手を掴まれた。
私と大して変わらない大きさのそれを、温かいと思った。
「……ありがとう、アルちゃん」
顔が熱く感じるのは何故だろう。
まだ完全には戻っていない勇者のぬるい体温が、腕を伝ってきているのだろうか。
その手を握り返すことはできそうにない。
その手を振り払うことはできそうにない。
ああそうか。
きっとこれは、捨てられた子犬という生き物に対する憐憫だ。
庇護しなければならないと思わせる、酷く能力に劣った魔物が使う姑息な手段。
この勇者はそういう能力を持っているに違いなかった。
でなければ魔王である私に傷を負わせることなど出来る筈がない。
そう。
この私の胸に疼くこれは、私自身に起因してなどいない。
引き起こした勇者は血まみれで、着ていた装具も破壊され吹き飛ばされてほとんど残っていない。
一撫でするだけで消し飛ぶ脆弱な肉体は何にも守られていない。
その肢体は柔らかそうで、歯を突き立てれば簡単に噛み千切れるだろうことは想像に難くなかった。
起き上がった勇者はしかし私の手を離さず、強く握ったまま。
「服、なくなっちゃった」
頬を染めながらの勇者の言葉に私は意図を見出せなかった。
沈黙が沈黙を呼び、まだ血の臭いが濃いこの静けさを打ち破るのはとても困難に思えた。
そんな壁を、もう加護を呪いをその身体に持ち合わせていない脆弱な勇者は、一足飛びで軽々と越えてしまう。
一歩。
不意に不用意に近づいてきたその一歩は、先の玉座での顔と顔の距離よりはほんの少し遠かったものの、身体と身体が近くなった分だけ鮮明に感じ取れてしまった。
勇者の体温を。
私は一歩、後ずさった。
私はこの世界に生まれ落ちて以来初めて、逃げる為に距離を取った。
その自身の行動に理解が追いつかないまま、私は羽織っていた外套を脱いだ。
代々魔王に伝わる、魔王と呼ばれたもの以外は誰も一度も触れたことのないそれを。
私は、勇者に手渡した。
「あ……ありがとう」
私は何をやっているんだろう。
物理も魔法もその全てを無効化する魔王の外套を、ただ肌の露出を隠す為だけに使わせるなんて。
しかも相手は天敵であるとされる、勇者だ。
「……。私は、勇者の要求に、応える」
言い訳のように呟いた私の言葉に、しかし勇者は複雑な表情を浮かべた。
嬉しそうに口元は緩んでいるのに、眉尻は下がり今にも泣き出しそうになっている。
人間の感情は分からない。
ここまでつぶさに観察したことが今までなかったから。
「すごい、肌触りいいね」
勇者が身に着けていた粗末なものに比べればそうだろう。
歴代の勇者はもっとマシなものを装備していた筈だけど、この目の前の半裸の勇者はいつ見ても見るに耐えない代物を身に着けていた。
今が一番良い状態なのではないかと思えるほどに。
「ねぇ、アルちゃん」
「……なんだ」
どうして名前を呼ばれる度に胸が疼くのだろう。
どうして名前を呼ばれる度に答えるのが怖くなるのだろう。
どうして、もう一度呼んで欲しいなどと。
「お話、しよ」
再び握られた手は、油断などしていなかったというのに、不意打ちのように私の首筋を痺れさせた。
この勇者は私を、どうしたいというのだろう。
◆
私が光の加護を受けたのは十歳のときだった。
光の加護の選定には、年齢も性別も経験も一切関係がない。
決して死ぬことを許さないその加護が次の適任者に移る時機も理由も、一切示されず明かされることもない。
最短で三年。最長で十二年。
期間すらも明確ではない、強大な力と死ぬことのない身体で魔王に挑み続ける。
光の一族によって脚色され華々しく語られる、生と死の境が曖昧になってしまった勇者と呼ばれた彼らの末路は結局、死だけだ。
だから私は、もしかしたら、きっと。
世界で一番幸せな生贄なんだと思った。
◆
狭い。
このゴテゴテと飾り付けられ実用性を無視した玉座は、歴代の魔王と比べれば遥かに小柄な(別に大きいから有利だとかそういうのではないし無駄にでかい方が被弾面積増えるからむしろ不利だと思う)私の身体一つでは無駄に余っていた。
だけど今は少しだけ狭い。
隣に、勇者が座っているからだ。
「狭いんだが」
「……降りたほうが、いい?」
顔が近い。
身体が密着している。
吐息すら感じられる距離で困ったような声色で『離れたくない』と全身で表現しながら、勇者はそんなことを言う。
「……別に、いい」
「えへへ」
ぐいぐいと身体を寄せてくる勇者に私は抵抗できず、すっかり戻った高い体温を一方的に押し付けられている。
動けない理由は単純だった。
怖いのだ。
この脆弱な勇者を、壊してしまうのが。
怖い。
その感情の理解に至ったとき、私の背筋は一気に冷えて固まった。
恐怖。
それは魔族にとって、そして魔王にとっては禁忌となる感情だ。
その思いを抱くことは敗北に繋がり、敗北はすなわち、死に繋がるから。
この感情は排除せねばならない。
この感情を抱かせるものは排除せねばならない。
この感情は私を緩やかに死へと向かわせる。
「ねぇ、アルちゃん」
私の魔術によって汚れを落とされた勇者の、思ったより色素の薄かった淡い金の髪が一房、私の肩に触れた。
小首を傾げた勇者の髪と同じ色の瞳が私の目を覗き込み、私の中の何かにヒビを入れた。
「なんだ。……、……め、メルちゃん」
私の返事を受けてふにゃ、と溶け落ちるんじゃないかと思うほど柔らかく笑った勇者は何を思ったのか、さらに顔を近づけてきた。
近い。会話をするのにここまで近づく必要はないだろうに。
眉をひそめる私にしかし勇者は身体を乗り上げるようにして、さらに顔を近づけてくる。
この狭い玉座の上で、もはや逃げ道はない。
「アルちゃん」
勇者の金の瞳は潤んでいる。その吐息は熱い。
少しでも抗えば壊してしまう、その思いが私の身体の動きを止めた。
感情が湧き上がってくる。
怖い。壊してしまうのが。
何か。分からない。知らない。
何か。分かる筈がない。知りたくもない。
焦り。行動の意味が分からない。目的が分からない。
怖い。壊してしまうのが。
何か。分からない。でも、嫌では、ない。
私が。歴代で最も強いと言われている魔王が。
あろうことか、目を瞑ってしまうなんて。
有り得ない、有り得てはならないそれは思考と行動の放棄。
しかしにじり寄ってきていた筈の体温の塊、その到来は訪れなかった。
薄く目を開くと、前髪が触れ合う距離で勇者は硬く目を瞑り、唇を柔らかく突き出したまま固まっていた。
ほんの僅かに身体を震わせ、燃え上がるのではないかと思う程に頬を紅潮させながら。
「……」
魔王を、この私をここまで追い詰めておきながらこの体たらく。
緊張と恐怖が混じり合ったその震えを見て、しかし私の中の何かが疼きだした。
その疼きはきっと甘い。
恐らくそれに身を任せれば、身を焦がす猛毒に変じるだろう。
私は魔族を統べる魔王。
短命種と口付けを交わすなんてことは有り得ない。
それはこの私が、光の加護を失ったこの目の前の脆弱な勇者に負けるくらいに、有り得ない話だ。
凝視してしまった勇者の強張った唇が弛緩して半開きになった。
その瞬間の思考と行動を私は自分自身で理解できなかった。
だから、直後に、言い訳が思い浮かんだ。
「……っ」
触れ合ったその時間はまばたきよりは長く、けれど一瞬だった。
勇者のそれは柔らかく、甘かった。
その甘さは錯覚だったけれど、背筋を昇って或いは伝い降りて私の身体の奥に痺れを残した。
私は、勇者の要求に、素直に応える。
そう、これはあの怪しげな術によるものだ。
だからこれは、この行動には、私自身に要因も原因もない。
私は術に従って応えただけなのだから。
この頬の熱さも頭の中の靄も首筋の痺れもお腹の奥底の甘い疼きも全て、勇者のせいだ。
「……あるちゃん」
目を薄っすらと開いた勇者は頬を染めたまま小さく呟いた。
その声は私の頭の中の深くまで染み込み、視界を淡く明滅させた。
不可解な現象に私は息を呑み、揺れ動く勇者の唇から目を離せずにいた。
私は、さっき、何をした?
自身がしでかした行動とその意味がようやく明確な言葉として浮き上がり、しかし私はその理解を拒んだ。
はぁ、と勇者の熱い吐息が私の頬を撫で、潤んだ金の瞳が私の目を覗き込む。
その距離は少しずつ、少しずつまた近くなっていく。
じりじりと、じれったくなるような速度で。
「あるちゃん」
鼻先が触れた。
勇者の唇の動きが隔たれた空気を震わせて熱を伝えてくる。
私は動けない。
私を、魔王の行動を束縛せしめたものなど今まで誰一人いなかった。
ああそれならば今私の目の前にいる勇者は、やはり今までで最も強い勇者なのかもしれなかった。
光の加護を失って尚、彼女の両の目は輝いて、私を追い詰めていく。
私はその、とてもとても嬉しそうにまなじりを下げたその瞳から、目を逸らせない。
◆
新しい勇者が誕生したことを知ったとき、私の胸に去来したのは絶望だった。
押し付けられた責務からの解放を喜ぶことは私にはできなかった。
そう。
もう二度とあの人の姿を見ることができなくなってしまうという事実。
言葉など交わせず、たったの一撃で殺される。
しかしいつだってそれは一瞬で、でも痛くなくて。
痛みを覚えるのはいつも、生き返った直後だった。
胸の奥のその痛みを抱き締めながら、目蓋の裏で焼き付けた姿を思い返すのが私の習慣になっていた。
どうしていつも迎え入れてくれていたのかは分からない。
私の力では足を踏み入れることすら適わない最奥に、しかし私は挑む度に到達していた。
それはただの退屈しのぎだったのかもしれない。
あなたに会える。
唯一ただそれだけが、私を勇者足らしめていた。
光の加護の消失は緩慢だ。
授かるときもまた緩やかだった。
それは人間という器を壊さない為だと聞いたことがある。
私に残された時間は、あと一年。
眩い光が消えた後には、何も残らない。
◆
「あなたのことを聞かせて」
私の肩に頭を乗せ、勇者は覇気のない声で囁くように言った。
一人では無駄に大きいと感じていた玉座は、今は狭い。
私はまだ、この幸せそうに頬を緩めながら体温を押し付けてくる勇者が何をしたいのか分からずにいた。
だけど結局どうすればいいか思い付かず、求められるがまま口を開いた。
私の、魔王の、つまらない半生を語った。
この城からほとんど出たことがないこと。
三百年余りの時を生きていること。
数多の勇者を返り討ちにしてきたこと。
ただの一度も負けたことがないこと。
そして、人間とこうして触れ合ったのは、初めてだということ。
私が話をしている間ずっと隣の勇者は私の手を握り、目を瞑って私の肩に体重を預けていた。
頷きながら相槌を打ち、何が楽しいのか微笑む勇者に乗せられて、私は恐らく一生分の言葉をこの短い間に吐き出していた。
ともすれば退屈で何でもないこの時間が、だけど不思議と嫌ではなかった。
どうしてしまったというのだろう。
血と肉が湧き上がる戦いをこそ、私は勇者という生き物に求めていたのに。
「お前は」
どこに焦点を合わせるでもなくこぼした言葉に、勇者は手を……指を絡めて返した。
ぎゅうと握られたその手には様々な感情が込められているような気がした。
私はその全てを無視して、或いは気が付かない振りをして言葉を続けた。
「……お前は、何がしたいんだ」
さらに強く握り返された手には抗議の色が滲み出ていた。
視線を向けなくても分かる。どうやら勇者は思っていることが表に出やすいらしい。
それとも。
強く伝えたがっているから、だろうか。
私は小さく嘆息し、再度口を開いた。
「……メル、ちゃんは。何の為に、ここに来たんだ」
勇者であるならば、この問いの答えはただ一つだ。
魔王を倒す。
彼ら勇者の存在意義はそれだけの筈だ。
人間という生き物全ての意思を背負い、その身一つで戦う勇ましきもの。
しかし隣に座る、光の加護を失ってそれでも柔らかく笑う勇者の答えは、違った。
「あなたに会いに」
予想はしていたけれど、やはりその言葉に私の心は落ち着かない。
胸の奥の痛みはいつの間にか消えていた。
「何回も会っただろう」
「うん」
毎回、交わす言葉は一言だけだった。
勇者は何度も訪れ、そして一瞬で死に、遠く人間の地で復活した。
勇者は弱かった。
「それでも会いたかった」
最後にもう一度。そう呟いた勇者の一言にしかし私は何も思わなかった。
光の加護が消えたのだから、死ぬ覚悟で来たのだろうとしか思わなかった。
その一言に、どれだけの想いが込められていたかなんて。
私は、知ろうともしなかった。
◆
「お前らが、光の一族か」
陽の光が容赦なく降り注ぐ繁茂の時期に、その声は身体の芯まで凍りつかせる冷たさを纏っていた。
人間の領土の中心にある王国は栄えている。
城と見紛うほどに立派な、光の聖堂と呼ばれる場所のその中央に、それは何の前触れもなく現れた。
前代未聞だった。
歴代でも最強と目される魔王が、単身で直々に乗り込んでくるなど。
「……ふん。脆弱な短命種が」
世界中から集められた叡智の結晶、魔術師の中でも最高峰の彼らはしかし誰一人として言葉を発することができなかった。
ともすれば少女と呼べそうな見た目の魔王、その言葉に乗った魔力の波動は彼らの心を完全にへし折ってしまっていた。
桁違い、とも呼べない。
彼我の差がどれくらいあるのかすら分からない、それは余りにも単純な絶望だった。
彼らは自分たちがどんなものと戦っているのかすら、知らなかった。
「人間にしてはよく考えられていますね」
「勇者という象徴を祭り上げることで否応なしに魔力をこそぎ取る」
「上澄みは光輝き本来の目的は隠匿されると」
聖堂の中央で身体を浮かせて睥睨している魔王、その真下にできた幾つもの影から声が漏れ出てきた。
その影が質量を増し、ぶわ、と霧散した。
現れたのは線の細い、青い肌をした長身の魔族が三人。
「付いてくるなと言ったのに」
「申し訳ございません魔王さま。ですが我々も目にしておきたかったのです」
現れた魔王直属の配下は、人間の魔術師たちには目もくれず背を向け、魔王に向かって膝をつき頭を垂れた。
敵地のど真ん中でのその無防備とも取れる行動に、しかし魔術師たちは一歩も動けなかった。
動ける筈がない。
現れた魔族は人間たちにとっては姿を一度も見せたことのない魔王よりも、はっきりと目に見える脅威を刻み付けてきた存在だった。
「不老の秘術か。くだらない」
吐き捨てた魔王の目が侮蔑に染まった。
光の一族と呼ばれている彼らの頭の中は、魔王が現れてからずっと疑問符で埋め尽くされている。
何故こんなところに魔王が。
何故配下どもを引き連れて直接。
何故……光の加護の秘密を知っている。
「メル・キスティルという勇者がいたことを知っているか」
極力魔力が乗らないよう配慮された魔王の言葉に、しかし彼らは反応できなかった。
それは、致命的だった。
「そうか」
小さく嘆息した魔王の姿は、どこか人間味に溢れていた。
「彼女は、強かったぞ」
魔王の右手が持ち上がった。
その姿を羨望と憧憬と崇拝で見上げる配下たち。
開かれていたその手がすぅ、と握り込まれ、聖堂内にいた人間たちは絶命した。
「これか」
聖堂の最奥、祭壇の上には光を虹に返す輝く杯が置かれていた。
光の一族と呼ばれていた彼らが何十年何百年もかけて集めた、純然たる魔力の結晶。
数億いる筈の人間全ての力を束ねたにしては、勇者という存在はあまりに弱すぎた。
彼らは文字通り、ただの生贄だった。
世界中の魔力を受け止め、ろ過できる存在。それが、彼らが勇者と呼ぶものの正体だった。
能力の強化は副次的なものだった。『生き返ってしまう』のもまた同様に。
混じり物、ゴミやカスを取り除くことをろ過という。
光の加護と名付けられた『ただの制御魔術』によって強制的に魔力を流し込まれ続けた勇者は、その身体に不純物が溜まっていく。
それがいっぱいになったとき彼らは役目を終え、そして次のろ過装置が準備される。
吐いて捨てるほどに増殖した人間の有効利用。
極端に効率の悪い大魔術と記されているそれは、最大限に合理的な魔術だった。
「どうしますか魔王さま。これ自体にはまだ使い道はありそうですが」
彼ら魔族にとって、光の加護というシステムは人間から魔力を搾取するのにこの上なく便利な代物だと言えた。
魔王その人が手を加えれば、全ての人間から魔力を奪いまたたく間に死滅させることすら可能だろう。
「いらない」
魔王は一言だけ呟いてから杯を手に取ると、配下には一瞥もくれずにその姿をかき消した。
配下たちは魔王のいなくなった虚空に向け、かしこまりました、と頭を下げてから同様にその姿を影に消した。
どの時間帯でも光が万遍なく照らすよう巧みに窓が配された聖堂の中には、一見すると若々しい人間たちの死体が幾つも転がっていた。
それらは誰も見ていない中で急激に水分を失い、しわくちゃに枯れて色を失った。
◆
「ただいま」
誰もいない広々とした玉座の間に、私の声が寒々しく響いた。
答える声はない。
無駄に大きな玉座には一人の少女が横になっている。
代々魔王に受け継がれてきた外套の下で、その姿はまるで眠っているようだった。
空っぽに見える杯に唇を押し付け、傾けた。
あまりにも純粋で澄みすぎている魔力は気持ちが悪かった。
その全てを飲み干し、杯を投げ捨てた。
カランカランと遠ざかる乾いた音を聞きながら何百もの魔術を重ね、身体の中で組み上げていく。
私の身体から漏れた魔力の余波で空気がビリビリと震えた。
彼女の身体を蝕んでいたものは、魔王である私の力でもどうしようもなかった。
それは毒でもなく、呪いでもなく、傷でもなかった。
ただの死ではない、光の加護によるその死は歪んでいて、蘇生の魔術などでは意味がなかった。
だから、私は初めて力を求めた。
「……私は、あなたの要求に、素直に応える」
私が考えた、私が作った、ただ一つの目的の為だけの魔術。
私は玉座の前にひざまずき、少女の頬に触れた。
呼吸はしていない。
その肌は冷たく、ざらついている。
「メル」
その半開きの乾いた唇に、唇で触れた。
◆
光の加護を失った人間たちは、魔族に対抗する手段を失った。
魔族の侵攻は緩やかだったものの、領土の維持すらままならない状況に、人間たちはやはり勇者を求めた。
「過去の勇者たちを弔え。そして二度と勇者を生み出すな」
それは人間全てに向けて放たれた魔王の言葉だった。
そうすれば、『最後の勇者』が維持した領土は守ろう、と。
反発は大きかった。
人々は、魔王が勇者を恐れていると思った。
しかしそうした人々の声は、無人になったとある城が一撃の元に吹き飛ばされ更地になったのをきっかけに、次第に収束していった。
魔王は約束を守った。
魔族との対話など不可能だと思っていた人間にとって、この最初で最後の盟約は様々な変化をもたらすことになった。
争いや諍いが完全になくなったわけではなかったが、大量の血が流れ地図の上から村や町が消えることはなくなった。
その比較的平穏な時代は人間の目からすれば長く、魔族からすれば短い間続いた。
◆
細かく震える睫毛が私の胸の中に奇妙な光を灯した。
うっすらと赤みを帯びていく頬につられるように私の頬も微かに緩んだ。
くぐもった吐息が私の胸を握り締め、まばたきの間呼吸ができなくなった。
「……、んぁ」
だらしなく開いた唇の端からよだれが垂れた。
それを掴んでいた外套でぐしぐしと拭き取りながら、勇者は目を覚ました。
「ぁれ……、わたし……?」
金の瞳に光が宿り、焦点が結ばれて魔王の姿が映し出された。
「また会ったな」
呆けた顔で固まった勇者は私をじぃっと見つめている。
そして見開かれたその目から涙が一筋こぼれた。
震える唇が言葉を紡ぐのを、私は辛抱強く待った。
「ある、ちゃん。……どうして」
私の身体はもう、駄目だった筈なのに。
そう言葉を吐きながら自らの身体を抱いた勇者は俯き、涙をぽろぽろとこぼした。
「わた、し……生きてる……」
全てを無効化する魔王の外套は涙も弾くらしい。
玉座に落ちる涙の粒を目で追いかけながら、私は何かが満たされていくのを感じていた。
それは温かくて、一人では決して得られなかったものだと思った。
「……どうして、助けてくれたの?」
勇者の嗚咽混じりの声に私はすぐに反応ができなかった。
涙でぐしゃぐしゃになった勇者の顔には感情の色が渦巻いていて、その解読は私には不可能に見えた。
「簡単に死なれたら困る」
私が用意していた答えは情けない逃げの一手だった。
小さく首を傾げた勇者に私は言葉を続けた。
「……私に変な術をかけただろう」
勇者は涙をぽろぽろとこぼしながら呆けた顔をして、すぐに力なく笑った。
ころころと変わるその表情に私は目を奪われて、次の言葉を吐くのに苦労した。
「この術を解いてもらうまで、死なせられない」
どうしようもなく無様な言い訳だった。
言った直後に激しい後悔に襲われ、しかしこれ以上の言葉は出てこなかった。
湧き上がった衝動は山を一つか二つ壊せば収まるかもしれなかった。
よいしょ、と玉座に座り直した勇者の肩から外套が滑り落ち、白い滑らかな肌が露になった。
何も身に纏っていないその慎ましやかな胸を反らし、勇者は両腕をゆっくり持ち上げた。
ほんのりと笑みを浮かべ、しかし涙は止まっていないようだった。
勇者の両の手首が淡く青く光を放ち、揺らめいた。
交錯した両腕が高く掲げられ、その優しくすら見えた光は余韻も残さず呆気なく消えた。
「ふぅぅ」
下ろした腕で目元をぐいっと拭った勇者は立ったままの私を見上げ、ちょっとだけ悪そうな笑顔を浮かべた。
……今度は何をしたのだろう。
やはり私の身体に変化はなかった。
「また術をかけました」
かかってない。
見たところ『催眠術』なるものと同じような動きだったけれど。
そしてどうして、解いたのではなく再び術をかけようとしたのだろう。
勇者は私の目を見つめて、言った。
もう涙は止まっていた。
「私を好きになる術」
「……、はは」
思わず笑ってしまった。
だって。
「それはもう、かかってる」